第1章:4. 崩壊への前奏と深夜の愚痴(1)
新しい会社に入って二週目を迎え、信義区のオフィスのテンポは精密な歯車のように高速で回転していた。
舒玟妤は、二十八階の足元から広がるガラス窓越しに街全体を見下ろす景観にも、毎朝カードをかざしてオープンスペースの執務フロアへ足を踏み入れるたび、肌を刺す冷気と漂うコーヒーの香りにも、次第に慣れつつあった。
同じチームとなった千慕羽は、相変わらず極めて張り詰めた集中力を保ち続けており、そのデスクの上には常にデータ分析レポートと市場調査資料が整然とカテゴリーごとに並べられていた。
二人の業務上のやり取りは慇懃かつ極めて効率的だった。
千慕羽は時折、舒玟妤がレポートの照合作業で行き詰まっていると、簡潔かつ的確にその問題の所在を指摘してくれ、それが終わればすぐに自らの作業へと戻っていった。
無用な世辞やプライベートへの詮索など一切交えないその距離感は、舒玟妤の張り詰めていた心を大いに安らげてくれていた。
そして連昊成に関しても、舒玟妤が身構えていたあらゆる気まずさや屈辱的な場面は、奇跡のように何ひとつとして起こらなかった。
オフィスにおける連昊成は、完璧とすら言えるプロフェッショナルとしての立ち居振る舞いを貫いていた。
仕立ての良いスーツを端正に着こなし、いくつもの会議室を精力的に行き交い、すべての部下に対して公平無私に接し、その口調には常に重みと説得力が宿っていた。
定例の企画進捗レビューにおいても、連昊成は過去の個人的な出来事には爪の先ほども触れず、視線すら舒玟妤の上でわずか一秒たりとも余計に留めることすらなかった。
廊下やすれ違いざまのリフレッシュルームで居合わせても、ただ礼儀として微かに顎を引き、上級役員特有の距離感と気配りを見せるだけだった。
水曜日の午後、部門の定例会議が終了した直後、ノートパソコンを片付けようとしていた舒玟妤を、連昊成が静かに呼び止めた。
「舒さん」
「少しだけ残っていただけますか」
千慕羽はパソコンを閉じると、舒玟妤へ向けて小さく頷き、書類を抱えて音もなく会議室を後にした。
その際、背後のガラス扉を静かに閉め切っていった。
舒玟妤の胸がぎゅっと竦み上がり、無意識のうちに手にした万年筆を強く握りしめながら、歩み寄ってくる連昊成を見上げた。
連昊成は長テーブルの向かい側にあるレザーチェアを引いて腰を下ろした。
その佇まいには何のやましさも感じられず、極めて自然な動作でビジネスバッグから、落ち着いた濃紺のリボンが結ばれた、無駄のないデザインのダークグレーの細長い小箱を取り出すと、舒玟妤の目の前へとそっと押し出した。
「これは……?」
舒玟妤は警戒心を露わにしながら、わずかに身を引いた。
「そう身構えないでほしい」
連昊成はふっと微かに笑った。
その眼差しはどこまでも澄み、誠実さに満ちており、声音の中には一片の軽薄さも窺えなかった。
「ドイツ製の上等な万年筆だよ」
「それほど大層な品物というわけでもない」
「君がこの二週間で提出してくれたブランド戦略の企画書は、実に骨太で申し分のない出来栄えだった」
「クライアント側からの手応えも上々だ」
「部門の責任者として」
「優秀な成果を収めた新人へ、ささやかな激励の印として贈らせてもらいたいんだ」
舒玟妤は慌てて首を横に振り、両手を前に出して辞退の仕草を見せた。
「連総監」
「それは受け取れません」
「自分の仕事を全うしただけに過ぎませんし」
「それに、データの整理では千慕羽さんも多大な貢献をしてくれました」
「私だけが頂くわけにはいきません」
連昊成は彼女が断ることをとうに見抜いていたように、浮かべていた笑みを収めると、その声音をこの上なく真摯で厳かなものへと改めた。
「千慕羽の方にも」
「プロジェクトが完全に形になった段階で」
「相応の成果報酬を出すつもりでいる」
「玟妤」
「この前の同窓会でのことだが」
「酒を煽りすぎていたとはいえ」
「くだらない暴言を並べ立ててしまった」
「君には計り知れない苦痛と迷惑をかけたと思っている」
「ずっと、君に対して正式に詫びを入れなければと悔いていたんだ」
舒玟妤は息を呑んで立ちすくんだ。
連昊成の口から、あの夜の出来事が自発的に切り出されるなど夢にも思っていなかったのだ。
連昊成は小さく息を吐き出すと自嘲気味に苦笑を漏らし、その瞳には幾多の辛酸を舐めてきた大人の男特有の諦念と疲労の色が滲んでいた。
「離婚の手続きが重なって」
「あの頃はどうにも情緒が不安定になっていたんだ」
「そのせいで、酒の勢いに任せてあんな無様な失態を晒してしまった」
「だが、これだけは信じてほしい」
「今の私の唯一の目的は、この部門を率いて確固たる成果を上げることだけだ」
「会社が君を採用したのも」
「純粋に君のプロとしての卓越した能力を評価した結果に他ならない」
「この万年筆は、どうか気兼ねなく受け取ってくれ」
「純然たる業務上の功績に対する評価に過ぎないのだから」
「これすら頑なに拒まれてしまうと」
「かえって私たちの間に、まだ何か引きずっているわだかまりでもあるかのように見えてしまう」
「そうは思わないかい?」
その言葉の端々には微塵の隙もなく、どこまでも誠心誠意に満ちていた。
連昊成の所作には一片の越境もなく、その眼差しも佇まいも、過去の無様な失態を心底から悔い改め、純粋に才能ある部下を重んじる成熟した上司そのものだった。
舒玟妤がこれまで幾重にも張り巡らせてきた心の防壁は、このあまりに筋の通った至極まっとうな弁舌を前にして、根底から大きく揺らぎ始めた。
眼前にある、洗練されつつも決してこれ見よがしではない小箱を見つめながら、この二週間にわたって彼女の心を極限まで締め上げ続けていた一本の弦が、ついに緩やかに解かれていった。
連昊成は本当に変わったのだ。
精神的にも成熟し、過去の執着をきれいに清算し、公私の境界を誰よりも厳格に引こうと足掻いている。
過剰に過敏になり、疑心暗鬼に囚われて事態を無駄にややこしく拗らせていたのは、実のところ自分の方だったのかもしれない。
「……ありがとうございます、連総監」
「これからのプロジェクトでも、より一層尽力いたします」
舒玟妤はほんの一瞬だけ躊躇したものの、最後には両手を伸ばし、その細長い小箱を受け取ると、自らのハンドバッグの底へと慎重に滑り込ませた。
その光景を目にした連昊成の口元に、極めて密やかな、柔らかな弧がかすかに浮かび上がった。
だが彼はすぐに立ち上がると、来週予定されている取引先との打ち合わせ日程について事務的な指示を淡々と言い残し、会議室の扉を押し開けて立ち去っていった。
誰もいなくなった静寂の会議室で、舒玟妤は肺腑の底から長く重い息を吐き出した。
胸の奥底に澱のように沈殿していた最後の懸念と恐怖が、この瞬間、完全に霧散していくのを感じていた。
あのとき衝動に任せて辞職を選ばなくて本当によかったと、彼女は密かに胸を撫で下ろした。
連昊成がこのプロフェッショナルな距離感を保ち続けてくれる限り、自分はこのトップクラスの外資系企業で着実にキャリアを積み上げていくことができるのだ、と。




