第1章:11. 路地の温もりと、親友の探り(4)
「そういえば、」
闕恆遠は手にしていた色見本を置き、世間話でもするかのように何気ない調子で口を開いた。
「昨日の夕方、清禾のやつが事務所の下のアーケードで、大学の同じ学科だったという男に待ち伏せされてな」
「かなり激しく揉み合いになっていて、」
「もう少しで殴り合いにまで発展するところだったんだ」
玥映嵐は整った眉を微かにぴくりと動かした。
「悦清禾?」
「この前あなたが新しく入れたっていう、手描きのスケッチがすごくしっかり描けるあのアシスタントの子?」
「ああ、」
闕恆遠は頷き、その声のトーンにどこかやり切れなさと厳しさを滲ませた。
「あの男学生は少し執着心が歪んでいるようでな」
「プライドばかりが無駄に高く、付きまとう癖もあるらしくて、」
「清禾のやつ、顔面蒼白になって震えていたんだ」
「私が間に入って男を追い払ったんだが、」
「昨日の晩は雨足もひどく辺りも暗かったから、」
「いっそ車で三重にある彼女の借りている部屋まで送ってやったよ」
そこまで耳にしたところで、玥映嵐がコーヒーカップを口元へ運ぼうとしていた手が、空中でかすかに止まった。
その視線が、何のやましさも浮かべていない闕恆遠の凪いだ横顔へと注がれる。
長年の同窓生として、彼が部下に対して昔から人一倍面倒見がよく、強い責任感を抱く人間であることは百も承知していた。
だが、若い女性アシスタントを新北の古びたアパートまで自らの運転で送り届けたと聞き、玥映嵐の胸の奥底には、ごく微かな、言葉にし難い感情の波がよぎった。
しかし彼女はそれを決して顔に出さず、むしろ持ち前の鋭さで問題の核心を即座に見抜き、真剣な面持ちで分析するように言葉を紡いだ。
「三重あたりの古いアパート?」
「あの一帯の物件なんて、ほとんど警備員もオートロックもついていないじゃない」
「エントランスの鍵なんてあってないようなものよ」
「大学を出たばかりの若い女の子がそんな環境で一人暮らしをしていて、」
「あの手の偏執的な男におおよその居場所を突き止められたりしたら、」
「本当に冗談事じゃ済まなくなるわ」
「そういう人間って、一度プライドを傷つけられたら、」
「平気で極端な凶行に走りかねないんだから」
闕恆遠はふうと小さくため息をついた。
「昨晩、あの子にはすぐにでも防犯用の頑丈な鍵にシリンダーを交換するよう言い含めておいたんだが」
「だが、あの路地は実際に見るとあまりに狭く、街灯もまばらで薄暗すぎた」
「もし本当に待ち伏せでもされたら、」
「いくら警戒していても防ぎきれない」
玥映嵐は何かを思案するようにコーヒーカップを置き、ワークテーブルの上を指先でトントンと軽く叩いた。
「私、去年、南京東路四段の、」
「台北アリーナの地下鉄駅に近いところにスリーベッドルームのエレベーター付きマンションを買ったじゃない」
「先月、ミニマルモダンスタイルのインテリアコーディネートがちょうど完成したところなの」
「大直の実家では両親が、」
「毎日毎日、お見合いをセッティングしようとうるさく口を出してくるし、」
「いい加減、正式に実家を出て一人で静かに暮らしたいってずっと思っていたのよね」
「それに最近は信義区や市内中心部での案件も増えているから、」
「アリーナの近くに住んでいたほうが通勤も圧倒的に便利だし」
「ただ、あの部屋はスリーベッドルームにリビング・ダイニング付きで、」
「私一人で暮らすには広すぎて少しガランとして寂しいし、」
「大直の実家も、私が一人暮らしをして何かあったらと過剰に心配してくるの」
「もし本当に悦清禾が付きまといに怯えて今の部屋に住めない状況なら、」
「いっそのこと、私の部屋に引っ越してきて一緒に住めばいいんじゃないかしら」
「家賃の三分の一と、光熱費や管理費をほんの形ばかり分担してもらう程度でいいわ」
「女性二人で暮らせばお互いに何かあった時も安心だし、」
「普段、私が留守の時にベランダの植物の水やりでも手伝ってもらえれば助かるしね」
「まさに一石二鳥じゃない」
「そうすれば、私も大直のうるさい親たちの前で堂々と家を出て暮らす口実ができるしね」
闕恆遠は一瞬きょとんとした表情を浮かべた。
玥映嵐の口から、まさかそのような提案が飛び出すとは露ほども思っていなかったのは明白だった。
「映嵐、」
「あそこは君が細部までとことんこだわり抜いて内装を手掛けた高級マンションだろう?」
「清禾を住まわせるなんて……」
「君に余計な気苦労や迷惑をかけるんじゃないか?」
「迷惑だなんて、何がよ?」
「悦清禾はあなたの右腕なんでしょう」
「彼女の身に万が一のことがあったら、」
「信義区の大規模案件の図面は一体誰が進めるっていうの?」
玥映嵐は軽く彼を睨みつけ、華やかに咲き誇る花のように美しく笑ってみせた。
「それにね、」
「一緒に暮らすのは私と悦清禾よ」
「あなたと同棲するわけじゃないんだから、」
「何を余計な心配をしているのよ」
「来週あたり、時間を取ってあなたの事務所にお茶でも飲みに行くわ」
「ついでにそのお嬢さんと少し話してみて、」
「私と気が合いそうかどうか、確かめてみることにするわ」
闕恆遠は玥映嵐の裏表のない大らかな笑顔を見つめ、胸の奥からじんわりと深い感謝の念が湧き上がってくるのを感じた。
「映嵐、」
「本当にありがとう」
「これで頭を抱えていた大きな悩みの種が、一つ綺麗に解決しそうだよ」
「もういいわよ、」
「そういう口先だけのお礼なんて結構」
玥映嵐はくすりと笑いながら図面を手際よく揃え、その眼差しには、大人の親友同士にしか保てない、絶妙な距離感と抑制の効いた優しさを滲ませた。
「本気で私に感謝したいなら、」
「信義区のビッグプロジェクトの検収が無事に終わって報酬が振り込まれたら、」
「どこか最高に美味しい店で奢ってくれればそれでいいわ」
冬の正午の陽光が雲間を抜け、ショールームの吹き抜けにある全面ガラス窓を透かして二人の傍らに降り注いだ。
ホワイトオークのロングテーブルに置かれたテラゾーのサンプル板が、清らかに光を跳ね返している。
闕恆遠はカップに残ったぬるいコーヒーを最後の一口まで飲み干すと、手首を持ち上げて腕時計に目を落とした。
そしてコートと図面を手に取り、立ち上がって別れの言葉を告げた。




