第1章:3. オフィスビルに漂う曖昧な噂(2)
それからの三、四日の間、オフィスでの日常は舒玟妤が想像していたよりもずっと平穏に過ぎていった。
連昊成は外資系企業のディレクターとして極めて洗練されたプロフェッショナリズムを遺憾なく発揮し、連日びっしりと詰まったスケジュールをこなしながら、大口投資家との会合や取締役会の間を多忙に行き交っていた。
廊下やリフレッシュルームで偶然居合わせても、連昊成はただ慇懃に会釈を返すだけで、精々エレベーターの中で何気なく声をかけてくる程度だった。
「システムのアカウント権限はすべて開通したかい?」
「職場にはもう慣れたかな?」
舒玟妤はいつだって全身の神経を張り詰めさせ、礼儀正しく慣れましたと答え、すぐさま一歩脇へと身を引いた。
一方の千慕羽は並外れた高い実務能力を発揮し、配属初週にして過去二年分の市場データレポートを鮮やかに整理し終えていた。
毎朝定刻に出社しては緻密なデータ分析に没頭し、退勤時間になると同時にビジネスバッグをまとめて席を立つ。
二人の間には、礼儀正しくも無駄のない、極めて効率的な同僚としての関係が保たれていた。
金曜日の午後を迎え、部門では定例のプロジェクト進捗報告会が執り行われていた。
舒玟妤は大型会議室の壇上で、自らが練り上げたブランド戦略の初期構想を初めて全社に向けて発表した。
だが極度の緊張のあまり、予算配分の説明に至ったところで言葉を詰まらせてしまい、並み居るベテランマネージャーたちの眉間にわずかな険が走った。
会議室の空気が重く淀みかけた、まさにその瞬間だった。
上座に腰掛けていた連昊成が、指先でコンコンとデスクを軽く叩き、穏やかな声音で口を開いた。
「舒さんの提案の核は、初期フェーズにおけるブランド露出効果の最大化にある」
「予算の比重をオンラインチャネルへ傾斜させる判断は極めて合理的だ」
「詳細な数値の微調整は来週詰めることにして」
「全体の方向性としては完全に的を射ているよ」
その一見すると極めて公正で客観的な助け舟によって、会議は滞りなく進行していった。
自席へと戻った舒玟妤の胸の奥には、複雑で言葉にし難い感情が渦を巻いていた。
同窓会の場で見せた連昊成の破廉恥な振る舞いを激しく憎悪する一方で――。
家庭内で一週間にわたり浴びせられ続けたあの凍てつくような冷暴力の後では、職場で彼が見せた洗練された立ち居振る舞いと庇い立てが、乾ききって張り詰めていた彼女の心に、皮肉にも久しく忘れていた安堵の吐息をもたらしてしまったのだ。
金曜日の深夜九時、舒玟妤はタクシーに揺られて内湖の自宅へと帰り着いた。
玄関の扉を押し開けると、リビングは相変わらず一面の暗闇に沈んでおり、ただ書斎のドアの隙間から、細く頼りない冷白色の光が漏れ出ているだけだった。
闕恆遠は家にいる。
だが、この家はまるで氷室のように底冷えしていた。
舒玟妤はビジネスバッグをそっと玄関のカウンターへ置き、スリッパへと履き替え、キッチンへ向かって白湯を一杯注いだ。
リビングの中央に佇み、固く閉ざされた書斎の扉を見つめながら、彼女は長いこと逡巡していた。
それでも最後には勇気を振り絞り、そこへと歩み寄ると、扉をそっとノックした。
「恆遠」
「ただいま、帰ったわ」
中から数秒の沈黙が返り、やがて椅子が床を滑る微かな音が響いた。
扉が半分ほど開け放たれ、部屋着の黒いスラックスにダークトーンのカットソーを纏った闕恆遠が姿を現した。
その端正で彫りの深い顔立ちには隠しようもない疲労が滲み、漆黒の双眸は底なしの淵のように冷え切って、何の感情の揺らぎも見出せなかった。
「何か用か?」
彼の声音には、一片の波風すら立っていなかった。
舒玟妤は目の前に立つ、自らが深く愛する夫の姿を見つめた。
その目頭がじんわりと熱を帯びていくのを覚えながら、彼女は強張る頬に必死で笑みを浮かべ、二人の間に立ち塞がるこの分厚い隔たりを打ち砕こうと言葉を探した。
「今週の新しいお仕事……」
「すごく順調だったわ」
「部署の同僚もみんな付き合いやすい人たちばかりだし」
「プロジェクトもやりがいがありそうで」
彼女は相手の出方を窺うように言葉を紡ぎながらも、胸の奥では心臓が早鐘を打っていた。
闕恆遠から次の瞬間、「お前の上司は誰なんだ」と問い糾されるのではないかと、恐怖に竦み上がっていたのだ。
だが、闕恆遠はただ淡々と彼女を一瞥しただけだった。
その眼差しには一片の好奇心も、微かな気遣いもなく、ただ骨の髄まで染み渡るような冷徹な隔絶感だけが漂っていた。
「順調なら結構だ」
闕恆遠はただその一言だけを冷淡に返すと、扉を押し戻そうとした。
舒玟妤の胸が、どくりと激しく沈み込んだ。
これほどまでに冷え切った闕恆遠の佇まいを前にして、喉元まで出かかっていたあの真実の破片は、この瞬間、完全に心の奥底へと固く封じ込められた。
もう二度と、口にすることなどできはしない。
たった一言問いかけることすら拒絶する夫を前にして、連昊成が自らの直属の上司であるなどと、どうして告白できるというのか。
書斎の扉が、再び音もなくゆっくりと閉ざされていく。
舒玟妤は暗がりが広がる廊下に一人取り残され、次第に冷めていく白湯のグラスを握りしめながら、果てのない荒涼感と焦燥にじわじわと呑み込まれていった。
彼女は身を翻し、窓の外に広がる台北の深夜のネオンを見つめた。
彼女はまだ知る由もなかった。
この婚姻を守り抜くために選び取ったその秘め事が、すでに猛毒を孕んだ一粒の種となって、平穏を装うあのオフィスビルと冷酷な家庭の狭間に静かに蒔かれてしまったことを。
あとはただ、次の引き金を待ちわび、狂ったように芽吹き、すべてを喰い破る瞬間を窺っているだけなのだということを。




