第1章:12. 指先の温度と、軒下の約束(4)
舒玟妤が総監室を後にし、給湯室へと続く廊下に差し掛かったとき、保温マグを手に出てきた千慕羽と真正面から出くわした。
千慕羽は小さく歩みを止め、どこか落ち着かない様子の舒玟妤の横顔に静かに視線を落とした。
先ほど自分が会食を断った直後、連昊成は間髪を容れずに舒玟妤を部屋へと呼びつけたのだ。千慕羽の鋭い洞察力をもってすれば、その内幕など七、八割方は容易に察しがついた。
千慕羽の表情は相変わらず涼やかで、口調こそ何気ない風を装っていたものの、そこには一線を引くような密やかな警告が滲んでいた。
「玟妤、」
「連総監に呼ばれたのは……」
「今夜の微風南山でのディナーのこと?」
舒玟妤は一瞬言葉に詰まり、抱えていたファイルホルダーを握る指先にかすかに力を込めた。
引き立てられた高揚感に満ちていたはずの胸が、その静かな問いかけによって、なぜか後ろめたさめいた痛みでちくりと刺される。
しかし、連昊成が口にした「異例のマネージャー昇進」と、多国籍企業の重役への引き合わせという言葉が脳裏をよぎると、舒玟妤は努めて完璧な営業用の笑みを浮かべ、頷いてみせた。
「ええ、」
「総監から、香港のディレクターがプロジェクトの報告を直接聞きたがっているとお聞きしたの」
「部署を代表して、私も同席してほしいって」
千慕羽は伏し目がちにブラックコーヒーを一口啜った。
根掘り葉掘り細かな事情を問い詰めることはせず、ただ平然とした声音で、何気なさを装って言葉を落とす。
「連総監は、仕事と私的な付き合いの境界線を曖昧にしがちな人だから」
「微風南山のような個室の会食には、あまり深入りしないほうがいいわ」
「少し警戒心を持っておくくらいで、ちょうどいいと思うけれど」
その言葉はひどく淡々としていたが、まるで細い針のように、舒玟妤が必死に覆い隠そうとしていたやましい痛烈な急所を、容赦なく突き刺した――
夫に内緒で元恋人と高級フレンチへ赴く。その行為自体、白日の下に晒されれば決して弁解の立たないものだった。
見透かされた羞恥と動揺を誤魔化すように、舒玟妤は本能的な防衛線を張り巡らせた。
口元の笑みを微かに引きつらせ、強張った声で言い訳を重ねる。
「ありがとう、」
「慕羽」
「でも、みんなプロジェクトのために本部から予算を引っ張ってこようと必死なわけだし」
「私はただ、現地でのプレゼンを全うしに行くだけよ」
「完全に公私を分けた仕事の話だし、」
「変な問題なんて起きようがないと思うわ」
千慕羽は、必死に平静を装いながらも泳ぐ視線を隠せない舒玟妤の姿を見つめ、これ以上の言葉はもはや届かないのだと悟った。
職場の同僚として、これ以上踏み込まずに釘を刺したのは、すでに十分すぎるほどの誠意だった。
千慕羽の澄んだ双眸には、それ以上の説得を試みる色すら浮かばなかった。
ただ極めて抑制された所作で小さく一度だけ頷くと、マグカップを手にしたまま、彼女の真横をすれ違うように通り過ぎていった。
舒玟妤はオープンスタイルのオフィスフロアにある自席へと戻り、エルゴノミクスチェアを引いて腰を下ろした。
深く息を吸い込むと、千慕羽の投げかけた警告の数々を頭の隅へと追いやる。
それから窓際の静かな一角へと足を向け、バッグからスマートフォンを取り出すと、闕恆遠の番号をタップした。
コール音が二度鳴ったところで通話が繋がり、受話器の向こうから、闕恆遠の低く温かみのある落ち着いた声が届いた。背後には、微かにコピー機が動くリズミカルな擦過音が混じっている。
「玟妤、」
「どうしたんだい?」
「この時間に電話なんて、」
「もう仕事は終わったのかな?」
「恆遠、」
「まだ終わっていないのよ」
舒玟妤はスマートフォンを握りしめ、眼下に広がる車の列が途切れない台北の街並みを見下ろしながら、極めて柔らかな猫撫で声を落とした。
「今日、うちの部署が提出したプロジェクトがね、」
「本部の満額承認を勝ち取ったの」
「それで、部署のエグゼクティブ・ディレクターが今夜、微風南山のレストランで盛大な祝勝ディナーを手配してくれて」
「アジア太平洋地域のアセットオペレーション部門の重役も、わざわざ香港から飛んで出席されるそうなの」
「その大物が、ぜひプレゼンを担当した私から直接詳しい話を聞きたいって指名してくださってね」
舒玟妤の口調はごく自然で、連昊成の実名や二人の過去の因縁を滑らかに覆い隠し、ただ「ディレクター」や「大物」という記号じみた肩書へとすり替えていた。
電話の向こうの闕恆遠は、それを聞くや、心からの喜びと誇らしさに満ちた声を弾ませた。
「本当に承認が下りたのかい?」
「よかった、」
「本当にすごいよ、」
「この一ヶ月、毎日夜遅くまで企画を練り直して頑張っていたからね」
「ようやく報われたんだな」
闕恆遠には、疑う素振りなど微塵もなかった。外資系企業で頭角を現すためには上層部との人脈作りや社交の場が不可欠なのは日常茶飯事であり、彼は妻のキャリアをいつだって誰よりも尊重していたのだ。
「微風南山のあたりは夜になるとビル風が冷えるだろう」
「暖かい格好はしているかい?」
「ディナーなら多少はお酒も口にするだろうから、」
「すきっ腹で飲まないように、少し何か胃に入れてからにしなよ」
「急いで飲んじゃだめだよ」
「わかってる、」
「気をつけるわね」
夫の細やかで行き届いた気遣いに触れ、舒玟妤の胸の奥には一瞬、温かな熱とわずかな罪悪感が湧き上がった。だがそれも、瞬く間に強固な自己正当化によって押し潰されていく。
自分はこの家庭のために身を粉にして働いているのだ。もっと広い新居を手に入れるという二人の夢へ、確かな道筋をつけるために。
自分さえ一線を越えずに踏みとどまっていれば、これはどこにでもある、至って当たり前のエグゼクティブな社交の場に過ぎないのだから。
「夜は何時ごろに終わりそうかい?」
「終わったらメッセージをくれれば、」
「車で迎えに行くよ」
闕恆遠がそう言った。
舒玟妤は心臓を微かに跳ねさせ、慌てて取り繕うように断りを入れた。
「わざわざ車を出さなくていいわよ、」
「あの手のエグゼクティブな会食は解散も遅くなりがちだし、」
「十時過ぎや十一時を回ってしまうかもしれないから」
「それに大ボスがね、帰り道は会社でアルファードみたいな役員車を手配して、出席者全員を家まで送ってくれるって言ってくれているの」
「あなただって、今日は現場回りで疲れ果てているでしょう?」
「仕事が終わったら早く帰って、お風呂に入ってゆっくり休んで」
「私のことは心配しないでね」
闕恆遠は穏やかに微笑んだ。
「わかったよ、」
「スマートフォンの連絡だけは常につくようにしておいてね」
「家に着く前に、一本電話をちょうだい」
「うん、」
「愛してるわ、」
「帰ったらまた話しましょう」
舒玟妤は通話を切ると、微かに息を吐き出した。
彼女は踵を返してパウダールームへと向かい、明るい女優ミラーの前に立つと、コンパクトを開いて丁寧にルージュを引き直し、香水を纏った。
鏡の中に映る女は、有能で、優雅で、美しく、そして上を目指す野心に満ちあふれていた。
ルージュをハンドバッグへと戻し、コートの襟元を整えると、彼女は背筋を伸ばしてパウダールームを後にした。




