第1章:10. 棘のある契約と、軒下の庇護(4)
その頃、敦化北路にそびえるオフィスビルの、一階の歩道アーケード(騎樓)下でのこと。
冷たい風が氷のような雨粒を巻き込み、時折アーケードの奥へと斜めに吹き込んでいた。
足元に敷き詰められた灰色の花崗岩タイルは、濡れそぼって妖しく鈍い光を放っている。
悦清禾はずっしりと重いキャンバス地のバッグを背負い、淡い黄色の折りたたみ傘を差して、すぐ先にあるバス停へと小走りで向かおうとしていた。
その時だった。
濃紺のダウンジャケットを羽織った大柄な人影が、アーケードの太い角柱の物陰から勢いよく飛び出してきた。
そして、彼女の行く手を強引に遮るように立ちはだかったのだ。
「清禾!」
悦清禾は驚きのあまり勢いよく一歩後退りし、手にしていた傘を取り落としそうになった。
アーケードの柔らかな街灯の明かりを頼りに、彼女は目の前に立つ男の顔をはっきりと見とめた。
それは、実踐大学建築デザイン学科の同期生である張承翰の姿だった。
張承翰は裕福な家庭に育ち、大学の学科内でも常に傲慢で自惚れが強かった。
悦清禾に丸二年にわたって言い寄り、その都度明確に拒絶され続けてきたことで、その自尊心はとうに肥大化し、歪みきっていた。
今の彼は両手をポケットに突っ込み、わずかに顎を突き出しながら、上から目線の品定めと独りよがりな慈悲を滲ませた眼差しで彼女を見下ろしていた。
「張承翰?」
「どうしてここにいるの?」
悦清禾は眉根をきつく寄せた。
その愛らしい小顔には、瞬く間に強い警戒と怒りの色が覆いかぶさっていた。
「お前の元ルームメイトに聞いて、」
「このビルに入ってるちっぽけなデザイン事務所で働いてるって知ったんだよ」
張承翰は一歩前へと歩み寄った。
その口調には、独りよがりな気遣いと、隠しようもない強烈な優越感が滲み出ていた。
「清禾、」
「お前、一体何に意地を張ってるんだよ?」
「立ち上げられたばかりで看板すら誰も知らないような、こんなみすぼらしい零細スタジオに何の将来性があるっていうんだ?」
「朝から晩まで現場を走り回らされて、重い荷物を運ばされて寸法を測らされて……」
「自分の手を見てみろよ」
「大学であんなに綺麗に図面を引いていた手が、どれだけ荒れ果てちまったと思ってるんだ!」
そう言い放つなり、張承翰は悦清禾の脇に下がっていた手首を掴もうと、強引に手を伸ばしてきた。
「触らないで!」
悦清禾は感電したかのような素早さでその手を払いのけ、背負っていたバッグを胸の前に抱え込むと、氷のように冷徹な眼差しを向けた。
「私はここで、たくさんの実践的な経験を学んでいるの」
「総監も同僚の皆さんも、私をすごく大切にしてくれているわ」
「これは私自身が選んだ道よ」
「あなたには何の関係もない!」
「お願いだから、もう二度と会社のビルの下で待ち伏せなんかしないで!」
言い放つと、悦清禾は身を翻し、バス停に向かって足早に歩き去ろうとした。
しかし張承翰は、彼女のまったく取り付く島もない冷淡な態度に、明らかに苛立ちを募らせていた。
甘やかされて育ったお坊ちゃま特有の短気が頭をもたげ、大股の一歩で再び彼女の前に回り込むと、あろうことか悦清禾のリュックのショルダーストラップを鷲掴みにして力任せに引き留めた。
その口調は焦燥に満ち、剥き出しの威圧感を帯びていく。
「清禾!」
「俺は本気でお前のことを思って言ってやってるんだぞ!」
「親父がすでに大手の総合建築設計事務所に俺の席を用意してくれてるんだ」
「お前さえ首を縦に振って俺と付き合うって言えば、」
「親父の一言でお前もそこにねじ込んでやれる」
「給料だって今の倍以上になるんだぞ!」
「こんなところで安物の雑用係なんかに甘んじて、苦労する必要がどこにあるっていうんだ?」
「今日こそ、ちゃんと白黒つけてもらうからな!」
「離して!」
「痛いじゃない!」
リュックのストラップをがっちりと締め上げられ、小柄な悦清禾の体躯では、相手の力尽くの拘束をとても振りほどくことができなかった。
悔しさと恐怖のあまり、少女の瞳の縁にはみるみるうちに涙が滲み出していた。
二人が激しく揉み合っていた、まさにその刹那だった。
骨格の整った、すらりと長く力強い大きな手が、斜め後方から音もなく伸びてきた。
そして、まるで万力のように狂いなく、リュックを掴んでいた張承翰の手首をがっしりと締め上げたのだ。
その握力は極めて重く、かつ圧倒的だった。
激痛に見舞われた張承翰は腕全体が一瞬にして痺れ上がり、抗うことすらできず、思わずその指先を解いてしまっていた。
「彼女から手を離せ」
低く、冷徹で、そして強大な威圧感を孕んだ声が、湿り気を帯びた冷気の中へと静かに響き渡った。
悦清禾は息を呑み、怯えの色を残したまま振り返った。
そこには、いつの間にか濃灰色のウールチェスターコートに着替え、手にした車のスマートキーを携えた闕恆遠の姿があった。
すらりと背の高い立ち姿で、彼女のすぐ傍らに寄り添うように立っている。
仕事中に掛けていた細縁の眼鏡を外したその端正な顔立ちは、夜の街灯の下で刃のように研ぎ澄まされ、深く澄んだ黒い瞳には、見る者を射すくめるほどの冷徹な光が宿っていた。
突如として現れた闕恆遠の姿を見つめながら、悦清禾の胸の奥では心臓が狂ったように激しい鼓動を打ち鳴らしていた。
張承翰の瞳によぎった不服の炎と、再び振り上げられようとしたその手を目にした瞬間。
あまりの羞恥と、このままつきまとわれ続けるかもしれないという極度のパニックの中、少女の頭の中にあった理性の糸がぷつりと音を立てて千切れた。
彼女は無意識に一歩踏み出すと、すがるように闕恆遠のコートの袖口を両手で強く握りしめ、その場の勢いのまま叫んでいた。
「張承翰!」
「もう諦めて!」
「前にも言ったでしょ、私には好きな人がいるって!」
悦清禾は下唇をきつく噛みしめた。
その声はかすかに震えていながらも、アーケードの冷たい空気の中へ凛として響き渡った。
「この人が、私の彼氏よ!」
「もう二度と、私につきまとわないで!」
その一瞬、周囲の空気が完全に凍りついたかのようだった。
張承翰は呆然と立ち尽くし、信じられないといった眼差しで、背筋を伸ばし泰然自若と佇む闕恆遠と、小柄な悦清禾の姿を何度も交互に見比べた。
目の前に立つこの男は身なりも洗練され、ただそこにいるだけで圧倒的な気迫を放っている。
全身から漂う、成熟期へと足を踏み入れた男特有の絶対的な重圧感は、大学を出たばかりの自分のような若造が太刀打ちできるものでは到底なかった。
コートの袖を強く引かれた闕恆遠の身体が、かすかに強張った。
彼は視線を落とし、隣で顔を青ざめさせ、指先に力を込めすぎて関節を白く浮き上がらせている悦清禾を見つめた。
そして、その瞳の奥底に揺れる無力感、恐怖、そして必死の縋るような懇願を、瞬時に察知した。
闕恆遠は彼女の手を払い除けることも、その取り乱した嘘をその場で暴き立てることもしなかった。
彼は極めて自然な所作で半歩前へと踏み出した。
その背の高いがっしりとした体躯で、悦清禾の存在を物音ひとつ立てずにすっぽりと自らの庇護の下へと覆い隠し、正面に立つ若者の視線から彼女を完全に遮断したのだ。
闕恆遠は張承翰を冷ややかに見下ろした。
その双眸は氷底の淵のように静まり返り、紡がれる声は淡々としていながらも、抗うことを許さぬ絶対的な威厳を帯びていた。
「そこの君、」
「公共の場で女性の手荷物を力任せに引っ張り、」
「行動の自由を奪う行為は、」
「刑法上の有形力を用いた強要罪の構成要件を十分に満たしている」
闕恆遠は視線をわずかに上げ、アーケードの天井の隅で赤いランプを明滅させている二十四時間稼働の高解像度防犯カメラを指差した。
「ビルの警備員はすぐそこに控えているし、」
「私の車のドライブレコーダーも常時録画中だ」
「もしこれ以上清禾のプライベートに無礼につきまとうつもりなら、」
「今すぐ警察を呼んで防犯カメラの映像を回収させ、」
「ついでにご家族に警察署まで迎えに来てもらうよう手配しようか?」
男の声音は決して声を張り上げたものではなかった。
しかし、この湿り気を含んだ冷たい雨の夜にあって、それはずっしりと重い地鳴りのように響き、成熟した社会の先達が青二才を圧倒する、問答無用の格差と重圧を叩きつけていた。
張承翰はその冷え切った漆黒の瞳に見据えられ、背筋にぞわりと冷たい汗を滲ませた。
手首にじくじくと残る鋭い痛みもまた、目の前の男が持つ底知れない腕力を嫌というほど物語っている。
彼は闕恆遠の背後に隠れてうつむく悦清禾に目をやり、次いで道端に停車している重厚で洗練された濃灰色の高級輸入SUVへと視線を走らせた。
その顔は屈辱で青ざめ、赤く染まり、未だかつて味わったことのないほどの惨めさに自尊心を粉々に打ち砕かれていた。
だが、激しい挫折感の陰で、その高価な車を見つめる彼の胸の奥底には、利己的で卑屈な猜疑の種が音もなく芽吹き始めていた。
悦清禾が何歳も年上の男と純粋に付き合っているなど、彼には到底信じられなかったのだ。
男は苦々しい表情のまま、その光景と車のナンバーを、心の奥底へしっかりと焼き付けていた。




