第1章:12. 指先の温度と、軒下の約束(2)
午後二時半、敦化北路の「遠睿トータルデザイン」のオフィス内。
室内の空気には、カプセル式コーヒーの濃醇な香りがふわりと漂っていた。
デスクに向かった伊凝婉は、事務所の立ち上げ期に購入したオフィス機器や製図備品の領収書を一枚ずつ糊付けしながら照合を進めていた。公認会計士に引き渡すファイリングの準備と並行して、信義区プロジェクトの第一期着手金に関する請求書類の整理にも取り掛かっているところだった。
一方、自分のデスクについた悦清禾は、すでに洗面所で冷水を使って顔を洗ってきていた。
目の縁にはまだほんのりと赤みが残っていたものの、その表情は普段にも増して真剣味を帯びている。
マウスを握る手は淀みなくクリックを重ね、建築CADソフトの画面上で変更図面の修正を着々と進めていた。
その時、オフィスの扉に取り付けられた真鍮の風鈴が、カランと清らかで澄んだ音色を響かせた。
玥映嵐が、オフホワイトのピンヒールショートブーツを鳴らしながら軽やかに歩み入れてきた。
今日の装いは、ほどよい抜け感を漂わせつつも洗練されたキャメルのリバー仕立てダブルフェイスカシミヤコート。
ふわりと肩に流した長い髪と、手にした二つの瀟洒な黒いボックス——イタリア直輸入のテラゾー特大サンプルのカットピースが収められた箱が、彼女の持つ成熟した気品と育ちの良さを自然と際立たせていた。
「凝婉さん、」
「こんにちは」
玥映嵐は柔らかい笑みを浮かべ、伊凝婉に向かって親しげに挨拶の声をかけた。
「映嵐、いらっしゃい」
「恆遠なら奥で待っているわよ」
伊凝婉は顔をほころばせ、親しみあふれる様子で立ち上がって出迎えた。
玥映嵐の視線が開放感のある執務エリアを横切り、デスクで黙々と図面に向き合っていた悦清禾の姿へと、ごく自然に止まった。
人の気配に気づいた悦清禾は、慌てて礼儀正しく立ち上がり、深々と頭を下げた。
「玥さん、こんにちは!」
玥映嵐は足を止め、低い位置でポニーテールを結び、澄んだ瞳をした目の前の少女を数秒ほど静かに見つめた。
彼女は、悦清禾の目元に残るかすかな赤みと、所在なげに指先を縮こまらせている様子を鋭く察知した。
ふと胸の内で思うところがあったのか、その唇に親しみやすさを帯びた華やかな笑みをふわりと浮かべる。
「あなたが、悦清禾さんね?」
「恆遠から何度も話は聞いているわ」
「手描きの基礎が実にしっかりしていて、」
「何年も経験を積んだベテランのアシスタントよりもずっと気が利くって」
「そんな、滅相もありません」
「すべては闕総監と凝婉さんのご指導のおかげです」
悦清禾は身に余る光栄に少し恐縮したように、ほんのりと頬を染めた。
その時、闕恆遠がスケールを手にして会議室から姿を現し、玥映嵐の姿を認めるなり、穏やかな笑みを浮かべて手招きした。
「石材のサンプルカット、持ってきてくれたのか?」
「中に入って、さっそく見せてくれ」
三人が会議室へと入ると、ずっしりとした重みを持つテラゾーのサンプルカットが一枚板の長テーブルの上に広げられ、スポットライトの光を受けて天然の雲母が微細なきらめきを放った。
玥映嵐は胸の前で軽く腕を組み、石材の結晶の断面を指差しながら、研磨の光沢係数について闕恆遠と理路整然と言葉を交わした。
悦清禾はノートを手にその傍らに寄り添い、二人の間で行き交う一つひとつの技術的なディテールを、滑らかなペン先で漏らさず記録していった。
照合が一通り一段落ついたところで、玥映嵐は伊凝婉が運んできたハーブティーのカップを受け取り、本革のアームチェアへと優雅に腰を下ろした。
そして視線を悦清禾へと向けると、気負いのない柔らかな口調で言葉を投げかけた。
「清禾、」
「恆遠から聞いたのだけれど、」
「いま三重の古いアパートで一人暮らしをしているんですって?」
悦清禾は虚を突かれたように一瞬きょとんとしたが、すぐに決まり悪そうに小さく頷いた。
「はい……」
「菜寮のほうで部屋を借りています」
「あの一帯は路地が狭すぎるし、」
「治安の面でも少々落ち着かないでしょう」
玥映嵐はティーカップをテーブルに置くと、真摯で飾り気のない眼差しを悦清禾に向けた。
「私、去年に南京東路四段——小巨蛋(台北アリーナ)の地下鉄駅のすぐ近くに、3LDKのマンションを一室購入したの」
「先月、ミニマルスタイルの家具や内装を整え終えたばかりなんだけどね」
「大直の実家では、両親が毎日のようにお見合いをセッティングしようとうるさくて」
「前々から正式に一人暮らしを始めて、静かに暮らしたいと思っていたのよ」
「それに、最近は信義区や都心部でのプロジェクトも増えてきたから、」
「小巨蛋の近くに住んでいたほうが通勤にも何かと都合がいいし」
「ただ、3LDKの広さがあるから、」
「私一人で暮らすにはどうにも広すぎて寂しいし、」
「実家の親も、私が完全に独り暮らしになることを心配してあれこれ口を出してくるのよね」
玥映嵐はバッグからオートロックのカードキーを一枚取り出すと、無造作にテーブルの上へ置いた。
「あのマンションは二十四時間体制のダブル管理セキュリティが敷かれていて、」
「エレベーターも各階の停止制限がついているから、」
「外部の人間はロビーのゲートすら入れないわ」
「もし本当に嫌がらせに脅かされて今の部屋に住み続けられないのなら、」
「いっそのこと、私の部屋に越してきて一緒に住まない?」
「光熱費や共益費の分担として、家賃の三分の一だけ形ばかり払ってくれればいいわ」
「女性同士のルームシェアならお互いに何かと心強いし、」
「ついでにベランダの鉢植えの水やりでも手伝ってもらえれば、」
「お互いにとって都合がいいのよ」
「私も大直の両親に対して、同居人がいるからと大手を振って一人立ちの口実にできるしね」
「それに、ここから歩いてたったの十五分よ」
「朝夕の地下鉄の混雑に揉まれる必要すらないわ」
悦清禾は完全に言葉を失い、目を丸くしてテーブルの上のカードキーを見つめた。
そして、隣で静かな佇まいのまま控えている闕恆遠へと慌てて視線を向けた。
「玥さん……」
「あそこは小巨蛋のすぐ隣にあるような高級タワーマンションですよね……」
「普通に借りたら家賃だって何万台湾元もするはずですし……」
「そんなご厚意に、私が甘えるわけにはいきません……!」
「甘えるだなんて、大げさね」
玥映嵐はからりと爽やかに笑い、悦清禾の強張った手の甲をそっと優しく叩いた。
「家賃の端した金なんて端から当てにしていないけれど、」
「どんな人と一緒に暮らすかという質は、私にとってすごく重要なの」
「あなたは恆遠が連れてきた子だし、」
「彼が人柄を保証しているのだから、」
「私だって安心して一つ屋根の下で暮らせるわ」
「これで決まりね」
「今週末、恆遠に車を出してもらって荷物を運んでもらいなさい」
「分を弁えない無粋なストーカーなんかに、暗い路地で待ち伏せされるのはもうおしまいよ」
悦清禾は、玥映嵐の瞳にある施しや憐れみなど微塵も感じさせない率直さと温もりを見つめ、それから自分に向けて静かに頷いて見せた闕恆遠の瞳を仰ぎ見た。
目頭が再びじわりと熱を帯び、彼女は深く息を吸い込んだ。
「ありがとうございます、玥さん!」
「総監も、本当にありがとうございます!」
「お部屋の掃除は隅々までピカピカに仕上げますし、」
「ベランダの花や植物のお世話も絶対に怠りません!」
同じ屋根の下で暮らすという約束がこの瞬間、確かに結ばれた。
異なる個性を持つ三人は、ふわりと立ち上る温かな茶の香りに包まれながら、穏やかに視線を交わして微笑み合った。




