第六話 青く冷たい炎《後編》
名前というものは、事実を呼び寄せるための糸になる。
だれか、と曖昧に呼んでいるうちは、事実はまだ霧の中にある。けれど、名が出た瞬間、霧はわずかに形を失い、その奥に立っている人間の輪郭が見えはじめる。
辻峰。
たった二文字の名が、青緑色の炎と、祠の下の白骨と、木村しづの自死とを、一本の細い糸で結びはじめていた。
(辻峰という禁衛)
記乃は、松田から聞き取った内容を整理しながら、官付の記録蔵へ戻っていた。
記録蔵の空気は、先ほどよりも重く感じた。古い紙の匂いは変わらない。墨の乾いた匂いも、棚の間に溜まる薄い埃も、何ひとつ変わっていない。
ただ、そこに一つの名前が加わっただけで、同じ空間の意味が変わる。
記録は、そういうものだ。
ただ残されているだけでは、紙の束に過ぎない。だが、必要な問いを向けた瞬間、紙は黙っていた事実を差し出す。
記乃は禁衛名簿の棚を探し、理成四年当時の記録を取り出した。
紙は乾いていたが、端がわずかに擦れている。
多くの手に触れられた記録ではない。しかし、まったく開かれていないわけでもない。
記乃は机に帳簿を置き、万年筆を持った。
──確認対象、禁衛・辻峰。
──松田証言、木村しづと親密関係。
──要確認、所属、勤務区域、理成四年六月当時の配置。
指先で行を追う。
禁衛の名は、規則正しく並んでいる。
姓名、年齢、出自、配属、勤務区域──
表向きには、どれもただの項目だ。
だが、その項目の隙間には、人の生活がある。
眠る場所、歩く道、見張る門、交わした言葉、そして……守ろうとした相手。
記録は人間を削ぎ落として項目にする。
だからこそ、記録を読む者は、その削ぎ落とされたものを勝手に補ってはならない。
(補うのではなく、照合する)
記乃は、目的の名を見つけた。
──辻峰佐介。
──禁衛。
──年齢、二十三。
──出自、下級武家。
──理成四年六月時点、後宮外縁警備担当。
──担当区域、女御棟外周および雑木林周辺巡回。
筆先が止まる。
線は、さらに濃くなった。
女御棟外周、雑木林周辺──木村しづが勤めていた棟。都筑智子が消えた場所に近い区域。
そして、青緑色の炎が灯された祠。
項目は静かに並んでいるだけなのに、意味だけがこちらへ歩いてくる。
記乃は紙片に記録を取る。
──辻峰佐介、禁衛。
──理成四年六月、女御棟外周・雑木林周辺警備。
──木村しづとの接点成立可能。
──祠周辺への継続的接近可能。
化野幽は、少し離れた場所で別の帳簿を眺めていた。
記乃が筆を止めたのを見て、軽い調子で近づいてくる。
「見つかった?」
「はい」
「当たり?」
「少なくとも、外れてはいません」
「君は本当に、当たりとも外れとも言わないねえ」
「断定には、本人確認が必要です」
記乃は帳簿を閉じた。
「辻峰佐介は、現在も禁衛です。祠周辺の調査に加わっている可能性があります」
「本人が現場にいるかも、ってことか」
「はい」
化野は、わずかに目を細めた。
「それはまた、趣味が悪い」
「趣味の問題ではありません」
「そうだったね」
化野は笑った。だが、その笑いは薄かった。軽い声の奥に、わずかな緊張がある。
人の信仰や噂を面白がる女でも、死者のそばに立つ生者の未練までは、完全に娯楽として扱わないらしい。
記乃は紙片をまとめた。
「現場へ戻ります」
「行こうか」
「はい」
記録蔵を出ると、外の空気は湿っていた。
雑木林へ戻る道は、先ほどよりも人の気配が増えている。白骨死体が出たことで、禁衛の数も増え、遠巻きに様子を窺う者たちの視線も増えた。
怪異の火が灯っていたとき、人々は祠から離れていた。
だが、死体が出たと知れば、今度は遠くから見たがる。
人間は恐怖から距離を取る。
そして、他人の死には安全な距離から近づこうとする。
(面倒な性質だ)
記乃は足を止めずに進んだ。
祠の前には、掘り返された土がまだ湿ったまま残っている。
骨は、相良たちの確認のため、仮の覆いをかけられていた。
そこから少し離れた場所に、久世と三浦がいる。
久世は珍しく、普段よりも笑みが薄かった。
首元には、例の灰簾石が青紫にきらりと光っている。
場違いなほど美しい石だった。
雨上がりの空を固めたような色は、死体の出た雑木林の中では、かえって異物のように見える。
三浦は静かに周囲を見ていた。その視線は、久世を見張るものでもあり、場を測るものでもある。
記乃は軽く頭を下げた。
「久世様」
「何か分かったか」
「辻峰佐介という禁衛を探しています」
三浦の視線がわずかに動いた。
「禁衛ですか」
「はい。木村しづと親密関係にあった人物として、証言が出ました」
久世は掘り返された土を見る。
「その男が、炎を灯していたと?」
「現時点では可能性です。ただし、祠周辺への接近機会があり、隠蔽を継続する動機も成立します」
「殺したのは」
「おそらく、木村しづです」
久世の目が細くなる。
その横で、三浦が静かに息を吸った。
「木村しづは、都筑智子を殺害した可能性があります。その後、自死。辻峰佐介は、都筑智子の遺体が見つからぬよう、青緑色の炎を灯し続け、人を遠ざけていた可能性があります」
「恋人を守るためか」
「本人確認前です」
記乃は即答した。
「ただし、その線が濃厚です」
久世は、わずかに笑った。
面白がっているような笑みではない。
何かを測るような顔だった。
「お前の調査は、よく切れる刃物のようだな」
「事実確認です」
「その刃で、人を切ることもある」
「切るのは私ではありません」
記乃は紙片と万年筆を持ち直す。
「私は、どこに刃があるかを記録するだけです」
久世は何も言わなかった。
そのとき、禁衛の一人がこちらへ歩いてきた。
年若い男だった。
顔色は悪くない。だが、目の奥に、妙な固さがある。
姿勢は整っている。剣帯も乱れていない。しかし、肩の力だけが不自然だった。
記乃は名簿の記載を思い出す。
二十三。
下級武家出身。
女御棟外周警備。
(該当)
禁衛は、現場周辺の警戒に戻ろうとしていた。
記乃は一歩、前へ出る。
「辻峰佐介さん、でしょうか」
名を呼んだ瞬間、男の肩が、かすかに震えた。ごく小さい反応だった。
だが、記乃は見逃さない。
久世も、三浦も、化野も、同じ反応を見ていた。
男は、ゆっくりと振り返る。
「……はい」
声は落ち着いていた。落ち着かせようとしている声だった。
記乃は、距離を詰めすぎない位置で止まった。追い詰めすぎれば、言葉は閉ざされる。逃げ道を残しすぎれば、事実が逃げる。
尋問とは、やはり糸を張る作業に似ている。
今回は、その糸の先に、死者が二人いる。
「いくつか、確認させてください」
「任務中です」
「この件に関わる確認です」
辻峰は一瞬だけ、久世の方を見た。
久世は何も言わない。三浦も口を挟むつもりはないようだった。
現場は、記乃に任されている。
「理成四年六月、あなたは女御棟外周および雑木林周辺の警備を担当していましたね」
「……はい」
「木村しづさんをご存じですね」
辻峰の目が、ほんのわずかに揺れた。
「同じ後宮に勤めていた者ですから」
「親密な関係にあった」
「……誰が、そのような」
「松田さんから証言を得ています」
辻峰の唇が、固く結ばれた。
記乃は紙片を開く。
「都筑智子さんは、木村しづさんとあなたの関係を知っていた。木村さんへ、そのことを上へ申し出ると告げた。その翌日、都筑智子さんは行方不明となり、その翌日、木村しづさんは自死しています」
辻峰は黙った。
風が木々の葉を揺らす。
掘り返された土の匂いと、湿った草の匂いが混ざる。
青緑色の炎は、もうない。
ただ、その残像だけが記乃の中にある。
「今日、祠の裏手から白骨が見つかりました。衣類と装身具から、都筑智子さんである可能性が高い」
辻峰の顔から、血の気が引いていく。
記乃は続ける。
「祠には、青緑色の炎が灯されていました。燃料はアルコール。添加物は銅系金属塩。祠の裏手から、陶器製の小瓶と粉末を発見しています」
化野が、静かに辻峰を見ている。
久世はただ、記乃の言葉を聞いていた。
いつも事後報告だけを聞いていた彼にとって、現場での記乃の振る舞い方というのは、初めて見るものだった。
結城記乃という女が、どのように事実を並べるのか。
どの順序で逃げ道を狭めるのか。
どこで断定せず、どこで踏み込むのか。
それを、目の前で見ている。
「あなたは、この炎について知っていますか」
辻峰は答えない。
「知らない、と言うことはできます」
記乃は静かに言った。
「ですが、その場合、あなたが祠周辺の警備担当でありながら、一年近く続いていた異常な炎に気づかなかった理由を説明する必要があります」
辻峰の指が、わずかに動いた。
「あるいは、知っていたが報告しなかった。その理由を説明する必要があります」
長い沈黙。
だが、記乃は急がなかった。
沈黙は、証言の前段階になる。
やがて、辻峰は小さく息を吐いた。
「……私です」
その声は、掠れていた。
「炎を灯していたのは、私です」
化野が一度だけ目を伏せた。
三浦の表情は変わらない。
久世は、何も言わない。
記乃は万年筆の先を紙片へ置いた。
──辻峰佐介、青緑色炎の設置を認める。
──燃料補充、本人。
──目的、要確認。
「燃料は」
「酒精です。外から少しずつ手に入れました」
「銅系の粉末は」
「……知人の伝手で」
「塩化銅ですか」
辻峰は目を伏せた。
「名は、知りません。仕組みも、よく知りません。ただ、それらを混ぜれば、青く燃えると聞きました」
「なぜ、炎を灯し続けたのですか」
問いは短かった。
だが、その短さが、もっとも深く刺さったらしい。
辻峰の顔が歪む。
「しづが……」
言葉が詰まる。
記乃は待つ。その名前が出るまで。
「しづが、言ったんです」
辻峰は、掘り返された土を見た。
視線はそこにあるのに、見ているのは過去だった。
「都筑様が、私たちのことを上に言うと。そうなれば、私は禁衛ではいられなくなる。しづも、ただでは済まない。私たちは、もともと一緒になれる立場になかった。そんなことは、分かっていたんです」
声は、少しずつ崩れていく。
「でも、会わずにはいられなかった」
記乃は書かない。
今は、まだ。書けば、流れが切れる。
辻峰は続けた。
「都筑様が消えた日、私は何も知らなかった。しづが、翌日に私を呼んだんです。祠の近くで」
記乃は、紙片の端を押さえた。
「しづさんは、何と言いましたか」
辻峰は、笑った。
泣きそうな顔で、笑った。
「あなたのことは、これで守れるから、と」
雑木林の空気が、止まったように思えた。
「泣きながら、笑っていました。もう大丈夫だと。都筑様は、もう何も言えないからと。だから、あなたは禁衛の立場を守っていて、と」
辻峰の声が震える。
「私は……何をしたのか聞いた。でも、しづは言わなかった。ただ、ここには近づかせないで、と。誰にも見つからないようにして、と」
記乃は、視線を落とす。
木村しづは、都筑智子を殺した。
おそらく、辻峰と、その立場を守るために。
そして、決して辻峰に遺体を隠させたわけではない。ただ、見つからないようにしてほしいと告げた。
その翌日に、自ら命を絶った。
(結ばれないふたりの恋が、こんな形で幕を閉じるだなんて)
胸の奥に、硬いものが沈む。
同情ではない。許しでもない。
ただ、事実の形があまりにも歪で、そこに人間の痛みが詰まっていると分かるだけだった。
「あなたは、木村しづさんが都筑智子さんを殺害したと知っていましたか」
辻峰は、長く沈黙した。
「……分かりました」
「いつ」
「しづが死んだ日です。あの子が、祠へ行くなと言った理由が、それしかないと」
「それでも、報告しなかった」
「できなかった」
「なぜですか」
「しづが、命をかけて守ってくれたものを、私が壊すことになる」
辻峰は、両手を握りしめた。
「しづは、私を守ったんです。身分の低い下女が、禁衛の私を。何も持っていないあの子が、自分の命を使って」
それは、守ったとは言わない。そう言うべきなのかもしれなかった。だが、記乃は口にしなかった。
裁くための言葉は、今この場に必要ではない。
必要なのは、事実だ。
「青緑色の炎を灯した理由は」
「祠に、誰も近づかないようにするためです」
「狐火に見せかけた」
「最初は、ただ不気味に見えればいいと思った。けれど、青く燃える粉を知って……これなら、誰も近づかないと」
「いつから」
「しづが死んで、少ししてからです。最初は不定期に。噂が広がってからは、切らさないようにしました」
記乃は書く。
──辻峰佐介、炎設置の目的を供述。
──目的、祠への接近阻止。
──動機、木村しづによる都筑智子殺害の隠蔽。
──辻峰、殺害自体への直接関与は否定。
──青緑炎、噂利用および人払い目的。
書きながら、記乃は思う。
この炎は、怪異などではなかった。
だが、完全にただの隠蔽とも言い切れない。
辻峰にとっては、しづが最後に残した願いを守る火だった。
罪を隠す火。
死者を隠す火。
誰にも近づかせないための火。
そして、もしかすると……本人にとっては、鎮魂のために灯していた、優しい炎。
(たとえ鎮魂のためであっても、隠蔽行為であることは変わらない)
「辻峰さん」
記乃は顔を上げた。
「あなたは、都筑智子さんの死体がここにあると知りながら、それを報告せず、青緑色の炎によって人を遠ざけ続けました」
「……はい」
「木村しづさんの死についても、その背景を知りながら、報告しませんでした」
「はい」
「殺害に関与していなかったとしても、死体の隠匿と事件の隠蔽に関わったことになります」
辻峰は深く頭を下げた。
「分かっています」
「その判断は、私ではなく上が行います」
「はい」
「私は、確認した事実を記録し、報告します」
辻峰は、頭を下げたまま動かなかった。その背は、禁衛のものとしては小さく見えた。
木々の間を風が抜ける。
湿った葉が擦れ、遠くで鳥が鳴く。
祠の前には、もう炎はない。
青緑色の光が消えた場所には、掘り返された土と、隠されていた事実だけが残っている。
久世が、静かに口を開いた。
「見事だな」
記乃は振り返る。
「なにがでしょうか」
「事実を逃がさないところが」
「逃げる前に書き留めているだけです」
久世は小さく笑った。
三浦は辻峰へ視線を向けたまま、低く言う。
「他の禁衛へ引き渡します」
「お願いいたします」
記乃は頷いた。
化野は、祠を見ていた。その横顔には、いつもの軽い笑みがある。
だが、その笑みは、いつもより薄い。
「青い炎ねえ」
「何ですか」
「いや。ただの隠蔽にしては、ずいぶん長く灯していたんだなと思って」
「隠蔽は、長く続くほどやめにくくなります」
「そうだね」
化野は、少しだけ息を吐いた。
「でも、あれはたぶん、隠すだけの火ではなかった」
記乃は祠を見る。
化野の言いたいことは理解している。
だが、記録には書かない。書けるのは、確認できたことだけだ。
その後の処理は、速かった。
辻峰は禁衛に連れていかれ、都筑智子と思われる白骨は、相良と医局の者たちによって改めて確認されることになった。
木村しづの記録も再確認される。
都筑智子の失踪は、失踪ではなく死亡として扱われることになるだろう。
死者の項目が、ようやく正しい場所へ移される。
それが救いかどうかは分からない。ただ、記録としては必要だった。
後日。
辻峰佐介への処分は、重すぎるものにはならなかった。
都筑智子の殺害そのものに関与していなかったこと。木村しづの自死後、恐慌状態に近いまま隠蔽を続けていたこと。実際に他者へ危害を加えたわけではないこと。
それらが考慮され、謹慎と減俸、禁衛内での配置換えが命じられた。
軽い、と見る者もいるだろう。
重い、と見る者もいるだろう。
記乃は、そこに評価を挟まなかった。
処罰は記録される。それだけでいい。
真壁への最終報告の日、官付庁舎の空気は乾いていた。
雨は上がっていたが、雲はまだ厚い。
記乃は、紙片の束を整理し、順序通りに読み上げた。
青緑色の炎。
アルコール燃料。
銅系金属塩。
祠裏手の白骨。
都筑智子の失踪。
木村しづの自死。
辻峰佐介の供述。
真壁は黙って聞いていた。
途中で口を挟むことはなく、最後まで視線だけを紙へ落としている。
報告が終わると、真壁は少しだけ椅子へ背を預けた。
「身分や立場というのは」
珍しく、真壁が自分から言葉を継いだ。
「だれにとっても、不都合なことの方が多いよな」
記乃は、すぐには返さなかった。
木村しづは下女だった。
辻峰佐介は禁衛だった。
都筑智子は武家出身の侍女だった。
それぞれの立場が、言えることと言えないことを作り、行ける場所と行けない場所を作り、結ばれる可能性と、それを壊す脅しを作った。
身分は、ただの肩書きではない。
人の選択肢を、見えない線で囲うものだ。
「そうですね」
記乃は静かに答えた。
(私も、女という立場が弊害となり、官僚の夢を立たれている。よく、わかる。わかるよ)
「ですが、その不都合を理由にして、罪が消えるわけではありません」
「分かっている」
真壁は目を伏せた。
「報告書は今日中にまとめろ」
「承知しました」
「化野への礼は」
「本人が新聞記事にしようとしていたので、相殺でよいかと」
真壁は、わずかに眉を動かした。
「……まあいい」
記乃は一礼し、執務室を出た。
廊下へ出ると、そこに三浦伊織が立っていた。
いつも通り、静かな姿勢。
控えめだが、存在感はある。
「結城様」
「三浦さん」
「久世様がお呼びです」
記乃は、ほんの少しだけ沈黙した。
(嫌だなあ)
そう思った。だが、相手は久世である。
しかも、三浦が正式に呼びに来ている。
断る理由はある。
しかし、断った場合に生じる面倒の方が大きい可能性が高い。
「承知しました」
三浦は、わずかに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「拒否権は実質ないものかと」
「あります」
「では、拒否します」
「申し訳ございません。実質、ございません」
「そうでしょうね」
三浦は、少しだけ笑ったように見えた。
案内された部屋は、以前よりも奥まった場所にあった。
官付庁舎の中でも、空気の質が違う。
人の出入りが少なく、置かれている調度品も、目立たないながらも明らかに上等なものであった。
紙と墨の匂いに、かすかに香木の匂いが混じっている。
扉の前で三浦が足を止め、静かに声をかけた。
「久世様、結城様をお連れしました」
「入れ」
中に入ると、久世が机の向こうで頬杖をついていた。
にこやかだった。
あまりにも、にこやかだった。
(面倒な顔をしている)
記乃は即座に判断した。
久世の首元には、灰簾石の首飾りがあった。
青紫の石が、窓から射し込む光を受けて、小さく輝き、そして揺れる。
それは相変わらず美しかったが、やはり記乃には、あの人の行動を分類する手がかりにはならない。
「来たな」
「お呼びと伺いました」
「座れ」
「立ったままで結構です」
「座れ」
「承知しました」
逆らうほどの理由はなかった。
記乃は用意された椅子に腰を下ろす。
三浦は壁際に控えた。
「お前、今回もよくやったな」
「職務です」
「そう返すと思った」
久世は笑う。
「炎の件、報告は読んだ」
「そうですか」
「現場でも見たが、文字になるとまた違うな。お前の報告書は、事実を逃がさない」
「以前にも似たようなことを、どなたかが仰っていました」
「鳳条か?」
記乃は、わずかに目を上げた。
「ご存じで」
「知っている」
「顔が広いのですね」
「立場上な」
久世は当然のように言った。
その言い方に、記乃は違和感を覚える。
久世という男は、ただの高位の者ではない。
真壁が様付けする。
後宮へも出入りができる。
澄子妃のもとへ記乃を連れていける。
官付の奥まった部屋を使っている。
そして、鳳条玲のことも知っている。
(そろそろ、見なかったことにするには無理がある)
久世は、まるでそれを待っていたかのように笑った。
「私は、官付を治めるの長官だ」
記乃は、思わず沈黙した。
「……官付の、長」
「そうだ」
「父上より上の立場、ということでしょうか」
「結城密記か。私は暗号局も合わせて統括しているから、まあ、そうなるな」
記乃は、久世を見る。
嫌になるほど綺麗な顔。
面白がるような目。
そして、官付の長。
(思ったより、相当に偉い方だった)
記乃は姿勢を正した。
「これまでの非礼をお詫び申し上げます」
「やめろ、仰々しい」
「しかし」
「お前が急に大人しくなると、つまらん」
「つまる、つまらないの問題ではありません」
「私にとっては問題だ」
三浦が、壁際で静かに目を伏せた。
おそらく、ため息をこらえている。
久世は、楽しそうに続けた。
「結城記乃」
「はい」
「お前、私の補佐にならないか」
部屋の空気が、一瞬だけ止まった。
普通に考えれば、出世である。
官付の長の補佐──
記録官補佐とは比べものにならないほど、上へ近づく道だ。
養父や義兄が聞けば、どう判断するだろう。
真壁なら、面倒そうな顔をしながらも、行けと言うかもしれない。
澄子妃なら、静かに微笑んで、行きたいなら行けと言うだろう。
だが。
記乃の中の答えは、思いのほか早かった。
「恐れ入ります」
記乃は深く頭を下げる。
「私は、現在の記録官補佐の仕事を気に入っておりますので、お断りいたします」
沈黙。
三浦が、ほんのわずかに目を開いた。
久世は、目をぱちくりとさせた。
そして次の瞬間、大きく笑った。
「ぷ、はははっ!」
笑い声は、部屋の中に明るく響いた。
「断るか、これを。そんなにはっきりと」
「はい」
「理由は、気に入っているから?」
「はい」
「またとない出世の話だぞ」
「存じております」
「普通は受けるところだ」
「そうかもしれません」
「それでも?」
「はい」
久世はさらに笑った。
三浦は、今度こそ小さくため息をついた。
「久世様、楽しそうで何よりです」
「伊織、聞いたか。気に入っているからと、この話を断るそうだ」
「聞いておりました」
「面白いな」
「久世様がそう仰ることも、予想しておりました」
記乃は静かに座っていた。
面白い。
また、その言葉だ。
だが今回は、さほど不快ではなかった。
久世の提案を断ったところで、首をはねられることはなさそうだ。
少なくとも今のところは。
「わかった」
久世は笑いを収め、頬杖をつくのをやめた。
「補佐の件は、いったん引く」
「ありがとうございます」
「ただし」
記乃は警戒した。
「必要なときは、お前の手を借りる。構わないな?」
それは命令に近い。
だが、先ほどの提案とは違う。今の仕事を奪うものではない。
必要時の協力であれば、拒む理由は、薄い。
「そういった形であれば、問題ございません」
「よし」
久世は満足そうに頷いた。
「では、今後ともよろしく頼む」
「職務の範囲内であれば」
「本当に線を引くな、お前は」
「線を引かなければ、物事は混ざりますので」
「混ざるのは嫌いか」
「判断を誤ります」
久世は、また笑った。
「いい。やはり、お前はそのままでいい」
記乃は返答に困り、軽く頭を下げるだけにした。
「失礼してもよろしいでしょうか」
「報告書か」
「はい」
「行け」
「失礼いたします」
記乃は立ち上がり、一礼して部屋を出た。
扉が閉まる。
廊下に出ると、空気が少し軽くなった気がした。
(官付の長官補佐の勧誘を断った)
事実だけを取り出すと、相当なことをしている。
だが、後悔はなかった。
記録官補佐の仕事は、まだ自分の手に馴染んでいる。
紙片、万年筆、現場、記録。
そこから離れるには、まだ早い。
(願望と事実は別)
けれど、今はそこに、もうひとつ足してもいいかもしれない。
(適性と、納得も別)
記乃は紙片の束を抱え直し、廊下を歩き出した。
部屋の中では、久世がまだ笑っていた。
「伊織」
「はい」
「断られた」
「そのようですね」
「面白いな」
「久世様は、そう仰ると思いました」
「普通なら、私の補佐になりたいと言うだろう」
「普通ではない方を、お選びになったのは久世様です」
「そうだった」
久世は首元の灰簾石に指を触れた。
青紫の石が、光を受けてきらりと揺れる。
「欲しいものほど、手元に置けないものだな」
「物のように仰ると、また逃げられます」
「分かっている」
「本当に分かっておいでですか」
「たぶん」
三浦は沈黙した。その沈黙は、信用していないという意味を充分に含んでいた。
久世は楽しそうに笑い、首元の石から指を離す。お気に入りの首飾りは、彼の白い肌の上で静かに光っていた。
青緑色の炎は消えた。
隠された骨は、掘り返された。
守られた罪は、ようやく記録の中へ置かれた。
それでも、人の思いはすべて燃え尽きるわけではない。
炎が消えたあとにも、熱のない光の残像だけが、しばらく目の奥に残ることがある。
記乃は、その残像を振り払うように、万年筆を握り直した。
書くべきことは、まだ残っている。




