第六話 青く冷たい炎《中編》
隠すという行為には、必ず理由がある。
恥を隠す者もいれば、罪を隠す者もいる。
失敗を隠す者もいれば、傷を隠す者もいる。
けれど、人が地面の下になにかを隠すとき、たいてい、二度と掘り返されたくないものをそこへ置く。
(青い炎は、人を祠から遠ざけるためのもの)
記乃は官付の記録蔵で、過去の行方不明者一覧を前に、紙片の束を膝元へ置いていた。
──確認対象、後宮内行方不明者。
──対象期間、過去十年。
──照合対象、死亡者一覧。
──重点、祠周辺勤務者、澄子妃棟近傍関係者。
記録蔵の空気は乾いていた。
古い紙と墨の匂いが棚の間に溜まり、静けさそのものが薄い埃をかぶっているようだった。
化野幽は、すぐ横で帳簿の束を覗き込みながら、感心したように息を吐いた。
「本当に十年分見るんだねえ」
「見ます」
「後宮だけでも、行方知れずはそれなりにいるだろう」
「年間で、およそ五名ほどです」
「官付や軍部は?」
「年間一名から二名。ただし、その関係者まで広げれば、この方法では絞れません」
記乃は淡々と答えた。
「ですので、まずは後宮内に限定して情報を整理していきます」
後宮から消えた者。辞めた者。逃げた者。死んだ者。記録の上では、それぞれ別の項目に分けられる。
だが、人間の出来事は帳簿ほど都合よく分かれていない。
逃亡とされた者が、実際には死んでいることもある。病死とされた者の背後に、別の誰かの手があることもある。
(項目は、見た側の人間の都合で分けられているだけだ)
記乃は、死亡者一覧の紙面へ視線を移した。
(事実が、その区分に従ってくれるとは限らない)
紙をめくる音だけが続く。
化野は途中から、記乃が指で追っている箇所を横から眺め、時折、別の帳簿を差し出した。
軽薄で胡散臭い。が、仕事は早い。
(ある意味、楽ができる)
記乃はそう判断した。
(聞き取りは化野さんに任せる余地がある。私は、記録と照合に集中できる)
やがて、ひとつの年月で手が止まった。
約一年前。
同じ月に、ふたつの記録が並んでいた。
──行方不明者、都筑智子。
──身分、女御付き侍女。
──出自、武家。
──失踪日、理成四年六月十二日。
記乃は別の帳簿へ視線を移す。
──死亡者、木村しづ。
──身分、同女御付き下女。
──出自、平民。
──死因、自死。
──死亡日、理成四年六月十三日夜。
(同じ女御付き。失踪と自死が一日違い)
記乃は、万年筆の先を紙片に置いた。
──都筑智子、武家出身侍女。
──木村しづ、平民出身下女。
──同所属。
──都筑失踪翌日、木村自死。
──関連性、要確認。
化野が、記乃の横顔を見た。
「見えた?」
「まだです」
「でも、線は引いた顔をしている」
「点が近すぎます」
記乃は帳簿を閉じた。
「祠の下を掘り返します」
「当たりだといいねえ」
「必ずしも、いいことだけではないと思われます」
化野は、あ、と小さく声を漏らした。
記乃は立ち上がる。
「当たりなら、祠の下には死体がある、ということですから」
その声は冷たくはなかった。ただ、温度を持たない事実だった。
禁衛の手を借り、祠の裏手を掘り返すことになった。
雑木林には、昼にもかかわらず薄暗さが残っている。木々の葉が光を細かく砕き、地面には濃淡の斑が落ちていた。
記乃が小瓶を取り出したため、青緑色の炎はすでに消えている。祠の前には押収した小瓶の跡だけが残っている。
禁衛たちが土を掘る音が、湿った空気に重く響いた。
化野は少し離れた場所に立ち、腕を組んでいる。
記乃は紙片を構え、掘り返されていく地面を見ていた。
地面というものは、思ったより多くを覚えている。
踏まれた跡。動かされた土。混ざった葉。沈んだ石。
人間が忘れようとしても、土は忘れない。
やがて、禁衛のひとりが手を止めた。
「……なにかあります」
近づくと、土の中に白いものが見える。
それは、紛れもなく、人の骨だった。
化野が、低く言う。
「当たりだね」
「ここからが面倒です」
記乃はしゃがみ込み、白骨へ軽く手を合わせた。
祈りではない。信仰心の問題でもない。
目の前にあるものが、かつて人間だったという事実への、最低限の礼だった。
「医局へ連絡してください。相良さんを呼んでください」
禁衛が頷いて走る。
記乃は、骨の周囲に残されたものへ視線を落とした。
土に汚れた布。腐食した飾り。侍女が身につける類の小物。
(推測は、確信に近づいた)
紙片へ書く。
──祠裏手より白骨発見。
──衣類残滓あり。
──侍女用装身具と思しき物品あり。
──都筑智子の可能性。
──医官確認待ち。
しばらくして、相良要一が駆けつけた。
顔色は変えなかったが、視線は鋭くなった。
「記乃」
「祠の裏手から白骨です。身につけていたものから、侍女の可能性があります」
「触ったか」
「周辺確認のみ。骨には触れていません」
「よし」
相良は膝をつき、状態を確認する。
「時間は経っている。死因まではすぐには無理だ」
「身元の判断材料は」
「衣類と装身具。骨だけでは断定できないが、女性の可能性は高い」
「承知しました」
記乃は追記する。
──相良所見、女性骨の可能性。
──死因、現時点不明。
──身元断定、衣類・装身具照合要。
その後、記乃は書き溜めた紙片を持って、真壁の執務室を訪れた。
死体が出た以上、これは怪異の調査では終わらない。
立派な事件である。
「中間報告します」
真壁は顔を上げた。
「死体か」
「はい。澄子妃棟近接の雑木林内、祠裏手より白骨を確認しました」
記乃は紙片を並べる。
「青緑色の炎については、アルコール燃料と銅系金属塩による低温燃焼、炎色反応と判断します。燃料および粉末を押収済みです」
「設置者は」
「未確定です。ただし、炎は人払いを目的とした可能性が」
「死体を隠すためか」
「その可能性が極めて高いかと」
記乃は次の紙片を示す。
「過去十年の行方不明者記録と死亡者記録を照合しました。約一年前、女御付き侍女・都筑智子が行方不明となり、その翌日に同じ女御付き下女・木村しづが自死しています」
真壁の目が細くなる。
「目星は」
「ついています」
記乃は静かに答えた。
「ただし、殺人犯はすでにこの世にいない可能性があります」
「どういう意味だ」
「木村しづが、都筑智子を殺害した可能性です」
室内の空気が、わずかに重くなる。
「しかし、祠に炎を灯し続けた者は別にいると考えます。死体の隠蔽を続ける必要があった人物です」
「証拠は」
「これから集めます」
真壁は、しばらく記乃を見ていた。
「化野を使え」
記乃は一瞬だけ黙った。
「よろしいのですか」
「すでにこの件に関わっているんだろう」
「勝手に見物に来ていただけですが」
「使えるなら、使え」
記乃は小さく頷いた。
「承知しました」
執務室を出ると、廊下で化野が待っていた。
「どうだった?」
「手伝ってください」
化野は目を瞬いた。
「おや。私がかい?」
「関わってしまったのですから、責任を取って手伝ってください」
「責任ねえ」
化野はくつくつと笑った。
「わかったよ」
記乃は紙片を整える。
「聞き取りに向かいます。あなたは人あたりがよく、質問の仕方も柔らかい。私は記録に専念します」
「褒めてる?」
「機能評価です」
「君らしいねえ」
現場へ戻ると、久世と三浦がいた。
祠から少し離れた場所で、掘り返された地面を見ている。
(本当に、どこにでも現れる)
記乃は頭を下げた。
「久世様」
「死体が出たと聞いた」
「はい」
「炎は?」
「トリックは判明しています。アルコール燃料に銅系金属塩を混ぜ、青緑色の炎を発生させていました」
「冷たい炎ではなかったのか」
「低温燃焼です。色の印象と、熱感の少なさによる錯覚が加わったものです」
久世は興味深そうに頷いた。
「で、死体は」
「行方不明となっていた侍女の可能性があります。殺害した人物は、すでに死亡しているかもしれません」
三浦の表情が、少しだけ硬くなる。
「これから、事実隠蔽に関わっている人物を特定します」
「私も見る」
「職務の妨げにならない範囲でお願いいたします」
「つれないな」
「調査中ですので」
三浦が小さく目を伏せた。
化野と共に聞き取りを始めると、記乃はすぐに自分の判断が正しかったと知った。
化野は、ずけずけと踏み込む。だが、不思議と相手に嫌な顔をさせない。
声音が軽く、距離の取り方がうまい。
相手が警戒する前に笑わせ、笑った隙間から必要な言葉を引き出していく。
(本当に、楽ができるな)
記乃は万年筆を構えた。
(私は言葉が足りないという自覚がある。こう聞き取りが円滑にできる人間がいるなら、書き取りに専念できる)
数人に聞いたところで、木村しづと親しかったという、松田という下女に行き着いた。
松田は、最初、何も知らないと言った。
だが、化野が軽く首を傾げる。
「本当に? 友だちだったんでしょう」
その声には責める響きがなかった。
だからこそ、松田は崩れた。
「……しづには、親しい男性がいたのよ」
記乃は紙片に万年筆を置く。
「詳しく教えてください」
松田は軽く唇を噛んだ。
「禁衛のひとりだった。でも、禁衛は世帯を持てない規則でしょう。しづも、貧しい家の出で……結ばれることなんて、できなかった」
──木村しづ、禁衛と親密関係。
──禁衛、世帯形成不可。
──身分差あり。
「そのことを知っていたのは」
「私と……都筑様だけ」
記乃は目を上げた。
「都筑さんは、木村さんをどう扱っていましたか」
松田は、顔を伏せた。
「嫌っていたわ。生まれが悪い下女のくせにって、嫌がらせも少なくなかった」
「具体的には?」
「物を隠すとか、仕事を押しつけるとか……あと」
松田の声が小さくなる。
「逢い引きのことを、上に言うって」
化野の笑みが薄くなる。
「いつ?」
「都筑様がいなくなる前の日」
記乃は書く。
──都筑智子、木村しづへ脅迫。
──内容、禁衛との関係を上申すると発言。
──発言翌日、都筑失踪。
──その翌日、木村自死。
線が繋がっていく。
嫌なほど、きれいに。
「禁衛の名前は」
松田は黙った。
記乃は待つ。沈黙を急いで埋める必要はない。沈黙は、時に証言の前段階になる。
「言えません」
「なぜですか」
「しづが、命をかけて守った人だから」
松田の声は震えていた。
記乃は、紙片から視線を上げる。
「罪を隠すことも、また、罪になります」
静かな声だった。
「あなたが黙れば、その人の罪だけでなく、木村しづさんの行為も、都筑智子さんの死も、すべて形を失います」
松田は泣きそうな顔で、手を握りしめた。
長い沈黙のあと、言葉が落ちる。
「……辻峰という、年若い禁衛でした」
記乃は、すぐに紙片へ書いた。
──禁衛、辻峰。
──木村しづと親密関係。
──松田証言。
(これで、ようやく辿れる)
炎の青緑色が、記乃の記憶の奥でまた揺れた。
あれは怪異ではない。
鎮魂でも、祟りでも、まだない。
人が何かを守ろうとして、何かを隠そうとして、灯され続けた炎だ。
その理由を確かめるまで、記録をする手を止めることは、できない。




