第1章:10. 棘のある契約と、軒下の庇護(3)
ミーティングスペースを出た頃には、すでに夕方の六時半を回っていた。
ちょうどリュックをまとめ終えて退勤の準備をしていた悦清禾は、三人が出てくる姿を見つけると、慌てて丁寧にお辞儀をして挨拶の声をかけた。
「闕総監、凝婉さん、伊弁護士、」
「それじゃあ、お先に失礼します」
「みなさん、良い週末を!」
「清禾、」
「足元に気をつけて」
「外は暗いし雨も降っているから、」
「無事に帰るんだよ」
闕恆遠は穏やかな声音でそう言葉をかけた。
悦清禾はこくりと力強く頷いた。
気遣われた嬉しさからか頬を微かに赤らめながら、折りたたみ傘を握りしめて早足でエレベーターの中へと滑り込んでいった。
伊凝婉は自分のデスクへと戻り、財布やハンドバッグをまとめ始めた。
その間、伊凝雪はエントランスの玄関口に立ち、トレンチコートに袖を通していた。
身支度を終えた伊凝婉が歩み寄り、妹のコートの襟元をそっと整えてやりながら、からかうような笑みを瞳に浮かべ、声をひそめて囁いた。
「普段は法廷で氷のように冷徹で、重箱の隅をつつくほど気難しい敏腕弁護士の伊大先生が、」
「今日はどうしてあんなに物分かりが良かったのかしら?」
「顧問料を自分から値引きしてあげるなんてね」
「闕総監はまだ二十九歳でしょう?」
「若くて背筋も伸びていて才能もあるし、」
「さっき二人で並んでいるのを見ていたら、」
「醸し出すオーラも実にお似合いだったわよ」
「両親が早くに亡くなってからというもの、」
「あなたは一日中裁判資料に埋もれてワーカーホリックみたいに働いてばかりなんだから、」
「そろそろ本気で彼氏を作ることだって考えてもいい頃じゃない?」
「これほど優秀な男性に出会えるなんて、そうそうないんだから」
伊凝雪は呆れたように姉を一瞥すると、その冷ややかで端正な美貌に、珍しく吹き出すような苦笑いを浮かべた。
「姉さん、」
「それより自分の心配を先にしてよ!」
「連昊成っていうあのたちの悪い悪性腫瘍を、せっかく綺麗に切り落としたばかりじゃない」
「離婚してようやく自由を取り戻した、一番いい時期なのよ」
「まだ三十歳だし、」
「お肌のお手入れだってこんなに行き届いているんだから、」
「姉さんを心から大切にしてくれるいい男を早く見つけることのほうが、ずっと大事なはずでしょう」
「そうやって私に話をすり替えるのはやめて」
伊凝婉の顔からふっと笑みが消え、その瞳の奥に、かすかな苦味と吹っ切れたような安堵の色がよぎった。
彼女は妹の手の甲を優しくぽんと叩いた。
伊凝雪も戯れの表情を引っ込め、声を一段低く落とすと、極めて理性的かつ客観的な口調で言葉を足した。
「それにね、」
「あの闕総監について、おかしな見当違いの縁結びをするのはやめて」
「私、さっきドアを入った瞬間に、彼の左手薬指の結婚指輪を見つけていたもの」
「会議室にいたときもそうよ、」
「彼のスマートフォンが一度震えたでしょう」
「画面に表示された『玟妤』という二文字を目にした瞬間、」
「彼の眼差しが一気に柔らかくなったの」
「あの無意識に家庭を守ろうとする仕草を見れば、」
「誰がどう見たって、家族を何よりも大切にしている夫そのものよ」
伊凝婉は小さくため息を漏らすと、深く同感するようにこくりと頷いた。
「そうよね、」
「あの人は毎日現場の用事が片付きさえすれば、」
「急いで家に帰って奥さんのためにご飯を作っているし、」
「雇用契約書にだってスタッフへの保障がきっちりと明記されているのよ」
「時々あの背中を見ていると、」
「思ってしまうのよね、」
「同じ三十歳手前の男の人なのに、」
「どうしてこうも差があるのかしらって……」
「惜しいことに、この世界で責任感のある素敵な男性は、」
「とうの昔に誰かのものになってしまっているのよね」
伊凝雪は姉の肩をポンと優しく叩いた。その眼差しはどこまでも澄み、落ち着き払っていた。
「行きましょう、」
「今夜は姉さんが食べたがっていた信義区の隠れ家レストランへ連れて行ってあげる」
「私のおごりよ」
姉妹は顔を見合わせてクスリと微笑み合い、腕を組んでエレベーターへと向かった。
事務所のフロアには、静かな平穏がゆっくりと戻っていった。




