第1章:10. 棘のある契約と、軒下の庇護(1)
十二月中旬の金曜日の夕暮れ時、敦化北路を行き交う車の波は次第に合流し、果ての見えない赤いテールランプの大河を形作っていた。
一日中どんよりと重く垂れこめていた空からは、この時間になって細かな霧雨が舞い落ちてきた。凍てつく雨粒は冷たい風の突風に煽られ、八階に構える「遠睿統合設計」の広々とした防音ガラス窓をパチパチと叩いている。
オフィスエリアの中には、ゆったりとしたスムーズ・ジャズが静かに流れ、カプセル式コーヒーマシンが低く唸る微かな稼働音と、香ばしい焙煎の香りが漂っていた。
悦清禾は自席のデスクに向かい、細身の黒縁眼鏡をかけ、トレーシングペーパーの上へと一心不乱にペンを走らせていた。
彼女は信義承曜フィナンシャルセンターの一階ロビーにおける、人造大理石床の目地寸法を熱心に書き込んでいるところだった。
手元には食べかけの梅パウダー風味フライドポテトの小袋が置かれ、その表情は真剣そのもので張り詰めている。
伊凝婉がお湯の入ったマグカップを手に、彼女のすぐ後ろを通り過ぎたことすら、まったく気がつかないほどだった。
「清禾、」
「もう五時半よ、」
「図面は今日中に全部仕上げようと焦らなくていいの、」
「月曜日に出勤してから校正しても間に合うわ」
伊凝婉は悦清禾のデスクの角をトントンと軽く二度叩き、穏やかで落ち着いた声音で声をかけた。
三十歳を迎えた伊凝婉は今日、身体のラインに沿ったチャコールグレーのタートルネックニットワンピースに、すっきりとした仕立ての薄手のエクリュベージュのロングジレを羽織っていた。
その立ち姿からは、歳月を重ねた者だけが纏う知性と気品が、静かに滲み出ていた。
悦清禾は慌てて顔を上げ、鼻梁にかかった眼鏡を押し上げると、少し照れくさそうにはにかんだ。
「凝婉さん、」
「このメイン構造柱の二本の見切りディテールを仕上げたら、すぐに上がります」
「あと二十分くらいで終わりますから」
「そんなに自分を追い詰めなくていいのよ、」
「闕総監は、社員が無駄に残業する姿を見て喜ぶようなボスじゃないんだから」
伊凝婉は苦笑混じりに首を横に振ると、踵を返して自身のマネージャーデスクへと戻り、ビジネスバッグとノートパソコンを手際よく片づけ始めた。
その時、事務所の重厚なフロストガラスのドアが外側から押し開かれ、ドア枠に掛けられた真鍮のドアチャイムがチリンと澄んだ涼やかな音色を響かせた。
続いて、確固たる力強さを秘めた、非常にテンポの速いハイヒールの足音が床を打ち、すらりと背の高い影が颯爽と足を踏み入れてきた。
それは、肩口で切り揃えられた黒髪のストレートヘアがよく似合う、凛とした佇まいの若い女性だった。
寸分の狂いもなく仕立てられたダークネイビーのウール製ダブルブレストジャケットに、インナーには純白のシルクシャツを合わせている。
ボトムスにはハイウエストのクロップドテーパードパンツを穿きこなし、まっすぐ伸びた長い脚を美しく引き立てていた。その足元には、七センチヒールの黒いエナメルポインテッドトゥパンプスが合わせられている。
女性の顔立ちは息を呑むほどに精緻で冷艶、透き通るような白い肌をしていた。
わずかに切れ上がったその丹鳳眼(鳳凰の目)の奥には、周囲を圧倒するほどの鋭利な知性と理性が宿っている。
その腕には、漆黒のブリーフケースとロング丈のトレンチコートが抱えられていた。
「凝雪、」
「今日はどうしてそんなに早いの?」
伊凝婉は入ってきた姿を見るや、その元々落ち着いていた瞳の奥に、たちまち心からの温かな笑みを溢れさせ、足早に出迎えへと歩み寄った。
二十八歳の伊凝雪はトレンチコートを応接ソファの肘掛けへと無造作に掛けると、その冷ややかな唇の端を、実の姉を見つめる時だけわずかに緩めた。
「午後の台北地裁での商事調停が早めに片付いたのよ」
「向こうも分が悪いと悟ったみたいで、」
「二回目の立証手続きに持ちこたえる度胸すらなくて、あっさりサインしていったわ」
伊凝雪の声は澄み渡り、微かに冷たさを孕んでおり、法廷での弁論特有のリズムと鋭い浸透力を持っていた。
彼女は吹き抜けの開放感に溢れ、モダンでミニマルな木調で統一された事務所内をぐるりと見渡した。
そして、傍らで所在なげに立ち上がった悦清禾へと視線を留めると、ごく軽く顎を引いて会釈した。
その時、ミーティングスペースのすりガラスの引き戸がカラリと開かれた。
闕恆遠は深みのあるダークグリーンのヘビーウェイトワークシャツに身を包み、袖口を前腕まで無造作に捲り上げ、手には二冊の分厚い契約書を携えて部屋から出てきた。
二十九歳の男の体躯は均整が取れてまっすぐに伸び、その顔立ちは彫りが深く精悍であった。
鼻梁には仕事用の細縁眼鏡をかけ、その佇まいはどこまでも厳格で、落ち着き払っていた。
「闕総監、」
「こちらが私の妹の伊凝雪です」
伊凝婉は微笑みを浮かべながら、二人を引き合わせるように言葉を添えた。
「凝雪、」
「こちらがこの事務所の代表建築士である、」
「闕恆遠総監よ」
伊凝雪はくるりと身体の向きを変え、これまでに百戦錬磨の老獪なビジネスマンたちを幾度となく品定めしてきたその鋭い眼差しを、目の前の若い男へと静かに注いだ。
彼女の視線は鋭利に闕恆遠の清潔で乱れのないシャツの襟元、その双眸に宿る一点の曇りもない坦々とした誠実さを撫でるように走り抜け、そして最後には、自然と彼の手元へと止まった。
脱力して下ろされた彼の左手薬指には、控えめで奥ゆかしい銀白色のプレーンな結婚指輪が、静かに嵌められていた。
「伊弁護士、」
「かねてよりお噂は伺っておりました」
「足元の悪いなか、わざわざお越しいただき恐縮です」
闕恆遠は自ら進んで右手を差し出した。
その立ち振る舞いは謙虚で器が大きく、若く美しい女性を前にしたビジネスマンにありがちな軽薄さや過剰な愛想は微塵もない。
相手との距離感と節度を極めて完璧に心得たものであった。
「滅相もございません、闕総監」
「姉がこちらで大変お世話になっておりますし、」
「ついでに契約書に目を通させていただくくらい、当然の務めですから」
伊凝雪は手を伸ばし、短く、しかし力強く彼と握手を交わすと、すぐさまごく自然に手を引いた。
「どうぞ、ミーティングスペースへ」
「信義承曜フィナンシャルセンターの大型案件に関する、共用部監理契約書と外注施工の条項書類を用意してあります」
闕恆遠は身体を横へと引き、招き入れる仕草を見せながら、誠実な声音で言った。




