第1章:9. 泥濘の現場の姿と、深夜の温かいお茶(4)
夜の帳が下り、敦化北路に佇む「遠睿統合設計」のオフィス。
時刻はすでに夜の八時を回り、広いオフィスの中で明かりが灯っているのは、わずか二基の暖色系ペンダントライトだけだった。
総務・経理統括の伊凝婉は六時半の時点で日次財務レポートの処理をすべて終えて定時退社しており、だだっ広い空間はひっそりと静まり返っていた。ただ窓の外で、しとしとと降り続く冬の雨がガラスを叩く微かな音だけが響いている。
悦清禾は自席に腰掛け、デスクの上には吹き抜けロビーの図面が分厚く積み上げられていた。
昼間の現場で受けた衝撃を経て、彼女は自らの手描き製図や施工図の読解能力が、まだまだ及第点に遠く及ばないことを痛感していた。
負けず嫌いなこの少女は帰宅することを選ばず、自ら進んでオフィスに残り、三角スケールと極細のミリペンを握りしめ、トレーシングペーパーの上へと昼間の構造接合部のスケッチを熱心に一筆一筆トレースし直していた。
カタリ。
軽やかなマグカップの底が当たる音とともに、芳醇な柑橘の香りを立ち上らせる温かい柚子茶が、悦清禾のデスクの隅へとそっと置かれた。
悦清禾は小さく息を呑んで跳ね起きるように顔を上げた。
見れば、闕恆遠がいつの間にかあの防風ジャケットを脱ぎ、柔らかなチャコールグレーのウールニット姿となって彼女のデスクの脇に静かに佇んでいた。
彼の双眸は柔らかな灯りの下で深く穏やかに潤んでおり、その口元には惜しみない賛許の笑みが浮かんでいた。
「もう八時を回っているよ」
「どうしてまだ帰らないんだい?」
「大学を出たばかりの新人が、」
「そんなに無理をして残業ばかりしていたら、」
「あっという間に身体を壊してしまうよ」
悦清禾の頬がほんのりと朱に染まり、気恥ずかしそうに手にしていたミリペンを置くと、小さな両手を無意識に太ももの上で擦り合わせた。
「総監、」
「総監がずっとオフィスで図面を引いていらっしゃるのが見えたので、」
「昼間の記憶が鮮明なうちに、」
「一階ロビーの鉄骨ジョイント詳細図を描き直しておきたくて……」
「自分の呑み込みが遅くて、」
「事務所の進みに追いつけなかったらどうしようって思って、」
「総監や江総監にご迷惑をおかけしたくないんです」
闕恆遠は傍らにあったキャスター付きのオフィスチェアを引き寄せて腰を下ろすと、悦清禾が描き上げたばかりのトレーシングペーパーに手を伸ばした。
彼のすらりとした長い指先が、紙面を覆うびっしりと、しかし端正で美しいインクの線をそっと撫で、あらゆるコーナーの納まりや寸法表記を丹念に見定めていく。
「線がブレていないね」
「スケール感の捉え方も非常に正確だ」
「君の手描きによるデッサン力は本当にしっかりしている」
「自分を過小評価する必要なんて微塵もないよ」
闕恆遠はデスクの上の赤鉛筆を取り、図面の右下にある配管が交差する箇所へ、くるりと小さく丸印をつけた。
「ただ、ここには注意が必要だ」
「排水勾配を百分の一しか取っていないと、」
「商業ビルで人の出入りがピークを迎えた際、水が滞留しやすくなる」
「ここは百分の二に変更したほうがいい」
「建築の設計というのは、図面上の見た目の美しさだけを追ってはいけないんだ」
「五年後、十年後のメンテナンスのしやすさまで見据えておかないとね」
悦清禾は両手で鉛筆を受け取ると、身をわずかに乗り出し、闕恆遠の紡ぐ一つひとつの解説に真剣な面持ちで耳を傾けた。
二人の距離はごく近く、闕恆遠の低く磁性を帯びた声音が、静まり返った深夜のオフィスに穏やかに響き渡る。それはまるで、凍てつく冬の夜に注がれる暖流のようであった。
悦清禾はそっと睫毛を伏せ目勝ちに持ち上げ、図面に集中する闕恆遠の横顔を盗み見た。
高く通った鼻筋、きつく引き結ばれた薄い唇、そして細身の黒縁眼鏡の奥に宿る、デザインに対する純粋な信念を湛えた瞳。
この男性は成熟しており、プロフェッショナルで、どこまでも優しい。
それでありながら、触れる者に思わず寄り添いたくなるような、重厚で揺るぎない安心感を漂わせている。
悦清禾の胸の奥がきゅっと小さく締めつけられた。
彼女はあの温かい柚子茶を両手で包み込み、そっと口に含んだ。
甘く潤いのある温もりが、喉元から胸の切っ先へとじんわりと広がっていく。
闕総監にはすでに家庭があることも、自分自身が取るに足らない一介のアシスタントに過ぎないことも、痛いほど理解していた。
けれど、胸の内に芽生えたその清らかで熱を帯びた思慕は、誰にも見られない暗がりのなかで芽吹いた若葉のように、静かに、しかし深くしっかりと根を張っていった。
「よし、」
「今日はここまでにしておこう」
「図面を片づけなさい」
「ついでだし、地下鉄の駅まで車で送っていくよ」
闕恆遠は手元を上げて腕時計を一瞥すると、立ち上がって悦清禾の肩をポンと軽く叩いた。
「ありがとうございます、総監!」
「私、自分で南京復興駅まで歩いて電車に乗りますから大丈夫です」
「すぐ目と鼻の先ですから!」
悦清禾はこれ以上手を煩わせまいと、慌てて両手を前で大きく振った。
「外はひどい土砂降りだよ」
「冷え込んでいるし」
「遠慮しなくていいから、」
「さあ、早く荷物をまとめなさい」
闕恆遠の口調は穏やかでありながら、決して拒絶を許さない、まっすぐな気遣いに満ちていた。
悦清禾の胸は弾むような歓喜と温もりで満たされ、彼女は手際よく図面をまとめると、リュックを背負って闕恆遠の後に続きオフィスを後にした。
夜風が吹きすさび、台北の街を彩るネオンサインは冷たい雨霧の中でかすみ、朧げな光の輪を滲ませていた。
闕恆遠はチャコールグレーのSUVを走らせ、悦清禾を安全に地下鉄の出入口まで送り届けると、傘を差して小走りに駅舎へと入っていく少女の背中を見守ってから、ハンドルを切って内湖の自宅へと車首を向けた。
ワイパーがフロントガラスの上を規則正しいリズムで往復している。
闕恆遠のポケットの奥には、ビル全体への出入りを可能にする、あの漆黒の工事用マスターパスが静かに横たわっていた。
新しい暮らしへの熱い希望を胸に抱き、彼はアクセルを踏み込む。
チャコールグレーのSUVは、夜の雨を切り裂いて滑らかに前進した。
ワイパーがガラスについた水滴を一定のテンポで払い落とし、インパネの仄かな光がハンドルを握る闕恆遠の真剣な横顔を淡く照らし出す。
車内にはカーラジオから流れる低く落ち着いた深夜番組の声が静かに満ち、内湖の温もりある灯火を目指して、車はどこまでも走り続けた。




