第1章:12. 指先の温度と、軒下の約束(3)
その頃、信義承曜金融センターの二十八階。
広々として明るい凱盛アセットマネジメントのフロア内には、均一に保たれた空調の心地よい風とともに、高級ホワイトティーのフレグランスが大理石の床を撫でるように静かに漂っていた。
午後四時ちょうど、マーケティング&広報部門の大会議室に、割れんばかりの拍手が沸き起こった。
「ここ二か月にわたる皆の残業と奮闘に感謝する」
「先ほど、アジア太平洋統括本部より正式な承認サインが下りた」
「我が部門が提案した、台北フラッグシップ資産の年間PRプロジェクトが無事に採択されたぞ」
深灰色の英国調ダブルブレストスーツに身を包んだ連昊成は、プロジェクタースクリーンの前で背筋を凛と伸ばして立ち、非の打ちどころのないエグゼクティブらしい微笑みを湛えていた。
「今回の案件で満額の予算を勝ち取ることができたのは、」
「マーケティングチームの舒玟妤と、オペレーションチームの千慕羽の功績が大きい」
會議室の熱気が引くにつれ、同僚たちはそれぞれ笑顔で言葉を交わしながら散り散りに去っていった。
淡いベージュのスマートなカシミヤニットにキャメルのロングスカートをまとった舒玟妤は、会議の資料ファイルを胸に抱え、千慕羽とともにデスクへと戻ろうとしていた。
「玟妤、」
「少しだけ残ってもらえるかな」
「このメディアスケジュール表で、君に確認しておきたい点が二つほどあるんだ」
背後から掛けられた連昊成の声は、温かく柔らかな磁性を帯びていた。
隣を歩いていた千慕羽の足が、かすかに止まった。
千慕羽の表情はどこまでも冷静で、その奥深い瞳を一秒だけ連昊成にとどめた後、舒玟妤へと視線を戻し、淡々と言い添えた。
「なら、先に行って」
「私は席に戻って、午後の初稿をまとめておくわ。……あまり長居しないでね」
舒玟妤は千慕羽に感謝の笑みを返すと、踵を返して総監室へと戻っていった。
広々として静寂に包まれた個室の総監オフィス。壁一面のフロア・トゥ・シーリングのガラス窓からは、信義区の繁華な街並みが一望できた。
連昊成は輸入もののイタリア製カプセル式エスプレッソマシンの前へと歩み寄ると、自らの手でホット・アメリカーノを一杯淹れ、カップの縁に未開封のキャラメルビスケットをそっと添えた。
それから湯気を立てるカップを運び、舒玟妤の目の前にある無垢材のローテーブルへと置いた。
「ブラックコーヒーにキャラメルビスケット」
「大学四年の時、学生会で夜遅くまで企画書を書き上げていた頃の君の好物だろう?」
「記憶違いじゃなければいいけれど」
連昊成の眼差しは深みのある優しさを帯びており、その口調には、計算し尽くされたかのような懐かしさと親密さが過不足なく滲み出ていた。
舒玟妤の胸の奥が、かすかに震えた。
カップを支える指先が無意識にきゅっと強張る。
それは八年前、まだ大学にいた頃、二人だけの間で通じ合っていたはずの秘密の約束事だった。
「連総監は本当にお記憶が良いのですね」
「そんな昔の些細なことまで、まだ覚えていらっしゃるなんて」
舒玟妤は淡く微笑み、礼儀をわきまえた節度ある口調で言葉を返した。
だが、その瞳の奥にあったはずの張り詰めた警戒心は、音もなく忍び寄る温かな情の浸透によって、静かに、そして危うげに綻び始めていた。
「二人きりの時は昔馴染みの同窓生なんだ、」
「そう他人行儀に構えないでほしいな」
「昔と同じように、昊成と呼んでくれればいい」
連昊成はデスクの端に腰を預け、大人の色気を漂わせる微かな笑みを口元に浮かべながら、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。
「玟妤、」
「君がマーケティングで見せる天性のセンスと鋭さは、」
「私の想像をはるかに超えて素晴らしいよ」
「私についてしっかり実績を積んでくれれば、」
「来期のアジア太平洋地域マーケティングマネージャーのポストには、」
「私が全力で君を推薦するつもりだ」
「お引き立ていただき、ありがとうございます、総監」
「今後もより一層、精進いたします」
舒玟妤は上品に小さく礼をした。
最高の賛辞を受け止めたその双眸と頬には、確かな誇りと自信からくる熱い紅潮が、ふわりと差していた。
「そうだ、」
「今夜、大事な会食が入っていてね」
連昊成は自分のウォーターグラスを手に取り、何気なさを装って口を開いた。
「香港リージョナルのアセットオペレーション部門ディレクターであるリチャードが、今夜お忍びで台湾入りするんだ」
「微風南山四十七階にある最高級フレンチの個室ディナーをひとテーブル押さえてある」
「彼が今回の台北プロジェクトのメイン担当者に直接会いたいと指名してきてね」
「慕羽は今夜、家族の付き添いで病院へ行くためどうしても都合がつかないと言っていた」
「玟妤、」
「今夜のこの役員会食には、」
「君が私に同席してくれなくては困るんだ」
舒玟妤はかすかに息を呑み、戸惑いを隠せない様子で口を開いた。
「私が、同席ですか……?」
「総監、」
「普段このような重役クラスの非公式な会食は、」
「副総監以上の役職者のみが出席されるものではないのでしょうか?」
「だからこそ、君がその一歩を踏み出す絶好のチャンスなんだ」
連昊成は身を乗り出し、その双眸にどこまでも真摯な期待の色を宿してみせた。
「リチャードはアジア太平洋の取締役会でも極めて重い発言権を持っている」
「会食の席で彼に君の名を覚えてもらいさえすれば、」
「来期の昇進人事にこれっぽっちの懸念も残らない」
「君にはそれだけの確かな実力があるんだ」
「今夜、私が君を連れて中枢の人間たちに引き合わせる」
「これは君の今後のキャリアにとって、何よりも重要な意味を持つはずだよ」
その言葉はどこまでも堂に入り、一点の曇りもない完璧な大義名分を帯びていた。私的な密会に過ぎないディナーを、運命を左右するキャリアの跳躍台へと見事に仕立て上げ、舒玟妤の胸の奥底に燻る野心の急所を、容赦なく撃ち抜いていた。
舒玟妤の瞳の奥に、隠しきれない熱い光がよぎる。
彼女は迷いを振り切るように、こくりと頷いた。
「わかりました、」
「ありがとう、昊成」
「私、全身全霊で臨みます」
「あとでメイクを直して、」
「少し身なりを整えておいで」
「六時半に、私の車で一緒に行こう」
連昊成は柔らかな笑みを浮かべたが、その瞳の奥深くには、獲物を追い込み網を絞る狩人特有の、昏い光がかすかに閃いていた。




