第七話 医局の煙
縁というものは、見えないところで先に結ばれていることがある。
本人たちが互いの名を知らず、顔も知らず、まだ言葉を交わしていないころから、だれかの口を通り、別の場所で、すでに存在だけが行き来している。
人間関係というものは、直線ではない。
家と家、仕事と仕事、噂と記憶、過去の会話。
そうしたものが細い糸のように絡まり、ある日、目の前の相手が、まったく知らない人間ではなかったと気づくことがある。
(相良さんに確認することがあったんだった)
記乃は、医局へ向かう廊下を歩きながら、紙片の束を胸元で押さえていた。
後宮と官付を繋ぐ門の近くにある医局は、薬草と消毒に使う酒精の匂いが薄く混じった、独特の空気を持っている。
後宮の香ほど甘くはない。
官付の墨ほど乾いてもいない。
人間の身体を扱う場所らしい、湿り気と現実味のある匂いだった。
記乃は戸の前で足を止め、軽く声をかける。
「相良さん、失礼します」
「入っていい」
中から相良要一の声がした。
記乃が戸を開けると、医局の中には相良がいた。
それは当然だった。医官なのだから、医局にいること自体に違和感はない。
問題は、その隣だった。
化野幽が、椅子に腰かけ、長い煙管を手にしていた。
しかも、火が入っている。
細い煙が、薬棚の前でゆるく立ちのぼっていた。
記乃は一瞬だけ沈黙した。
「医局で煙管はいかがなものでしょうか……」
相良は書き物を続けたまま、淡々と言った。
「いつものことだ」
「いつものこと、で済むのですか」
「換気はしている」
「そういう問題でしょうか」
「注意しても聞かない」
化野は楽しそうに煙を吐いた。
「要一くんは昔から諦めが早いよねえ」
「あなたが言うことを聞かないだけです」
相良の声は平坦だった。
だが、そこには慣れた疲労がある。
記乃は医局の窓が開いていることを確認し、少しだけ距離を取った。
──医局内、化野幽在室。
──煙管使用。
──相良要一、黙認状態。
──換気あり。
「記録しなくていい」
相良が言った。
「事実ですので」
「その事実は報告に使わないでくれ」
「用途未定です」
「なお悪い」
化野が肩を揺らして笑う。
「いやあ、相変わらずだねえ、君は」
「相変わらずと言われるほど、長い付き合いではないと思いますが」
「濃度の問題だよ。期間じゃない」
「濃度」
「そう。君といると、退屈しない」
記乃は返答に困り、相良へ視線を向けた。
相良は、もう慣れているのか、表情を変えずに薬包を整理している。
「化野さんは、以前から医局に出入りしていたのですか」
「ああ」
相良は短く答えた。
「この一年、私はお会いしませんでしたが」
「ちょうどお前がいない時機で来ていたんだろう」
「暇つぶしにね」
化野は煙管を指で回した。
「要一くんのところは、静かでいいんだよ。薬の匂いも悪くないし、置いてある書物もそこそこ面白い」
「医局は暇つぶしの場ではありません」
「でも、要一くんは追い出さない」
「追い出す労力が見合わないんで」
「ひどいなあ」
化野は笑った。
その笑い方に、記乃は少しだけ違和感を覚えた。
化野の軽さは、初対面のときから変わらない。だが、相良に向ける軽さは、相手を試すための刃ではなく、長い時間を経て角の取れた冗談に近い。
少なくとも、最近知り合った人間同士の距離ではなかった。
(相良さんと化野さんは、思ったより古い知り合いらしい)
記乃は紙片を出そうとして、やめた。
さすがに、目の前で人間関係を記録し始めるのは、会話が進みにくくなる。
化野は記乃をじっと見た。
それから、ふと思いついたように目を細める。
「もしかしてさあ」
「何でしょうか」
「要一くんが昔言っていた〝結城家のお嬢さん〟って、君のこと?」
記乃は相良を見た。
相良の手が、一瞬だけ止まった。
「化野さん」
「おや、止めるのが遅いねえ」
「言わなくていいことだ」
「でも、本人がいるんだよ。むしろ確認しない方が不自然だろう?」
「言っていた、とはどういうことでしょうか」
記乃が問うと、化野は楽しそうに身を乗り出した。
「勉強しまくってばかりの、堅物の面白い女の子がいるって。昔、聞いたことがあってさあ」
「おい」
相良の声が低くなる。
だが、化野は止まらない。
「要一くんが珍しく年下の子の話をするから、覚えていたんだよ。いやあ、あれが君だったとはねえ」
「相良さん」
記乃は相良を見る。
「私は、堅物の面白い女の子、という認識だったのでしょうか」
「化野が勝手に言っているだけだ」
「でも、勉強しているとは言っていたのですね」
「……言ったかもしれない」
「面白いとも?」
「言ったかもしれない」
「堅物とも?」
「それは言っていない」
「要一くんはね、言葉を選ぶから直接は言わないんだよ。けれど、話の内容からして堅物だなとは思った」
「化野さん」
相良は額に手を当てた。
記乃は少しだけ考える。
相良が自分の話をしていた。それも、化野に。
知識をくれる人間として認識していた相手が、自分を他者に話題として出していた。
それは不快ではない。
ただ、分類に困る。
(相良さんは、昔から私を観察対象として見ていたのだろうか)
相良は、記乃の顔を見て、深く息を吐いた。
「変な方向に考えるな」
「まだ何も言っていません」
「顔に出ている」
「そうですか」
「お前は、分かりやすいときと分かりにくいときの差が大きい」
化野がまた笑った。
「分かるなあ、それ」
「同意しないでください」
「要一くん、話してあげればいいじゃないか。昔話くらい」
「医局でする話ではない」
「ここで煙管を吸うよりは健全なんじゃない?」
「自覚はあるんですね」
記乃が言うと、化野はくつくつと笑った。
相良は諦めたように椅子へ腰を下ろした。
「短く済ませる」
「短くしなくていいよ。私は暇だから」
「あなたの暇に付き合う義務はない」
「要一くんは冷たいねえ」
相良は化野を無視し、記乃へ視線を向けた。
「化野とは、昔から面識がある」
「そのようですね」
「若いころ、この人はとある家に嫁いでいた」
化野は煙管を持つ手を止めなかった。
笑みも崩れない。ただ、その言葉が落ちた瞬間、医局の空気がほんのわずかに変わった。
記乃は、その変化を見逃さなかった。
化野の過去に触れる話。
それも、本人が軽く扱っているようでいて、軽くない種類のもの。
「相良家と、その家に面識があった」
相良は続けた。
「その縁で知り合った」
「それだけ聞くと、普通の縁ですね」
「普通ではなかったが、詳しく話す必要はない」
「そうですか」
記乃はそれ以上踏み込まなかった。
必要のない傷口を開くことは、調査ではない。
化野は煙を吐いた。
「要一くんは昔から可愛げがなかったんだよ」
「あなたに言われたくありません」
「頭がよすぎて、同年代とは話が合わない。だから、大人とばかり話す。しかも、話題が薬だの病だの書物だの、可愛げがないったらない」
「あなたも同じようなものだったでしょう」
「私は可愛げがあったよ」
「自称ですね」
「ひどいなあ」
化野は楽しそうにけらけらと笑う。
相良は淡々としている。
けれど、記乃には分かった。
相良も、完全に嫌がっているわけではない。
言葉にはしない。表情にもほとんど出さない。
だが、この会話の呼吸は、長い付き合いがなければ成立しない。
化野にとって相良は、年の離れた弟のようなものなのだろう。相良にとって化野は、面倒ではあるが、切り捨てるほど遠い相手ではない。
(人間関係は、表情よりも会話の間に出ることがある)
記乃はそう判断した。
相良は、少しだけ咳払いをした。
「俺が十六のころ、結城家へ行ったことがある。相良家と結城家は、もともと出入りのある家だったからな」
「それは覚えています」
「お前は十一だった」
「はい」
「庭先で見かけた。ずいぶん静かな子どもだと思った」
「そうでしたか」
「密記殿にその子どものことを聞いたら、赤子のころに拾ってきた、と言われた」
記乃は、何度か瞬きをした。
「父上らしいですね」
「初めは比喩だと思った」
「事実です」
「あとから知った」
相良は少しだけ遠い目をした。
「結城家の長女として育っているが、拾われた子だと聞けば、苦労もあるだろうと思った」
「……まあ、なにもなかった、とは言いません」
記乃は淡々と答えた。
養母のこと。
家の空気。
義兄が陰で菓子や玩具を持ってきてくれたこと。
そうしたものは、ここで並べる必要がない。
相良も、それを察しているのだろう。
「密記殿に許可を得て、お前の部屋へ行った」
「覚えています」
「あのとき、お前はほとんど話さなかった」
「相良さんも、あまり話さなかったかと」
「そうだな」
「会話としては、成立していなかったと思います」
「否定はしない」
化野が、面白そうに笑った。
「無口な少年と無口な少女が部屋で向かい合っていたわけか。なかなか見物だねえ」
「見物ではありません」
記乃と相良の声が重なった。
化野は満足そうに笑った。
「息、合うねえ」
相良は無視した。
「お前が勉強の手を止めたとき、読んでいた本の内容を見た。間違えているところがあったから、教えた」
「はい」
「そのとき、初めてこちらを見た」
記乃は記憶をたどった。
薄暗い部屋、机の上の本。
万年筆ではなく、当時使っていたのは毛筆。
知らない年上の少年。
会話は弾まなかった。
だが、彼は本の内容を理解していて、自分が分からなかった箇所を説明した。
記乃にとって、それは充分だった。
(自分に知識をくれる人間)
その分類は、とても明確だった。
「相良さんは、私に知識をくれる人間でした」
「分類が雑だな」
「分かりやすい分類です」
「俺は教材ではない」
「いまはそう認識しています」
「いまは」
相良は少しだけ眉を寄せた。
化野は完全に楽しんでいる顔だった。
「いいじゃないか、要一くん。知識をくれる人間。君らしくて」
「褒めていませんよね」
「褒めてるよ」
「信用できません」
記乃は、少しだけ首を傾げる。
「相良さんは、なぜその後も結城家に来てくださったのですか」
相良は一拍、黙った。
化野の目が細くなる。
「おや」
「黙っていてください」
「はいはい」
相良は記乃を見た。
「お前が、教えるとすぐに理解したからだ」
「はい」
「医学や薬学の話をすると、特に食いつきがよかった」
「面白かったので」
「オランダ語も」
「面白かったので」
「語学の習得速度がおかしかった」
「父上にも似たようなことを言われました」
「密記殿は、喜んでいた」
「そうでしょうね」
「だから、時折見に行った」
記乃は少し考えた。
「勉強の進捗確認、ということでしょうか」
「……そう思っておけばいい」
「違うのですか」
「違わない」
化野が煙管を口元へ持っていきながら、横から言う。
「要一くんはね、君を気に入っていたんだよ」
相良が、即座に化野を見た。
「余計なことを」
「でも、事実だろう?」
「言い方の問題です」
「気に入っていた、以外に何て言うのさ」
「……面倒を見ていた」
「それは結果」
「勉強を教えていた」
「それも行動」
「化野さん」
相良の声が、わずかに低くなる。
記乃は二人を見比べた。
「気に入っていた、というのは、どういう意味でしょうか」
相良は目を閉じた。
化野は笑いを堪えている。
「お前は、言葉をそのまま確認しようとするな」
「意味が複数考えられるためです」
「悪い意味ではない」
「では、よい意味ですか」
「そうだ」
「そうですか」
記乃は頷いた。
「それは、ありがとうございます」
相良は、なぜか少し疲れた顔をした。
「礼を言われるものでもない」
「好意的に扱っていただいていたのであれば、礼を言うべきかと」
「好意的」
化野がとうとう笑い出した。
「あはは、要一くん、よかったねえ。好意的だって」
「黙ってください」
「いやあ、これは楽しい」
「医局で騒がないでください」
「煙管よりは健全だろう?」
「どちらも問題です」
記乃は、二人のやり取りを見ながら、少しだけ納得した。
相良要一は、昔から近くにいた。ただ、家族ではない。教師とも少し違う。
医官であり、知人であり、時折、知識を持ってきてくれた年上の人間。
記乃が相良をそう分類していた一方で、相良は相良で、記乃をただの知人の子どもとしてではなく、目をかける対象として見ていたらしい。
(人間関係というものは、片側の分類だけでは足りない)
記乃は、そう思った。
化野は煙管の火を落とし、少しだけ真面目な顔をした。
「要一くんは、頭がいいぶん、昔から同年代とは話が合わなくてねえ」
「その話は」
「もう少しくらい、いいじゃないか」
相良は諦めたように黙った。
「年上とばかり話す少年だった。大人びているというより、子どもでいる場所が少ない感じだったね」
化野の声は軽い。
だが、言葉の芯は軽くない。
「そんな要一くんが、自分より年下の子を面白がっている。そりゃあ、気になるだろう?」
「私は見世物ではありません」
「もちろん。だから最近は、ちゃんと一緒に事件をほどいているじゃないか」
「それも見物の延長では」
「否定はしないよ」
「してください」
化野は笑った。
「でもね、記乃」
急に名を呼ばれ、記乃は目を上げる。
「君と話し、行動を共にできるのは、楽しいよ」
その言葉は、軽い調子で言われた。
だが、いつもの茶化しとは少し違った。
「君は怪異を怪異として片づけない。人間が怖がるものを、怖がる理由ごと分けていく。そこが面白い」
「面白い、ですか」
「うん」
「最近、そればかり言われている気がします」
「それは、君が面白いからだねえ」
「評価基準が分かりません」
「そのままでいいよ」
化野は煙管を置いた。
「要一くんが昔話していた結城家のお嬢さんと、こうして一緒に怪異をほどいている。縁というのは、なかなか悪くない」
相良は、少しだけ視線を逸らした。
「勝手にまとめるな」
「照れてる?」
「違います」
「本当に?」
「違います」
記乃は相良を見る。
「相良さん」
「何だ」
「昔、勉強を教えていただき、ありがとうございました」
相良は一瞬、黙った。
「今さらだな」
「今、分類が更新されましたので」
「分類」
「相良さんは、知識をくれる人間であり、私を好意的に見てくれていた人間でもあった、と理解しました」
「その言い方は、少しどうにかならないのか」
「不正確でしたか」
「いや」
相良は、少しだけ息を吐いた。
「不正確ではない」
「では、このままにします」
「そうか」
化野が、ひどく満足そうに頷いた。
「よかったねえ、要一くん」
「あなたは黙っていてください」
医局の窓から、風が入る。
薬草の匂いと、消えた煙管の残り香が混ざり、医局の空気が少しだけ揺れた。
記乃は本来の用件を思い出し、紙片を取り出した。
「ところで、本題ですが」
「今か」
相良が少し呆れた顔をする。
「はい。先日の白骨の件で、確認したいことがあります」
「分かった」
「骨の状態と、推定される経過年数についてです」
「そこは報告書に書いた」
「読みました。追加で、衣類の保存状態との照合をしたく」
「分かった。資料を出す」
相良はすぐに医官の顔へ戻った。
化野も、それ以上茶化さなかった。
医局の空気が、仕事のものへ変わる。
記乃は紙片に万年筆を置いた。
──医局訪問。
──相良要一へ白骨所見の追加確認。
──化野幽、在室。
少し迷ってから、追記する。
──相良要一、幼少期より結城家と交流あり。
──医学、薬学、オランダ語の学習補助。
──化野幽、相良と旧知。
そこで筆を止めた。
これを事件記録に載せる必要はない。
だが、自分の中で、関係の線を引き直すには充分だった。
人間関係は、帳簿ほど単純ではない。
けれど、名前と記憶と会話を照合すれば、少しずつ形が見えてくる。
相良要一。
化野幽。
そして、結城記乃。
三人の線は、いまこの医局で初めて結ばれたわけではない。
もっと前から、見えないところで、ゆるく交差していた。
記乃は万年筆を握り直す。
窓の外では、雨が降りそうで降らない曇り空が広がっていた。
縁というものも、似たようなものかもしれない。降るまで気づかない湿気のように、すでにそこにあり、あるとき突然、肌に触れて分かる。
その感覚を、記乃はひとまず、紙の上ではなく胸の内側へ置くことにした。




