第1章:3. オフィスビルに漂う曖昧な噂(1)
月曜日の朝八時三十分、台北市信義計画区の街並みは、すでに押し寄せる波のような通勤ラッシュに呑み込まれていた。
地下鉄市政府駅の出口では、折り目の正しいビジネススーツや身頃の合ったスーツに身を包んだ男女が足早に行き交い、革靴とハイヒールが花崗岩のタイルを打つ乾いた音が、規則正しく響き渡っている。
舒玟妤はエスカレーターに乗ってゆっくりと地下鉄の改札を抜け、目の前にそびえ立つ、朝の淡い光をガラス壁に反射させながら天を突く超高層オフィスビルを見上げたた。
吹き抜けになったエントランスホールのガラス扉の上には、金箔押しの英文字が誇らしげに掲げられており、この多国籍合弁資産運用機関が金融界で占める名声の高さを物語っていた。
彼女は深く息を吸い込み、身につけたタイトスカートの裾をそっと手で撫で下ろすと、端正で洗練されたプロフェッショナルとしての微笑みを顔に張り付かせた。
この週末の間、内湖の自宅に充満していた凍てつく空気は、彼女の息を止めんばかりだった。
闕恆遠は仕事でやむを得ず外出する以外、残りの時間のすべてを書斎に引きこもって過ごし、二人の間には余計な挨拶の言葉ひとつ交わされることはなかった。
舒玟妤は今、新たな舞台を、己の価値を証明し得る格式ある実績を切実に欲していた。
このトップクラスの外資系企業で確固たる足場を築き、恵まれた報酬を手に入れることさえできれば、冷え切っていく夫婦生活に再び息を吹き込む強力な特効薬になるはずだと――彼女はそんな淡く無邪気な思いすら抱いていたのだ。
彼女は高速エレベーターに乗り込み、一気に二十八階へと上がった。
フロア一面に敷き詰められた大理石の床には塵ひとつなく、受付の後ろには巨大な金属製の社名ロゴが掲げられ、寒色系のダウンライトの下で圧倒的な威容を放っている。
舒玟妤は指示に従って人事部での着任手続きを済ませ、正式な社員の証である磁気カードの社員証と従業員ハンドブックを受け取った。
人事の担当者は細縁の眼鏡をかけた若い女性で、礼儀正しいものの極めて事務的な態度を崩さず、舒玟妤の書類を確認し終えると、広々としたオープンスペースの執務エリアへと彼女を案内した。
「舒さん」
「企画部門はこちらのエリアになります」
「本日は舒さんの他にも」
「もう一人、本日付で着任された方がいらっしゃいます」
人事担当者は歩みを進めながら、通り沿いにある会議室やコピー機の配置などを手短に説明していった。
その時、すぐ脇のリフレッシュルームから、すらりと背の高い、落ち着きと洗練された気品を纏った若い女性が姿を現した。
その黒髪は低い位置ですっきりと一本のポニーテールに束ねられ、手には無駄のないデザインの黒い保温ボトルが握られている。
身につけているのは、極めて上質でありながらブランドロゴを一切主張しない生成り色のシルクシャツ。
全身から、徹底したビジネスの英才教育を身に帯びた者特有の、張り詰めた集中力と冷徹なまでの冷静さが漂っていた。
人事担当者は足を止め、二人の顔を見合わせた。
「こちらが本日、同時に配属となりました千慕羽さんです」
「プロジェクトのデータ分析と市場企画を担当されます」
「お二人は今後同じチームとなりますので」
「色々と情報共有しながら進めていってくださいね」
「はじめまして」
「千慕羽と申します」
千慕羽は静かに会釈を交わし、淀みのない自然な口調と澄み渡った堂々たる眼差しで、舒玟妤へ向けて自ら右手を差し出した。
舒玟妤は慌ててその手を握り返したが、相手の掌は温かく、芯の通った力強さに満ちていた。
「はじめまして」
「舒玟妤です」
「ブランドマーケティング企画を担当することになりました」
「これからよろしくお願いします」
千慕羽はただ礼儀正しく微笑むと、その黒い保温ボトルを手に、手元の新人研修マニュアルへと静かに視線を落とした。
人の声が行き交いざわつく新人着任エリアで、周囲の同僚たちがブランド物のバッグや信義区のグルメの話題で熱心に盛り上がる中、千慕羽だけは平然とした佇まいを崩さなかった。
その眼差しは、分厚い運用データレポートの一行一行へと真っ直ぐに向けられ、澄み渡りながらも深淵な光を湛えていた。
まるで、外の世界の浮ついた社交辞令や空虚な世辞など、何ひとつとしてその瞳には映っていないかのようだった。
舒玟妤は胸の内でそっと安堵の息を漏らした。
このようにプロフェッショナルで、無用な噂話や派閥争いとは無縁そうな同僚と組めることは、不慣れな新環境において大きな安心感をもたらしてくれた。
「それでは」
「お二人とも、こちらへどうぞ」
「企画部門のディレクターをご紹介いたします」
人事担当者は身を翻すと、廊下の突き当たりにある信義区のパノラマを一望できる独立した個室オフィスへと歩みを進め、曇りガラスの扉を軽く二度ノックした。
「どうぞ」
オフィスの中から、低く深みのある男の声が返ってきた。
その響きには、上級管理職だけが纏う特有の威厳と揺るぎない余裕が滲んでいた。
人事担当者がドアを押し開き、舒玟妤と千慕羽を先へ促すように身を引いた。
舒玟妤は笑みをたたえて部屋へと足を踏み入れ、重厚なダークウッドの巨大なデスクへと視線を向けた。
だが――ハイバックのレザーチェアに腰掛けている男の姿をはっきりと視界に捉えた瞬間、彼女の顔から笑みがコンマ一秒のうちに完全に凍りついた。
まるで全身を落雷に貫かれたかのように、全身の血が瞬時に底冷えしていくのを感じた。
デスクの奥に座っていた男は、彼女が思い描いていたような白髪の老練な外国人エグゼクティブなどではなかった。
仕立ての良いダークグレーのスリーピースのオーダーメイドスーツを完璧に着こなし、髪を寸分の乱れもなく撫でつけた、連昊成その人だった。
鼻梁には繊細な金縁メガネをかけ、成熟した大人の男が漂わせる落ち着きと高貴な風格を全身から放っている。
先週の同窓会の個室で泥酔し、下劣で放埓に暴れ回っていたあの下品な無頼漢の面影など、どこにも見当たらなかった。
舒玟妤と千慕羽が足を踏み入れたのを目にすると、連昊成は平然とした面持ちでデスクの上の書類を閉じ、ゆっくりと革張りの椅子から立ち上がった。
その口元には、完璧に計算された礼儀正しい微笑みが浮かんでいた。
「総監」
「こちらが本日付で配属となりました、企画部の新しいメンバーです」
「舒玟妤さんと、千慕羽さんになります」
人事担当者が恭しく紹介の言葉を口にした。
舒玟妤は両手を体の脇でぎゅっと握りしめ、スカートの布地を爪が食い込むほど引き絞った。
心臓が狂ったような早鐘を打って胸骨を打ちつけ、氷のような寒気が背骨を駆け上がって頭頂部を突き抜ける。
どうして、あいつがここにいるの――?!
台北の金融界や外資系の界隈は、そこまで狭いというのか?
どうして、この多国籍合弁機関の企画ディレクターが……よりによって連昊成なのよ?!
無秩序に乱れ飛ぶ思考が、この一瞬の間に彼女の脳内を激しく揺さぶり抜けた。
先週の日曜の夜にかかってきたあの面接通知の電話は、連昊成が求職システムの中で彼女の履歴書を見つけたからなのか?
それとも、ただのあまりに不条理で悪辣な偶然に過ぎないのか?!
舒玟妤の頭の中は真っ白に染まり、今すぐにでも踵を返してこのオフィスから逃げ出し、社員証を破り捨てて立ち去りたいという衝動が全身を支配した。
だが――次の瞬間。
闕恆遠のあの氷のように沈み切った冷徹な顔が、前触れもなく脳裏に浮かび上がった。
この一週間のあいだ闕恆遠が貫いた絶対の沈黙。
『俺の逆鱗を試そうとでもしたのか』という容赦のない糾弾。
目の前で無慈悲に閉ざされたあの書斎の扉。
そのすべてが、耳元で狂ったように鳴り響く警鐘となって彼女を打ち据えた。
もし、今ここで逃げ出して仕事を辞めてしまったら、彼になんと説明すればいいというのか?
そして何よりも致命的なのは――この会社のディレクターが連昊成だと闕恆遠に知られてしまったら。
闕恆遠がそれを単なる偶然だと信じるはずなど、天地が覆っても絶対にあり得ない。
彼女と連昊成が裏で示し合わせていたと決めつけ、あの崩れかけた婚姻関係は、今日この場で跡形もなく粉々に砕け散るに違いない!
舒玟妤は激しい眩暈に襲われた。
底知れぬ恐怖と保身の防衛本能が、絡みつく蔦のように理性を締め上げ、彼女の足を床へと縫い止めて一歩も動かせなくしていた。
「私たちのチームへようこそ」
連昊成は長い脚を踏み出し、デスクの向こう側から悠然と歩み出てきた。
その足取りには揺るぎない自信と落ち着きが宿り、視線は千慕羽の上にわずか半秒ほど留まった後、紙のように青ざめた舒玟妤の顔へと極めて自然に流れた。
その瞳の奥には、同窓会で見せた軽薄な色など微塵もなく、ただ部下を値踏みする上級管理職特有の静けさと礼節だけが湛えられていた。
彼はまず、千慕羽に向かって右手を差し出した。
「千さん」
「以前提出していただいたデータ分析のフレームワークを拝見しました」
「非常に緻密なロジックが組まれていましたね」
「その厳格な基準を、ぜひ我が部門にも持ち込んで発揮していただきたい」
千慕羽は静けさを崩さず、その手を取って礼儀正しく握手を交わした。
「ありがとうございます、連総監」
「速やかにプロジェクトのフローを把握し、貢献できるよう努めます」
続いて連昊成は、全身を硬直させている舒玟妤の方へと向き直り、鷹揚に右手を差し出した。
「舒さん」
「あなたのブランド戦略の企画実績も、実に独創的で素晴らしいものでした」
「私たちのチームには現在、まさにそうした既存の枠組みに捉われない発想力が必要とされているのです」
「これからのご活躍に、大いに期待していますよ」
その声音はどこまでも公私を弁えたビジネスライクなもので、呼びかけさえも「舒さん」と他人のように響き、二人の間に四年もの長きにわたる大学時代の恋愛が存在したことなどまるで無かったかのようだった。
先週繰り広げられたあの耐え難い屈辱の記憶すら、綺麗に消し去られたかのように。
差し出された連昊成の手を見つめながら、人事担当者と千慕羽の視線が注がれる中で、舒玟妤には逃げ場などどこにも残されていなかった。
彼女は震える指先を強張らせながら伸ばし、彼の掌へと形ばかりに触れ合わせた。
「あ……」
「ありがとうございます、総監」
舒玟妤の声は、自分自身の耳にさえ届かないほど微弱に震えていた。
連昊成は手を引くと、顔色ひとつ変えずにごく事務的な態度で、部門が直近で抱える中核プロジェクトの概要を淡々と告げ、人事担当者に二人をそれぞれの執務スペースへ案内するよう促した。
ディレクター室を一歩出た瞬間、舒玟妤の背中は冷や汗でぐっしょりと濡れそぼっていた。
隣を歩く千慕羽はノートパソコンに目を落とし、午前中の社内システムのアカウント権限の申請手順を小さく呟きながら確認しており、完全に自らの仕事のテンポに没頭していた。
隣に並ぶ新しい同僚が、今まさに魂をもぎ取られるような激震に見舞われたことなど、露ほども気づいていない様子だった。
舒玟妤はパーティションで区切られた自席のデスクに腰を下ろし、力なく両手をキーボードの上に置いた。
眼前に据えられた真新しいノートパソコンの画面を見つめながら、彼女の胸の奥底では激しい葛藤が渦巻いていた。
打ち明けるべきか、それとも黙っているべきか?
今夜家に帰り、闕恆遠にすべてを打ち明けたところで、あの誇り高く精神的な潔癖さを抱える男が、即座に退職を迫らないはずがない。
それどころか、彼女の不実を完全に決定づけてしまうだろう。
だが、もし歯を食いしばってここに留まり、連昊成と徹底して公私の境界を引き、ただの平凡な上司として接することさえできれば――。
彼女が口を閉ざし、職場の連昊成があれほど自制心を保ちプロフェッショナルに徹しているのなら、もしかすると……この事態は何事もなく、誰にも知られずにやり過ごせるのかもしれない。
『自分の仕事さえ完璧にこなせばいい』
『あいつと私的な関わりを一切持たなければ、それで済む話よ』
舒玟妤は胸の内で何度も何度もその言葉を繰り返した。
自らの怯懦と弱さに都合のいい言い訳を与え、己を欺き続けながら。
そして彼女はついに決断を下した。
この事実のすべてを闇に葬り、闕恆遠には一言も漏らさない、と。




