第1章:10. 棘のある契約と、軒下の庇護(5)
「覚えてろよ、」
「悦清禾!」
張承翰はギリリと奥歯を噛み締め、何の手応えもない負け惜しみを吐き捨てた。
そして背を向けると、冷たい雨の幕の中へとみじめに駆け出し、通りの角の向こうへ無様に姿を消した。
アーケードの下には再び静寂が戻り、ただ軒先から滴り落ちる雨水が、ぽつり、ぽつりと規則正しい音を立てるばかりとなった。
危機が去ったと知った瞬間、悦清禾はまるで全身の力が一気に抜け落ちてしまったかのように、両膝の力を失いかけた。
そして彼女は、ハッと我に返った。
自らの両手が未だに闕恆遠のコートの袖口をがっしりと握りしめ、あろうことかその体勢は彼の腕のすぐ傍らに身を寄せるように密着していたのだ。
カッと焼けるような熱さが、瞬く間に彼女の白い項から耳の付け根へと駆け上がっていった。
「そ……」
「総監!」
悦清禾は感電したかのように勢いよく手を引っ込め、後ずさりして二歩飛び退いた。
その小さな顔は耳まで真っ赤に染まり上がり、瞳には恥ずかしさのあまり消え入りたいような涙の膜が張っていた。
彼女は闕恆遠に向かって深く、直角に頭を下げた。
その声は激しく震え、途切れ途切れになっていた。
「申し訳ありません!」
「申し訳ありませんでした、闕総監!」
「私……」
「あのときはあまりに怖くて、」
「頭に血が上ってしまって、総監をお盾にするような出任せを口走ってしまいました……」
「決してわざとではありません、」
「どうか、どうか怒らないでください!」
「明日……」
「明日、総務に辞表を出します」
「総監や事務所の皆様には、絶対にこれ以上のご迷惑はおかけしませんから!」
恐怖のあまり泣き出しそうで、頭を深々と下げてうずくまるように立つ目の前の少女を見つめながら、闕恆遠の厳格だった眉根は次第に解けていった。
その双眸の奥には、わずかな苦笑と、静かな温もりがよぎっていた。
彼はコートのポケットから携帯用のティッシュを一包取り出すと、うつむく悦清禾の視界の先へとそっと差し出した。
「顔についた雨粒を拭きなさい」
闕恆遠の声は低く、穏やかで、まるで凍てつく冬の夜に差し出された温かい茶のように、じんわりと周囲の空気を和らげていた。
悦清禾はぽかんと立ち尽くし、震える手でティッシュを受け取った。
それでもまだ、彼の目をまっすぐ見上げる勇気は出ないままだった。
「大学の同級生か?」
闕恆遠は両手をコートのポケットへと戻し、身を翻して通りを濡らす雨景色へと視線を投げながら、何気ない調子で尋ねた。
「はい……」
悦清禾は小さく鼻をすすり、かすかに声を詰まらせた。
「大学にいた頃から、ずっと後をつけられていて……」
「何度もはっきりと断ったんですけど、」
「まさか今日、会社のビルの下まで追いかけてくるなんて思わなくて……」
「さっき、もし総監がタイミングよく現れてくださらなかったら、」
「私、本当にどうしたらいいか分かりませんでした」
「こういう手合いは無駄にプライドが高く、」
「常に自分を中心に世界が回っていると思い込んでいる」
「こちらが下手に出て耐えれば耐えるほど、」
「付け入る隙があると思い上がるものだ」
闕恆遠は振り返り、雨水に濡れた悦清禾のショートヘアと、細く華奢な肩を見つめながら、極めて確信に満ちた声で告げた。
「さっきの君の機転は見事だった」
「もし私が君の立場だったとしても、」
「危急の瀬戸際にあっては、その場にいる最も相手を威圧できる人間を盾にするだろう」
「だから、」
「謝る必要はどこにもない」
「ましてや、辞職など口にする必要はまったくない」
悦清禾はハッと顔を上げた。
涙を湛えた大きな瞳には、信じられないといった驚きが満ちていた。
「総監……」
「本当に、怒っていらっしゃらないのですか?」
「私が怒る理由がどこにある?」
闕恆遠は淡く微笑み、その表情には一片の曇りもない堂々とした気品が漂っていた。
「外からの理不尽な嫌がらせから自分の部下を守ることは、」
「代表である私の当然の責務だ」
「だが、」
「週明けの月曜日にでも、伊凝婉と一緒にビルの管理事務局へ行って、あの男の顔写真を共有して来なさい」
「一階の警備員に巡回を強化してもらうよう手配する」
「もしまた現れるようなら、」
「躊躇わずすぐに警察を呼ぶことだ」
「決して一人で危険に立ち向かおうとしてはならない」
「はい……」
「分かりました、」
「ありがとうございます、闕総監!」
悦清禾は手の中に握られた、男の体温がほんのりと残るティッシュをぎゅっと握りしめた。
その瞳の奥には、抑えきれないほどの熱い感謝と、深い崇敬の念が湧き上がっていた。
「雨足が強くなってきた」
「さっきの男が、まだ近くの角あたりをうろついている可能性もある」
闕恆遠が手元のスマートキーを押すと、道端に停まっていた濃灰色のSUVの暖色系ヘッドライトが柔らかく灯った。
その声は穏やかでありながらも、反論の余地を与えない落ち着きを湛えていた。
「君が一人で地下鉄に乗って賃貸マンションまで歩いて帰るのは危険だ」
「乗りなさい」
「家まで直接送っていく」
悦清禾は目を丸くし、慌てて両手を激しく横に振った。
「総監、」
「それではあまりにも申し訳なさすぎます!」
「私の住まいは新北の古いアパートで、」
「ここからだとかなり遠いですし……」
「通り道だから気にするな」
「大した手間でもない」
「君が無事に家の中に入るのを見届けてこそ、」
「私も胸を撫で下ろせるというものだ」
闕恆遠は助手席のドアを開けると、悦清禾に乗るよう促した。
「早く乗りなさい。雨に濡れて風邪を引いてしまうぞ」
今度は、悦清禾もそれ以上固辞することはしなかった。
彼女はおとなしく頷くと、背筋を伸ばして歩く闕恆遠の後に続き、春のように暖かく、かすかなシダーウッドの香りが漂う車内へと乗り込んだ。
車は滑らかに敦化北路の車列へと合流し、フロントガラスの上ではワイパーが規則的な音を立てて左右に揺れている。
助手席に腰を下ろした悦清禾は、こっそりと首を傾け、ハンドルを握り前方を静かに見据える闕恆遠の横顔を見つめた。
街灯のまだらな光と影が窓ガラスを透かして男の横顔に落ち、彫りの深い輪郭を落ち着き払った、どこまでも頼もしい姿として浮かび上がらせている。
少女は冷え切った小さな手を、激しく鼓動を打つ自らの胸元へとそっとあてがった。
そこは今、熱を帯びたように激しく波打っていた。
あの言葉が、ただ窮地を脱するための咄嗟の嘘に過ぎなかったことは痛いほど分かっていた。
この非の打ち所のない成熟した男には、とうに心から愛する妻がいることも、重々承知していた。
それでもなお——。
無我夢中で口からこぼれ落ちた「この人が、私の彼氏よ」という響きと、自らの身を投げ打って彼女を背後へとすっぽり守ってくれたあの広い背中は、少女の心の湖面へ、容易には静まることのないさざ波を広げていた。




