第1章:10. 棘のある契約と、軒下の庇護(2)
数分後、三人は無垢材の長い会議用テーブルを囲んで腰を下ろした。
伊凝婉が淹れたての大吉嶺紅茶を三つのカップに注いで運び、その後は妹の隣へと静かに腰掛けた。
伊凝雪はブリーフケースを開け、銀色の万年筆を一本引き抜くと、数十ページにも及ぶ分厚い書類を開いた。承曜グループの資産管理部門と外資系の凱盛アセットマネジメントが共同で起草した、工事監理合意書である。
会議室の中はたちまち静まり返り、窓を打つ雨音と、伊凝雪が素早く紙面をめくるサラサラという摩擦音だけが響いた。
伊凝雪が契約書を読み進める速度は極めて速かったが、その眼差しはまるでメスのように正確無比であった。
わずか十七ページ目に差し掛かったところで、伊凝雪の端正な眉間がわずかに寄り、手にした万年筆が紙面をコンコンと乾いた音で二度叩いた。
「闕総監、」
「この契約書、」
「以前、危うくそのまま社印を押印してしまうところだったのではないですか?」
伊凝雪は冷ややかな両眸をすっと持ち上げ、闕恆遠の目を真っ直ぐに見据えた。
「ええ、」
「凱盛アセットマネジメントの法務部から提示された、標準的な契約書の雛形です」
「こちらでも工事代金や検収スケジュールについて大まかな照合は行いましたが、」
「概ね業界の慣例に沿った内容でしたので」
闕恆遠はありのままに答えた。
「慣例、ですか?」
伊凝雪の口元に、ごく淡い冷笑が浮かんだ。
彼女は契約書を闕恆遠の正面へと回転させると、万年筆のペン先で第十九条と第二十三条の補足細則を正確に突いた。
「この契約書は、表面上こそ国際標準の工事監理テンプレートを踏襲しています」
「けれど、この二つの補足条項は、」
「英米法で言う典型的な不当条項の罠よ」
伊凝雪の語り口は淡々としていて冷徹であり、その筋道の通った論理展開は息を呑むほどに隙がなかった。
「第十九条第三項、」
「『高層階における外資系テナントの入居内装スケジュールの遅延に起因し、』」
「『ビル全体の内装工事合格証明が期日通りに取得できなかった場合、』」
「『乙(監理チーム)は不可抗力事由を除き、すべての連帯懲罰的違約金を負担するものとする。』」
「『その額は一日につき総工事費の千分の五とする』」
伊凝雪は顔を上げ、その鋭利な眼差しで闕恆遠を射抜いた。
「闕総監、」
「あなたのこの新しい事務所の第一期監理費の総額なんて、せいぜい数百万元程度でしょう?」
「けれど、この地上三十八階建ての超高層ビルが、もし二十階以上のテナントの内装の遅れで検収を通らなかった場合、」
「一日あたり数十万元の違約金が発生するのよ」
「凱盛アセットマネジメントの法務は、専門的な法率用語の抜け穴を利用して、」
「高層階の外資系企業自身のテナント誘致リスクを、」
「共用部を担当するだけの、あなた方のような小さな事務所の頭上へすべて転嫁しようとしているわ」
闕恆遠の表情が微かに強張った。
彼はすらりと伸びた指先で契約書を受け取り、一見すると何気なく並べられた英語と中国語の対訳による細かい活字を、凝視するように読み進めた。
その背筋には、じわりと冷や汗が滲んでいた。
「それから、第二十三条の材料の瑕疵に関する免責紛争条項よ」
伊凝雪は闕恆遠が咀嚼し終えるのを待たずに、再び別のページを開いてみせた。
「輸入物のイタリア製人造大理石パネルと防眩照明器具のサプライヤーは先方の指定となっているわ、」
「それなのに条項では、材質が海上輸送中に湿気を帯びたり、現場での据え付け時に寸法公差による亀裂が生じたりした場合、」
「その責任はすべて現場監理の墨出し過失に帰属すると定められているのよ」
「もし相手側が初めから支払いを踏み倒す気なら、」
「最終期の検収の段階で、」
「この条項を口実に、あなた方の残金三割を差し押さえることだってできるわ」
「それどころか、逆にあなた方に対して民事の損害賠償請求を起こしてくる可能性だってあるの」
伊凝雪は手元の書類をパタンと閉じ、万年筆のキャップをカチリと澄んだ音を立ててはめた。
「ひとたび紛争に発展すれば、」
「この契約書の条文で仲裁や訴訟に持ち込まれたところで、」
「あなた方には一割の勝算すらないわ」
「下手をすれば、旧正月の前にも事務所の資産が仮差し押さえの危機に晒されることになるわね」
伊凝婉は傍らで聞いていて生きた心地がせず、ひどく心配そうな眼差しで闕恆遠を見つめた。
闕恆遠は鼻梁から眼鏡を外し、眉間を指先で強く揉みほぐした。その瞳の奥には、冷や汗が出るほどの恐怖と、深い敬服の色が走っていた。
建築に携わる者は、構造の美しさや空間の比率に対してどこまでも完璧を追い求める。
だが、人を骨までしゃぶり尽くすような商業法務の暗礁を前にしては、まるで素っ裸のまま刃の切っ先の上を歩かされているようなものだった。
「伊弁護士が細部まで見抜いてくださったおかげです、」
闕恆遠は深く息を吸い込み、伊凝雪へと視線を向けた。その声音は極めて真摯で、重々しいまでの感謝が込められていた。
「この地雷のような条項の数々、」
「背後に潜む連帯賠償のからくりに、私自身まったく気づくことができませんでした」
「もし今日、軽率にもこのままサインを交わしてしまっていたら、」
「この事務所は、取り返しのつかない破滅を迎えていたかもしれない」
「ビジネスにおける契約など、もともと音のない化かし合いのようなものです」
「外資系ファンドの法務部門が最も得意とするのは、こうした一見すると客観的でプロフェッショナルな雛形を用いて、自らのリスクを綺麗さっぱり洗い流すことですから」
伊凝雪の口調は淡々としていたが、その眉間には、闕恆遠の率直さと謙虚な態度に対する微かな評価の色が浮かんでいた。
弱冠二十九歳にして独立を果たしたこの若い建築家には、知識人特有のプライドや驕りがあるのではないかと危惧していたが、予想に反して相手は極めて冷静に構え、自らの専門外における死角をありのままに認めてみせたのだった。
闕恆遠はテーブルの上に両手を組み、その深遠な黒い双眸で伊凝雪をじっと見据えると、改まった様子で重々しく口を開いた。
「伊弁護士、」
「折り入って、正式にお願いしたいことがあります」
伊凝雪はわずかに眉を上げた。
「どうぞ、おっしゃってください」
「遠睿トータルデザインはまだ立ち上げたばかりで、」
「現状の規模では上場企業のような大手に及びませんし、」
「一流の大手法律事務所が提示するような高額な年間法務顧問料を支払う余裕もありません」
闕恆遠の表情はどこまでも真剣そのものだった。
「ですが、私はこの会社を、基礎の段階から堅牢で安全なものとして築き上げたいのです」
「先生に、正式に当事務所の顧問弁護士へ就任していただきたい」
「信義区の案件における契約書の修正や今後のリスク管理はもとより、」
「将来的に外部と取り交わすすべての工事規定に至るまで、」
「全権を先生にお任せしたいと考えております」
「予算面に関しましては、」
「現在の事務所が捻出できる最大限の上限額をもって顧問料をお支払いいたします」
「先生の確かなプロフェッショナリズムを安売りさせるような真似は、決していたしません」
伊凝婉は傍らでわずかに目を見張ったが、やがてその胸の奥に、じんわりとした温かな安堵が込み上げてきた。
闕恆遠が実の妹の専門性に心からの敬意を払っているのであって、従業員の身内だからと甘えてタダで相談に乗ってもらおうなどという浅ましい魂胆が微塵もないことを、彼女は痛いほどよく理解できたからだ。
伊凝雪は闕恆遠のその澄み渡るほどに真っ直ぐで誠実な双眸を見つめ、胸の内に微かな波紋を広げていた。
これまで、強欲で出し渋る経営者など山ほど相手にしてきた。だが、目の前のこの男が放つ潔白さと決断の速さは、実に稀有なものだった。
そして何より、実の姉である伊凝婉はこの事務所の運営の要である。もしこの事務所に何かあれば、姉もまた無傷ではいられないのだ。
「契約書の修正意見書は、」
「明日の正午までに作成してお渡しします」
伊凝雪は腕を組み、背もたれに優雅に身を預けると、その唇の端にごく珍しい微かな笑みを浮かべた。
「それから、年間顧問契約についてですが、」
「凝婉姉さんの顔を立てて、」
「うちの法律事務所の個人独立プロジェクト顧問という形式で契約を結びましょう」
「費用は一般的な中規模オフィス案件の基本顧問料率で計算すれば結構です、」
「あなたの言う『最大限の上限』など提示していただく必要はありません」
「その分は、現場の作業員たちにより良い保護具でも買い揃えるために残しておいてください」
闕恆遠の双眸にパッと明るい光が差し、自ら進んで立ち上がり右手を差し出した。
「感謝します、伊弁護士」
「よろしくお願いいたします」
「よろしくお願いいたします、」
「闕総監」
伊凝雪は再び手を伸ばし、彼と掌を重ね合わせた。
今度の握手には、互いの専門性を認め合うプロフェッショナルとしての信頼と敬意が、確かに宿っていた。




