第五話 同じ夢を見る女たち《後編》
噂というものは、事実よりも早く広がる。
そして、多くの場合、事実よりも強く人の行動を縛る。
見たことのないものでも、聞いたことがあるだけで、人はそれを「知っている」と錯覚する。
さらに、その状態で同じ環境に置かれれば、錯覚はやがて体験へと変わる。
(夢は、体験ではなく、再現された認識だ)
結城記乃は、榎本の部屋へ足を踏み入れた瞬間に漂ってきた香りを、意識的に一度だけ深く吸い込み、それからすぐに呼吸を浅く整え直した。
白檀、そして、薫衣草──
甘くて、落ち着く香り。
身体の緊張を緩める類の匂い。
(過剰に吸う必要はない)
感覚は、証拠にもなるが、誤差にもなる。
だから、距離を取る。
「……どうぞ」
榎本は戸を引き、記乃を室内へ通した。
その表情には警戒があったが、敵意はない。
(害意は薄い)
だが、それだけで無害とは限らない。
記乃は室内を一瞥する。整っている。几帳面というより、整えられているという印象。
香炉。
布。
寝具。
どれも「使われている」痕跡がある。
「いくつか、確認させてください」
「……はい」
榎本は小さく頷いた。
「まず、この香ですが」
記乃は香炉へ視線を向ける。
「白檀と薫衣草ですね」
「ええ……安眠にいいと聞いて」
「どなたから」
「商人です。最近、流行っていると」
記乃は紙片に書く。
──香、外部流入。
──後宮内の流行品。
「それを、侍女たちにも勧めた」
「はい……よく眠れるので」
「夢を見やすくなりますか」
榎本は、少しだけ考えた。
「……言われてみれば、そうかもしれません」
(自覚なし)
記乃は続ける。
「怪談を話してまわったのは、なぜですか」
「え?」
「夢の内容です。赤い階段、三つの扉、分かれ道、そして篠笛」
榎本の顔色が、わずかに変わった。
「……あれは、その……皆が面白がると思って」
「どこで聞いた話ですか」
「昔、外で……」
「詳細に説明しましたか」
「……はい」
「段階的に?」
「はい」
記乃は頷いた。
(条件は完全に揃っている)
そして、決定的な部分を確認する。
「その話を、寝る前にしていましたか」
榎本は、視線を逸らした。
「……はい」
「複数人で」
「……はい」
沈黙が落ちる。
記乃は、それ以上責めなかった。責めても、情報は増えない。
必要なのは、構造の確定だ。
「確認します」
記乃は、紙片を一枚取り出し、整理された内容を口にする。
「侍女たちは、就寝前にあなたから怪談を聞く。そしてその内容は、夢の進行順と一致している」
「……はい」
「同時に、この香を焚いて眠る」
「はい」
「その結果、同じ夢を見る」
榎本は、何も言えなかった。
記乃は続ける。
「これは、怪異ではありません」
声は静かだった。
「情報による暗示と、環境による固定、その両方によって再現された現象です」
榎本の肩が、わずかに震えた。
「……そんなつもりは」
「害意の有無は、現象の成立条件には関係ありません」
記乃は遮った。
「結果として、同じ構造が繰り返されていることが重要です」
榎本は唇を噛んだ。
「……皆が、怖がっていて」
「ええ」
「だから、逆に……香を使えば大丈夫だって」
「安心させるために」
「はい……」
(動機は防御)
だが、それは誤りだ。
「恐怖は、打ち消そうとすると強化されます」
記乃は淡々と言った。
「特に、構造を持った恐怖は」
榎本は、ゆっくりと顔を上げた。
「……どうすれば」
「単純です」
記乃は紙片を畳む。
「噂を止めること」
「はい」
「香の使用を中止すること」
「……はい」
「夢の内容を、意図的に崩すこと」
「崩す、というのは……?」
「順序を乱す。間違えても死なないと伝える。構造を壊す」
榎本は呆然としていた。
「それで……消えるんですか」
「再現条件が崩れれば、現象は維持できません」
それだけの話だった。
記乃は立ち上がる。
「協力していただけますか」
榎本は、強く頷いた。
「……はい」
(これで、終わる)
だが、ここからが骨の折れる作業だった。
一週間。記乃は、澄子妃の棟を中心に動き続けた。噂の訂正、夢の再定義、会話の修正。
「間違えても問題ありません」
「夢に意味はありません」
「同じ夢を見る理由があります」
繰り返す。何度も何度も、同じ言葉を。
構造を壊すには、同じだけの反復が必要だった。
(人の認識は、一度では変わらない)
やがて、夢の報告は止まった。
数日後、記乃は真壁の執務室に立っていた。
「報告します」
「同じ夢の件か」
「はい」
記乃は、紙片を揃える。
「原因は、怪談による暗示と、共通環境による固定です」
「環境とは」
「白檀と薫衣草の香によるものです。鎮静効果により、夢の再現性が高まったと考えられます」
「発信源は」
「榎本という女御付きの侍女です。ただし、害意は確認されていません」
「処分の必要性は」
「不要と判断します。再発防止措置は実施済みです」
真壁は、短く息を吐いた。
「……そうか」
「はい」
「で」
真壁が視線を上げる。
「なぜもっと早く言わない」
「何をでしょうか」
「お前が澄子妃付きになった件だ」
「優先順位が低かったので」
真壁は、深くため息をついた。
「……お前は、本当に」
「事実を報告しました」
「そういう問題じゃない」
「そうですか」
会話は、そこで終わった。
その足で、記乃は別の棟へ向かった。
(念のため)
澄子妃と関わりも深いようであるし、伝えておいた方がいいやもしれないと判断した。それだけだ。
扉を叩く。
「失礼します」
中から声。
「入れ」
扉を開ける。
そして、久世は、手に持っていた万年筆を落とした。
「……なぜお前が?」
「報告です」
「私に?」
「澄子妃と多少の関わりがあるようでしたので、念の為です」
一拍。
久世は、ゆっくりと笑った。
「……明日の天気は、雨か」
「梅雨ですので、すでに降っております」
「なら、槍かもしれんな」
「私を何だと思っているのですか」
記乃は、淡々と説明を始めた。
現象、構造、原因、対処──すべてを、順序通りに。
久世は頷いている。
だが、内側では明らかに別の反応をしていた。
それは、三浦には分かっていた。
(喜んでいる)
理由は単純。
(向こうから来ることになろうとは……)
久世が喜んでいる理由は、それだけだった。
報告が終わる。
「以上です」
記乃は頭を下げた。
「では」
下げた頭を上げると、灰簾石の瞳が、一瞬、久世を真っ直ぐに捕らえる。
そして、静かに部屋を出ていく。
扉が閉まり、沈黙が部屋を占領する。
そして──
「見たか今の!」
久世が笑った。
「なんだあれ!」
三浦は目を伏せた。
「報告ですね」
「違う、そうじゃない!」
「報告です」
「私に、わざわざ、向こうから!」
「はい」
「ははは……!」
久世は、楽しそうに笑い続けた。
三浦は、小さく息を吐く。
(また、厄介な興味を持った)
それだけは、確実だった。




