第1章:11. 路地の温もりと、親友の探り(1)
車窓の外では細やかな雨が台北橋の鉄骨構造に打ちつけられ、濃密な白い靄を立ち上らせていた。
フロントガラスの上を、ワイパーが規則正しく左右へと往復している。
金曜の夜、帰宅ラッシュを迎えた橋の上の車列はひどく渋滞しており、濡れそぼった路面には赤いテールランプが長く尾を引く水波の光を映し出していた。
SUVの車内には二十三度に設定されたエアコンの暖気が静かに満ちており、カーステレオからは深夜のラジオ番組が控えめな音量で流れている。
低く柔らかなジャズサックスの音色が、車内に漂うどこか硬い緊張感をほどよく和らげていた。
悦清禾は膝の上に置いた帆布のバッグの上に両手をちょこんと重ね、背筋をぴんと伸ばして座っていた。
視線はずっと前方、橋を埋め尽くす車の列に向けられたままで、呼吸の音さえ無意識に極限まで潜めている。
「清禾、」
「暖房が効きすぎて暑くはないか?」
「少し温度を下げようか?」
闕恆遠は両手をステアリングに添え、前を走る車との車間距離を落ち着いた眼差しで見据えながら、穏やかで飾らない声で尋ねた。
「いえ、」
「闕総監、」
「ちょうどいい温度です、」
「すごく快適です」
悦清禾は慌ててそちらへ顔を向け、少しばかり緊張の混じった澄んだ声で答えた。
「新北のどのあたりに部屋を借りているんだ?」
闕恆遠はウィンカーを点滅させ、車の流れに合わせてゆっくりと高架の出口ランプを下りていった。
「三重の大同南路のあたりです、」
「菜寮駅の近くにある、古い路地の奥で」
悦清禾はどこか気恥ずかしそうに、帆布バッグの端を指先で小さくいじった。
「あの辺りは家賃が比較的安くて、」
「中和新蘆線に乗って松江南京まで行って、」
「そこから松山新店線に乗り換えて南京復興まで行けば、」
「通勤はだいたい三十五分くらいで済むんです」
闕恆遠は静かに頷き、その瞳の奥には、社会に出たばかりの若者に対する深い理解と労わりの色がよぎっていた。
「社会人になって間もない身で、この都会で暮らしていくのは並大抵のことではないからな」
「だが、大同南路のあの一帯は、築三十年を超えるエレベーターなしの集合住宅が大半を占めているはずだ」
「路地も狭く、」
「人の出入りも複雑だろう」
「君が住んでいる建物には、管理人は常駐しているのか?」
「管理人さんはいません」
「一階のシャッターを手でガラガラと開けて入るような、」
「みんなで古いインターホンのオートロックを共有している、昔ながらの四階建てのアパートなんです」
悦清禾は正直に答えた。
「でも、大家さんのおばさんが二階に住んでいらっしゃって、」
「普段はとても親切にしてくださっています」
「さっきの大学の同級生は、」
「君がどこに住んでいるのかを知っているのか?」
闕恆遠の口調は終始穏やかだったが、その問いは最も警戒すべき危険の核心を的確に突いていた。
悦清禾の表情がわずかに強張り、その瞳の奥に遅れてやってきた恐怖の色が走った。
「大学四年生の卒業制作でグループを組んでいた頃に、」
「彼が車で私たち班の全員をそれぞれのアパートまで送ってくれたことが一度だけあって……」
「大体の路地の場所は知っているはずです」
「ただ、正確に何番地のどの建物かまでは分からないと思います」
闕恆遠の眉根がわずかに引き締まり、長く整った指先がステアリングをトントンと二度軽く叩いた。
「プライドを傷つけられ、偏執的な執着に囚われた人間を前に、」
「こちらの常識で相手の良心や底線を測ることはできない」
「部屋に着いたら、」
「まずアパートの一階の門扉と、自分の部屋のドアの鍵を入念に点検しなさい」
「もし昔ながらの円筒錠(ドアノブ錠)や、ピッキングされやすい簡素なシリンダー錠のままなら、」
「明日すぐにでも鍵屋を呼んで、防犯性能の高いディンプルキーなどの二重防犯シリンダーに取り替えるんだ」
「鍵交換にかかった領収書は事務所へ持ってきなさい」
「福利厚生の一環として、社員の安全補助費から全額経費で落とすように処理する」
「えっ?」
「総監、」
「そんなの、あまりにも申し訳なさすぎます……」
「これは私個人の都合の出費ですし、」
「会社の経費で落としていただくわけにはいきません」
悦清禾は慌てて両手を激しく振って固辞し、その顔には困惑と恐縮の色がありありと浮かんでいた。
闕恆遠はちらりと彼女の方へ視線を向けた。
その眼差しはどこまでも静かで、確固たる重みを湛えていた。
「社員が毎日怯え、身の安全に怯えながら過ごしていては、」
「高いパフォーマンスなど発揮できるはずがない」
「君の身の安全を守ることは、事務所にとって必要な先行投資であり、当然の経費だ」
「いいから言う通りにしなさい」
「こんなところで小金を惜しむものではない」
「安全に『万が一』や『たまたま』などないのだから」
男の言葉には説教くさい響きなど微塵もなく、それでいて、抗うことのできない深い説得力に満ちていた。
悦清禾は下唇をきゅっと噛みしめ、鼻の奥にツンとした熱さを覚えながら、消え入りそうな声で応じた。
「ありがとうございます、闕総監……」
「分かりました」
二十分後、濃灰色のSUVは三重の狭く薄暗い一方通行の路地前で、ゆっくりと車体を滑り込ませて停車した。
路地の両側には原付バイクが隙間なく並び、年季の入ったトタン屋根の雨よけからは濁った水滴が絶え間なく滴り落ちている。
薄暗い街灯が、アスファルトの窪みにできた水たまりへ鈍く湿った光の輪を落としていた。
「総監、」
「私の住んでいるアパートは、すぐ先の角を曲がって三軒目なんです」
「ここから先は道幅が狭すぎて、」
「この大きなSUVが入ってしまうと切り返して戻るのが本当に大変ですから、」
「ここから歩いても一分とかかりません」
「絶対に中までは入らないでくださいね」
悦清禾はシートベルトを外すと、身を乗り出すようにして振り返り、心からの気遣いを込めて告げた。
闕恆遠はハザードランプを点滅させると、ドアの集中ロックを解除した。
「傘をしっかり差すんだ」
「アーケードの下を歩きなさい」
「暗がりには足を踏み入れないこと」
「部屋に入って、明かりを点けたら、」
「伊凝婉に無事着いたとメッセージを一本送っておきなさい」
「私も君の部屋の明かりが点くのを確認してからここを発つ」
「はい!」
「今夜は助けていただいただけでなく、」
「こうして家まで送ってくださり、本当にありがとうございました」
「お帰りの運転、どうかお気をつけて!」
悦清禾は手元の淡い黄色の折りたたみ傘をパッと開くと、音を立てないよう細心の注意を払ってドアを閉めた。
そして、どこか薄暗い路地の奥へと足早に向かって歩き出した。
闕恆遠は暖房の効いた運転席に腰を下ろしたまま、ワイパーが雨滴を拭い去るフロントガラス越しに、大きな図面ケースを抱えた小柄な後ろ姿が、四階建ての古いアパートの鉄扉へと足早に吸い込まれていくのを静かに見守っていた。
それから三分ほど経った頃だろうか。
路地側に面した三階のすりガラス窓に、パッと温もりを帯びた淡い黄色の明かりが灯った。
直後、シフトレバーの脇に置かれた闕恆遠のスマートフォンが小さく震え、画面に悦清禾からのメッセージが浮かび上がった。
『闕総監、』
『無事に部屋へ入りました。』
『ドアの鍵も内側からしっかり掛けました。』
『本当にありがとうございました!』
闕恆遠はフロントガラス越しに、三階の窓際でうっすらと手を振っている小さな黒い影を一瞥し、口元をかすかに綻ばせた。
すぐさまギアをドライブへと入れ、アクセルを静かに踏み込んで車体を路地の入り口から滑らかに後退させると、民権西路の方向へと向かって静かに走り去っていった。
窓の前に立ち、悦清禾は冷え切ったアルミサッシの枠に両手を添えながら、あの濃灰色のSUVの赤いテールランプの光をじっと追い続けていた。
その光が、通りの角の向こうへ完全に消え去るまで。
彼女はそっと自分の胸元を押さえた。
薄手のセーター越しにも、心臓が未だ脈絡もなく激しく打ち鳴らされているのがはっきりと伝わってくる。
部屋の中には、古いワンルーム特有の湿っぽい匂いと、防虫用の樟脳の香りが淀むように漂っていた。
狭く窮屈なこの一室は、先ほどまで身を置いていたあの温もりとシダーウッドの香りに満ちた車内とは、まるで別世界のようにかけ離れている。
少女はひとつ深く息を吸い込むと、熱を帯びた自らの耳たぶを指先でそっと撫でた。
そして、先ほど闕恆遠から手渡されたポケットティッシュを静かに取り出す。
折り目を丁寧に、慈しむように指先で撫でて平らに整えると、ベッドの脇にある一番手近な引き出しの奥深くへと、大切にしまい込んだ。




