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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第一章 怪異読解篇
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第八話 休みの定義

 休みというものは、連続していた行為の流れに意図的な切断を入れることで成立する概念である。

 だが、その切断がなにを指すのかは、人それぞれ異なる。

 完全な停止を指す者もいれば、負荷の方向を変えることを指す者もいる。


 そして、ごく一部の人間にとっては──その定義そのものが未定義のまま放置されている。


(休みをいただいたのはいいが……休みとは、具体的になにをすればいいんだろう)


 結城記乃はまさに、その〝休みの定義がない人間〟であった。


 記乃は、官付の廊下の中央で足を止め、指先で紙片(メモ)帳の端をなぞった。

 薄い紙の繊維が、わずかにざらつきを返す。湿度を含んだ空気の中で、紙は微細に柔らかくなっている。その手触りだけは、いつもと変わらない。


 だが、そこに書かれている内容は、明らかに異質だった。


 ──本日、業務停止。

 ──理由、休養。

 ──指示、真壁記録官長。

 ──発端、澄子妃のご意向。


(業務停止、は理解できる)


 記乃は思考を一つずつ分解する。

 仕事をしない、ということだけは明確だ。


(問題は、休養)


 休養という語は、結果を指すが、手段を示さない。なにをすれば休養が成立するのか、その手順が欠落している。

 なにを休養と呼ぶのか人それぞれ違うのだから、正解の手順も形も、当然、人それぞれ違ってくる。


(手順がないものは、実行が困難だ)


 記乃は紙片を裏返した。

 白紙。何も書かれていない面が、こちらを見返しているように見える。


(空白は、情報が欠落している状態)


 その空白を埋める必要がある。と、判断する。

 記乃は、ひとまず歩き出した。

 目的は設定していない。ただ、停止状態を避けるための暫定的な選択である。


 足音が廊下に規則正しく響く。

 呼吸は一定、身体の動きに無駄はない。

 普段と何も変わらない。


(これは、通常行動と同一)


 即座に評価する。

 目的がないだけで、行為自体は日常と同じ負荷を持つ。


(おそらく、これは休養ではない)


 記乃は立ち止まった。今度は、完全に停止する。

 廊下の端。壁際。誰の動線にも干渉しない位置で、姿勢を崩すことなく、その場に留まる。

 時間が流れる。それだけ。

 なにも起きるはずもなく、思考だけが動いている。


(これは、行動が停止しているだけで、思考は継続している)


 完全な休養とは言えない。

 むしろ、思考の負荷が増している。


(無意味な時間の増加)


 結論を出す。

 これは価値が低い、と。


 記乃は再び歩き出した。

 同じ地点を往復する。

 動きながら考える方が、まだ処理しやすい。

 そのとき、背後から声が落ちた。


「おい」


 真壁の声に、記乃はすぐに振り返る。

 真壁の眉間には、いつも通りの皺がある。だが、その皺の深さは、通常よりわずかに増していた。


(面倒が増えたときの顔だ)


「何をしている」

「休養です」


 記乃は即答する。

 真壁の表情が、明らかに歪んだ。


「それが休みか」

「現時点での暫定定義です」

「どのあたりが」

「業務を行っていません」

「廊下を往復しているだけだろう」

「はい」

「それは休みではない」

「では、休みとは具体的にどんなものなのでしょうか」


 真壁は口を開きかけて、止まった。

 言葉を選んでいる。が、どうやら適切な定義が見つからないらしい。


「……俺に聞くな」

「指示は真壁さんから出ています」

「発端は澄子妃だ」

「久世様経由ですね」

「そうだ」

「では久世様に確認を」

「やめろ」


 真壁は即座に遮った。


「余計な面倒を増やすな」

「定義が不明確なままでは、実行が困難です」

「お前というやつは……」


 真壁は額を押さえた。

 指の間から、深いため息が漏れる。


「少しは何も考えずにいろ」

「思考の停止は不可能です」

「できる」

「できません」

「やれ」

「できません」


 応酬は短い。

 だが、どちらも譲らない。

 真壁は手を振った。


「もういい。医局に行け」

「医局」

「相良がいる。あそこなら多少はましだ」

「相良さんと会話する場合、知識の整理が必要になります。それは、休みになるのでしょうか」

「いいから行け」

「……承知しました」


 記乃は一礼して、方向を変えた。

 医局へ向かう。

 歩きながら紙片を取り出す。


 ──休養、定義未確定。

 ──真壁、指示継続。

 ──医局訪問へ移行。


 書き終え、万年筆を収める。


(結局、行動している)


 だが、先ほどよりはましだ。少なくとも、目的がある。

 医局の戸を開ける。


「失礼します」

「入れ」


 相良の声。

 そして、もうひとつ。


「やっぱり来たあ」


 化野だった。

 記乃は室内へ入る。


 薬草の匂いが鼻を打つ。乾いた葉の香りと、わずかに甘い根の匂い。

 そこに、医局には似つかわしくない煙の匂いが混ざっている。

 細い煙が、窓から入る風に揺れていた。


(……煙草だ)


「また医局で煙管ですか」

「いつものことだ」


 相良が答える。

 筆を動かす手は止まらない。


(黙認状態)


 記乃は窓の位置を確認する。

 風は外へ流れている。

 最低限の換気は成立している。

 だが、問題の本質はそこではない。


(規律の逸脱)


 だが、指摘しても改善されない場合、それは慣習になる。


(慣習化した逸脱)


 記乃は判断を保留した。


「本日、休養を命じられました」

「そうか」


 相良は短く返す。


「それで医局に来たのか」

「はい」

「なぜ」

「休養の定義がわからず、困っています。官付の廊下を歩いていたら、真壁さんにここを訪れるように、と」

「はあ……」

「休日の定義を明確にしたいのですが、どうしたらいいでしょうか」


 化野が笑い出した。


「ははは、いいねえ」

「どの点がでしょうか」

「休みの定義なんてものを調査して歩く人間は初めて見た」

「調査ではありません。確認です」

「同じだよ」


 相良が少しだけ顔を上げた。


「お前、休めないのか」

「手順が不明です」

「何もするな」

「非効率です」

「効率を考えるな」

「困難です」

「……面倒だな」

「自覚はあります」


 化野が煙を吐く。

 煙は細く伸びて、空中でほどける。


「じゃあさ、方向を変えればいい」

「方向」

「普段やっていないことをやる。それを休みとする」


 記乃は思考する。

 普段やっていないこと。

 記録をしない。

 分析をしない。

 仮説を立てない。


(……継続困難)


「他に、なにかありますか」

「甘いものを食べる」

「それはまだやっていません」

「外を歩く」

「それはもうやりました」

「誰かと話す」


 記乃は二人を見る。


「それは現在の状態に該当しますね」

「もう、この状況が休みってことでいいんじゃない?」


 化野は笑う。

 記乃はわずかに思考を止める。確かに、状態は変化している。

 事件でもなく報告でもない、ただの会話。


(負荷の種類が異なる)


 記乃は紙片を取り出した。


 ──休養、暫定定義。

 ──通常業務との差異。

 ──負荷方向の変化。


「書くな」


 相良が言う。


「記録です」

「休みだろう」

「内容の整理です」

「もういい」


 相良は諦め、化野は笑い続けている。

 記乃は万年筆を置いき、呼吸を整える。

 医局の空気を取り込む。

 薬草の匂い。微かな煙。外から入る、湿った風。

 どれも、事件現場とは違う。


(悪くない)


 評価する。

 違和感はあるが、拒絶はない。

 むしろ、思考の流れが少し緩やかになっている。


(たしかに、これは休養と呼んでいいのかもしれない)


「相良さん」

「なんだ」

「甘いものはありますか」


 相良の手が止まった。

 化野が笑う。


「……ある」


 相良は棚から包みを取り出した。

 出された砂糖菓子の表面は、少しだけ乾いており、指で触れると細かい砂糖がほろほろと崩れる。


 一粒口に含むと、甘い。

 単純な味。

 複雑な分析を必要としない。


(これは、思考を要求しない)


 その点で、非常に効率がよい。

 記乃はもう一口食べた。

 甘さが舌に残る。が、不快ではない。


(悪くない)


 再評価する。

 紙片を見た。

 追記するか迷うも、やめた。


 これは記録するべき事実ではない。

 ただの感覚だ。


(感覚は、記録に適さない)


 だが。


(人間は、感覚で動くこともある)


 砂糖菓子をもう一つ取った。

 医局の中で、化野の笑いと、相良のため息が重なる。


 休養の定義は、まだ完全ではない。


 だが──

 少なくとも今、業務とは異なる時間が流れている。


 それは停止ではなく、変化だ。


 記乃はその結論を、ひとまず仮定として保持した。


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