第六話 青く冷たい炎《前編》
火というものは、本来、疑う余地のない現象として人間の中に刻み込まれている。
触れれば熱い。近づけば皮膚を焼き、痛みを伴い、危険であると直感的に理解させる。
それは知識ではなく、反射に近い認識だ。
だからこそ、その前提が崩れたとき、人はそれを〝異常〟としてではなく、〝意味のあるもの〟として受け取ろうとする。
青く、冷たい炎。
その語の並びだけで、現象は単なる燃焼から逸脱し、意図や意思を持つものへと変質する。
色は意味を生み、意味は恐怖を生み、恐怖は距離を生む。
(だが、燃焼に伴う条件そのものが覆ることはない)
結城記乃は、真壁記録官長の執務室にて、机上に紙片を広げながら、万年筆の先で静かに事実を縫い留めていた。
──澄子妃棟近接、雑木林内祠。
──青色炎の目撃情報。
──接触時、熱感なしとの証言。
──複数人による確認、噂拡散傾向あり。
筆先の動きは極めて滑らかだった。
湿気を含んだ紙はわずかに抵抗を持つが、その抵抗すらも、記乃にとっては記録の実感を伴う手触りに過ぎない。
「また妙なものが出たな」
机の向こうで、真壁がいつものように面倒そうに言った。
「青くて冷たい炎、ですか」
記乃は視線を紙片から上げずに応じる。
「ああ」
「だれが言い出したんですか」
「最初は下女から、という話だ。が、噂は範囲を広げつつある」
短い報告。だが、それで充分だった。
伝播している。つまり、放置すれば現象以上の問題になる。
「澄子妃の棟の近くだ。放置はできん」
記乃は一度だけ筆を止め、紙片に細い線を引いた。
──影響範囲、皇貴妃近傍。
──優先度、高。
(現象そのものより、波及の方が問題になる)
判断は早かった。
「現物確認は」
「まだだ。だれも近づきたがらん」
「当然といえば、当然ですね」
「やれ狐火だ、やれ祟りだと。馬鹿らしい」
「……流行りの怪異には困ったものですね」
青い炎。冷たい火。
それは「確認するもの」ではなく、「避けるもの」として認識される。
「だから、お前に行かせる」
「承知しました」
一拍。
記乃はわずかに言葉を選ぶ。
「燃焼である以上、温度が低い理由が存在するはずです」
「仮説か」
「現時点では」
真壁は顎を引いた。
「言ってみろ」
「アルコール系燃料による低温燃焼の可能性があります。また、炎色反応による色変化」
言葉は簡潔だが、内側では構造が組み上がっている。
「炎色反応、か」
「はい」
真壁の眉が、わずかに動いた。
「なら、すぐ終わるな」
「現象だけなら、です」
記乃は視線を上げる。
「なぜその現象がそこに存在しているのか、という点は別問題です」
真壁は短く頷いた。
「理由まで探れ」
「承知しました」
「澄子妃の周辺だ。手際よくやれ」
「はい」
執務室を出ると、空気が変わる。
室内の紙と墨の匂いから、外気の湿り気と植物の匂いへ。
梅雨の空気は重く、視界には見えないが、確実に存在している薄い膜のように肌へまとわりつく。
(燃焼条件にも影響する)
記乃は歩きながら紙片を取り出す。
──仮説、アルコール燃焼。
──炎色反応、金属塩混入。
──温度低下、燃焼効率制御。
──確認事項、燃料、発生源、設置構造。
書き終え、万年筆を収める。
(現物を見れば、構造は確定する)
雑木林は、澄子妃の棟の裏手に広がっていた。
整備されているが、整えられてはいない。
人の手が入った自然。管理と放置の境界が曖昧な領域。
その奥に、祠はあった。
木々の影に沈み、湿気を吸い込んだ空気の中で、存在そのものが薄く滲んでいるように見える。
そして、その前にはすでに人影があった。
「やっぱり来たねえ」
聞き覚えのある軽い声。
肩書きだらけの、長身で、軽薄な女──化野幽が、祠の前でしゃがみ込み、炎を覗き込んでいた。
青緑色の光が、彼女の輪郭を下から歪ませる。
顔の陰影が通常と逆転し、人の表情としての読み取りをわずかに困難にする。
(光源の位置が異なるだけで、人の印象は変わる)
「何をしているのですか」
記乃は歩みを止めずに言う。
「んー?」
化野が振り向く。
「見ればわかるでしょ。観察」
「なぜここにいるのか、と聞いています」
「こんなんでも一応、学者だからさあ」
軽い調子。
(半分は嘘)
即座に切り分ける。
(絶対、面白がっているだけだ)
「民俗学的興味、ですか」
「そういうことにしておこうか」
化野は笑う。
記乃は祠へ視線を向けた。
炎は、確かに存在していた。
青緑色。揺らぎは小さい。燃焼は安定している。
そして──
(熱がない)
手を近づけて、触れる。
皮膚は焼かれない。
温度の上昇は、ほとんど感じられない。
(低温燃焼)
色、揺らぎ、熱量。
すべてが一致する。
「どう?」
化野が覗き込む。
「やっぱり、狐火?」
「そのような非科学的なものは存在しません」
間を置かずに返す。
化野は一瞬止まり、それから笑う。
「ふっ、ふふふ、そうだった、そうだった」
記乃は視線を祠から外し、周囲へ移す。
地面、落ち葉、踏み跡。
そして──
(新しい土)
祠の裏手に、不自然な部分があった。
掘り返された痕跡。そして、それを覆い隠すように戻された土。自然の堆積ではない。意図が存在する。
記乃はしゃがみ込み、指先で土を払う。
湿り気と柔らかさ。
そして、浅い位置で硬質なものに触れる。
軽く掘ると、指先が確信を得る。
引き上げると、陶器製の小瓶が姿を表す。
蓋を開ければ透明な液体。
そして、揮発臭。
(アルコールだ)
さらに布に包まれた粉末。
青緑色の粒子。
(銅系金属塩)
すべてが繋がる。
記乃はそれらを静かに並べた。
──燃料、アルコール。
──添加物、銅系金属塩。
──炎色、青緑。
──低温燃焼成立。
「当たりだねえ」
化野が言う。
「ええ」
記乃は手巾を取り出し、小瓶を包む。
「証拠として押収します」
「早いなあ」
「現象の説明は完了しましたので」
立ち上がる。
だが、思考は止まらない。
(問題はここではない)
炎は結果であり、原因ではない。
「これを設置した人物の特定と、動機の確認が必要です」
「だれかが、なにかを見せたくなかった」
化野の言葉が、空気に落ちる。
軽い。
だが、それは核心を突いていた。
記乃の思考が、一瞬だけ静止する。
(だれかが、なにかを、見せたくなかった?)
隠す。遠ざける。近づかせない。
恐怖を使って、人々と祠の間に距離を作る。
(条件が揃う)
嫌な予感が浮かぶ。
嫌な予感は、往々にして正しい。
「過去の記録を確認します」
「どこまで?」
「最低でも十年分」
化野が目を瞬いた。
「やりすぎじゃない?」
「そんなことはありません」
即答する。
「用心するにこしたことはありませんから」
紙片を取り出す。
──仮説、隠蔽目的の設置。
──可能性、死体隠匿。
──確認対象、行方不明者記録。
万年筆が紙の上を走る。
(原因は必ず存在する)
炎はただの現象だ。
だが、その裏側には必ず、人間の意図がある。
そして、その意図は──
多くの場合、隠されている。




