第1章:4. 崩壊への前奏と深夜の愚痴(2)
しかしながら、職場に訪れたその凪のような静けさも、内湖のマンションを満たす日増しに濃密となる窒息感を覆い隠すことは到底できなかった。
木曜日の深夜十一時、台北の夜空からは煙るような細雨が降り注いでいた。
闕恆遠は、林森北路の條通(路地)深くに身を潜める隠れ家的な居酒屋の、カウンターの片隅に一人佇んでいた。
目の前に運ばれた刺身も焼き物もほとんど箸をつけられることはなく、ウイスキーのロックグラスの中で氷だけが頼りなく溶けていく。
滴り落ちる水滴が、重厚な檜のカウンターに濃い染みとなって輪を描いていた。
あの同窓会の夜が過ぎて以来、闕恆遠は底知れぬ自己否定と苛虐の渦に囚われ続けていた。
表向きには相変わらず冷徹無比なビジネスの歩調を崩さず、共同経営者の江睿宇の前でも従前と変わらぬ沈着さとプロフェッショナリズムを誇示していたが、彼自身だけは痛いほど自覚していた。
深夜の静寂に沈む自宅へと帰り着き、舒玟妤のあの媚びるような、それでいて罪悪感に苛まれた顔を見せつけられるたび、胸を突き上げる裏切りと屈辱の疼きが、どれほど毒蛇のように自らの心臓を喰い荒らしているかということを。
彼は自らの異常なほどの精神的潔癖を憎み、あの個室で連昊成が見せつけた傍若無人な挑発をそれ以上に憎悪していた。
そして、その場で見せた舒玟妤のあまりに脆弱な態勢と、事後の口ごもるような歯切れの悪さこそが、今や彼の心臓から永久に引き抜くことのできない一本の毒棘と化していたのだ。
アルコールが胃の腑でくすぶり、鋭い灼熱感を断続的にもたらしていた。
闕恆遠は硬く双眸を閉じると、強張ったこめかみを指先で強く揉みほぐした。
あてもなくスマートフォンの画面をスクロールしていた指先が、やがて見慣れた連絡先の上でぴたりと止まる。
それは大学時代から今日に至るまで、何でも腹を割って話してきた親友、玥映嵐の番号だった。
果てしない逡巡と心の葛藤の末、とうに限界を突破していた闕恆遠は、意を決して発信ボタンを押し込んだ。
受話器の向こうの呼び出し音は二回ほど鳴っただけで途切れ、玥映嵐の、微かな驚きを含みつつも柔らかく澄んだ声が耳朶を打った。
「恆遠?」
「こんな夜更けに電話なんて珍しいじゃない」
「どうかしたの? 何かあった?」
聞き慣れた、案じるような声音を耳にして、闕恆遠の喉の奥がきつく締めつけられた。
長い沈黙の末、彼は絞り出すように低く言葉を零した。
「映嵐……」
「もう、寝ていたか?」
「もし迷惑でなければ」
「少しだけ、酒に付き合ってくれないか」
それから三十分が過ぎた頃、居酒屋の入り口に掛かる藍染めの暖簾が静かに押し分けられ、ドアに結ばれた鈴が澄んだ音色をチリンと響かせた。
玥映嵐が足を踏み入れてくる。
無造作に肩へと流された黒髪に、どこまでも澄んだ印象的な瞳。
店内に足を踏み入れた彼女は、すぐさまカウンターの片隅に佇む、あの背中を丸めた痛ましい影をその視界に捉えた。
玥映嵐は足早に歩み寄ると、闕恆遠の隣の空いた席へと滑り込むように腰を下ろした。
すでに底をつきかけたグラスと、闕恆遠の瞳にびっしりと走る酷い充血を目の当たりにして、彼女の眉間はおのずと痛ましげに顰められた。
彼女の記憶にある闕恆遠という男は、いついかなる時も誇り高く、自信に満ち、何事にも動じない青年実業家そのものだった。
これほどまでに魂の抜けた、打ちのめされた彼の姿など、かつて一度として見たことがなかった。
「一体どうしたっていうのよ?」
「自分をこんなになるまで追い詰めて飲むなんて」
玥映嵐はそっと問いかけながら、店員が運んできたばかりの温かい烏龍茶を、彼の目の前へと静かに押し進めた。
闕恆遠は両手で頭を抱え込み、黒髪の奥深くに十本の指をぎゅっと食い込ませた。
何杯もの強い酒を煽った末に、彼はあの同窓会の夜に味わった耐えがたい屈辱、連昊成が耳元で囁いたあの卑劣極まる言葉、そして舒玟妤があの個室でまず真っ先に元恋人を庇い立てしようとしたその脆弱さを、途切れ途切れに、一語一語絞り出すように吐露していった。
男の声音は押し殺され、ほとんど掠れ果てており、充血した目元には必死に堪えてきた痛烈な赤みが滲んでいた。
「映嵐」
「俺はあいつが昔、何年誰と付き合っていようが、そんな過去を蒸し返したいわけじゃないんだ」
「誰にだって過去はある」
「そんなもの、最初から気にしたことすらなかった」
「だが、どうしても乗り越えられないのは……」
「あの男があいつの肩に腕を回し、同席した全員の面前で二人の寝物語をこれ見よがしに見せびらかしたその瞬間だ」
「あいつの最初の反応は、相手の頬を張り飛ばすことじゃなかった」
「俺を振り返って、『彼、酔っているの。離婚したばかりだから』と取りなそうとしたことだったんだ」
闕恆遠の口元に、極限の苦渋と疲労を孕んだ歪な笑みが張りついた。
握りしめた指の関節が、過剰な力のために白く浮き上がっている。
「あいつは場の空気を繕おうとした」
「事を荒立てず、丸く収めようとしたんだ」
「この一週間、自宅にいる間」
「俺は目を閉じるたび」
「耳元であの男の声が際限なく反響し続けるんだ」
「毎朝、朝食のトレイを運んできては、俺の顔色を窺い怯えながら媚びてくるあいつの姿を見ていると」
「吐き気と居たたまれなさで狂いそうになる……」
「それ以上に、自分自身が憎くてたまらないんだ」
「なぜ何食わぬ顔で聞き流してやれなかったのか」
「なぜこの手で、家庭をあんな氷室のような地獄に変えてしまっているのか……」
玥映嵐はただ静かに耳を傾けていた。
膝の上に置かれた両の手は、知らず知らずのうちに固く握りしめられ、綺麗に整えられた爪が掌の肉深くにめり込んでいく。
胸の奥底から、言葉にすらならないほどの酸い痛みと切なさが湧き上がっていた。
彼女は、闕恆遠を愛していた。
その秘めた片思いは、大学時代から今日に至るまで何年も途切れることなく続いていたのだ。
卒業後、彼女は遠くミラノへと留学した。
その年の冬、突如として彼から届いた入籍を告げるメッセージ。
冷え切った液晶画面越しに、引きつるような愛想笑いを浮かべながら、必死の思いで「おめでとう」の五文字を打ち込むことしかできなかったあの日の記憶。
彼女はその深すぎる愛を、誰にも見つからぬよう心の最深部に封じ込め、これまで微塵も表に出したことはなかった。
今この瞬間、自らが心から愛する男が、別の女の裏切りと脆弱さのためにここまで無残に打ちのめされている姿を目の当たりにして、彼女の喉元まで衝動的な言葉が出かかった。
『あなたの価値も分からない女なら』
『どうして手放してしまわないの?』
だが、闕恆遠の瞳の奥に宿る、どうしても断ち切ることのできない深い情愛と痛恨の色彩を見届けた瞬間、すべての身勝手な欲望は、理性と良心によって一瞬のうちに抑え込まれた。
闕恆遠を愛しているからこそ、その心の隙間に付け込んで彼の家庭を壊すような罪人になど断じてなりたくなかった。
彼が全身全霊を捧げて築き上げてきた家庭を、自らの手で粉々に壊してしまう姿など、あまりに痛ましくて見ていられなかったのだ。
愛する男がこれほどまでに卑劣な屈辱を浴びせられたことを知り、玥映嵐は深く息を吸い込むと、胸の内に煮えたぎる激しい怒りを力任せに押し殺した。
彼女は温かい茶杯へと手を伸ばすと、それを闕恆遠の氷のように冷え切った手の甲の上へそっと重ね、優しく、それでいてどこまでも澄明な眼差しで彼を見つめた。
「恆遠」
「私の目を見て」
闕恆遠はゆっくりと顔を上げた。
赤く充血したその深い双眸が、彼女の視線と真っ向から交錯する。
「今の話を聞く限り」
「その連昊成という男の底の浅さなんて」
「あなたほどの人が見抜けないはずがないでしょう?」
玥映嵐の口調は極めて冷静であり、その一言一言が寸分の狂いもなく急所を射抜いていた。
「離婚したばかりで、現実の壁にぶち当たって燻っているような男がよ?」
「わざわざ元カノの夫の前にしゃしゃり出て、何年も前のベッドの話をひけらかすなんて」
「そんなもの手腕でも何でもない」
「ただの劣等感の裏返しで、救いようのない下劣さの現れよ!」
「あいつがわざわざ最も下品な言葉を選んであなたを刺したのは」
「あなたを激昂させるためよ」
「理性を失って殴りかかってくる姿が見たかったの」
「あなたたち夫婦をいがみ合わせ、破滅へと追い込みたいだけ!」
「舒玟妤はその場のあまりの異常さに頭が真っ白になってしまっただけで」
「個室で掴み合いの喧嘩になって警察沙汰になるのを恐れるあまり」
「本能的にその場を収めようとしたに過ぎないんじゃないの?」
「それなのに、あなたが毎日家で彼女を冷遇し続けて」
「冷酷な沈黙で彼女を遠くへ突き放し続けるというのなら」
「恆遠」
「それこそ、あの男の思う壺じゃないの」
玥映嵐の口調はどこまでも穏やかで、荒んだ心を包み込むような静かな力に満ちていた。
「舒玟妤はあの瞬間、ただ呆然と怯えて」
「どう振る舞えばいいのか分からなかっただけよ」
「よく考えてみて」
「二人が一緒になって、もうどれだけの月日が経ったと思っているの?」
「彼女がどんな人柄なのか、あなたが一番よく知っているはずでしょう」
「もし彼女の心にまだ連昊成への未練なんてものが残っていたら」
「最初からあなたとの結婚を選ぶはずなんてないわ」
「雨風に晒されない結婚生活なんて、この世のどこにもない」
「二人で生きていくということはね」
「どちらかが先に、歩み寄るための階段を差し出してあげなきゃいけないのよ」
玥映嵐はそっとその手を引き戻すと、優しく、しかしどこか淡い苦さを孕んだ笑みを口元に浮かべた。
「彼女を愛しているんでしょう?」
「そうじゃないの?」
「愛しているなら」
「冷たい無視で互いをいたぶるような真似は、もうやめなさい」
「気持ちを切り替えて、彼女に向き合ってみて」
「もう一度、二人が言葉を交わすためのきっかけを作ってあげるのよ」
「まずは腹を割って、胸の内をちゃんと話し合うこと」
「私に約束して」
「明日目が覚めたら」
「もう少しだけ、彼女に優しく接してみてあげて」
「いいわね?」
闕恆遠は、いついかなる時も自分を温かく包み込んでくれる目の前の親友を見つめた。
胸の奥底で凍りついていた冷たい一角に、ある種の温もりを帯びた泉の水が、そっと触れたかのような感覚だった。
彼は深く息を吸い込むと、静かに頷いた。
「ありがとう」
「映嵐」
「こんな夜更けに、わざわざ呼び出して愚痴を聞かせてしまってすまない」
「馬鹿ね」
「私たち、一番の親友じゃない」
玥映嵐はくすりと笑って首を横に振った。
瞳の最深部で極限まで押し殺された狂おしいほどの愛憐と切なさは、薄暗い居酒屋の灯火によって、完璧なまでに覆い隠されていた。




