第1章:9. 泥濘の現場の姿と、深夜の温かいお茶(2)
「危ない!」
逞しく力強い大きな手が横から瞬時に伸び、悦清禾の細い手首を寸分の狂いもなく掴み取った。
悦清禾が何が起きたのかを理解するよりも早く、抗うことのできない強大な力が、彼女の華奢な身体を後方へと一気に引き寄せた。
闕恆遠の動作には一切の迷いがなかった。
長い腕をすばやく回し、その勢いのまま小柄な少女を自らの胸元の奥へと引き入れて庇うと、流れるような足さばきで半歩横へと踏み出した。
そして、厚く広い自らの背中を、制御を失った手押し車の突進方向へと立ちはだかるようにして、完全に壁となったのだ。
ガシャーーーン!
重く冷え切った亜鉛メッキ鋼管が闕恆遠の黒いマウンテンパーカーの裾をかすめて通り過ぎ、背後のコンクリート床へと激しく叩きつけられ、鼻を突く泥水と粉塵の飛沫を派手に跳ね上げた。
悦清禾の額が、闕恆遠の硬く平らな胸板へとこつんとぶつかった。
分厚い防風ジャケット越しに伝わってきたのは、凍える現場で働き詰めていた男の、熱い体温とわずかな汗の匂いだった。
その生々しいまでの実感が、彼女の心臓を激しく跳ね上げさせる。
その瞬間、周囲を取り巻いていた耳をつんざくような機械の切断音が、まるで潮が引くように一瞬で掻き消えた。
悦清禾は闕恆遠の温かな抱擁の中で全身を硬直させ、頭の中が真っ白になり、胸の奥で心臓が激しく鐘を打ち鳴らしていた。
それは、彼女がこれまでの人生で一度も経験したことのない――まるでそびえ立つ山のように揺るぎなく、圧倒的な安心感に満ちた庇護だった。
「資材を運ぶのに固縛ロープもかけていないのか?」
「安全管理はどうやってパスしたんだ?」
「万が一の事故が起きたら、誰が責任を取るつもりだ?」
闕恆遠は眉間を深く寄せ、深い漆黒の瞳に鋭い怒りの炎を宿していた。
その声は低く厳しく響き渡り、何者にも抗うことを許さない圧倒的な威圧感を放っていた。
手押し車を押していた二人の作業員は自らに非があることを痛感し、さらに闕恆遠の胸元に揺れる「共同設計統括総監」の身分証を目にするや否や、卑屈な笑みを浮かべて平身低頭に謝罪を繰り返した。
「す、すみません、本当にすみませんでした!」
「小石に車輪を取られて滑っちまったんです!」
「怪我はありませんでしたか!?」
「すぐ、すぐにロープで縛り直します!」
「今すぐやりますんで!」
闕恆遠は冷ややかな視線を二人へ投げかけ、鋼管がしっかりと固定し直されたのを確認してから、ようやく視線を下ろした。
その瞳の奥に宿っていた鋭い切っ先は、腕の中にいる少女を見つめた瞬間、急速に柔らかな気遣いと温もりへと解けていった。
彼は彼女の肩を抱いていた腕をそっと解き、半歩身を引いて礼儀にかなった程よい距離を保つと、その青ざめた小さな顔を見つめた。
「怖かっただろう?」
「鋼管が足に掠ったりはしなかったかい?」
悦清禾ははっと我に返ると、両の頬が一瞬にして火がついたようにカッと熱くなった。
彼女は慌てて首を大きく横に振り、蚊の鳴くような細い声ながらも、全身全霊の感謝を込めて答えた。
「い……」
「いえ!」
「どこも怪我なんてしていません!」
「ありがとうございます、闕総監……」
「総監が引き寄せてくださらなかったら、今頃どうなっていたか……」
闕恆遠はマウンテンパーカーの深いポケットから未開封の使い捨てカイロを取り出し、外袋を破いて数回ほど揉みほぐすと、凍えて強張っている悦清禾の小さな手へとそっと手渡した。
「手袋をつけなさい」
「現場には危険が至る所に転がっている」
「常に周囲の全方位に気を配らなくては駄目だよ」
「この柱のチェックが終わったら、」
「上の管理センターへ行って入館証を受け取ってこよう」
手のひらからカイロのじんわりとした熱が伝わり、悦清禾はその温もりをぎゅっと握りしめた。
そして顔を上げ、再び身を翻して図面のチェックに集中し始めた闕恆遠のまっすぐな背中を見つめた。
少女の澄み切った瞳の中には、プロフェッショナルな上司に対する敬畏の念のほかに、いつの間にか、ひどく純粋で、どこか胸をときめかせるような憧れと慕情の光が、深く刻み込まれていた。
三十分後、記録を終えた悦清禾を連れ、闕恆遠は養生用の防護ベニヤ板が張り巡らされた工事用リフトに乗り込み、ビルの五階にある統合管理組合のオフィスへと足を運んだ。
オフィスには毛足の長いグレーのカーペットが敷き詰められ、空調の効いた室内は春先のように暖かく、足元に広がる荒削りで泥まみれの現場とはまるで別世界のようであった。
「闕総監、」
「お疲れ様です!」
「こんな底冷えする日に、自らアシスタントの方を連れて現場の採寸に入られるとは頭が下がりますよ」
対応に出たビル管理マネージャーは、五十代半ばのやり手と思しき引き締まった顔立ちの中年男性だった。
闕恆遠の姿を認めるや否や満面に笑みを浮かべて出迎え、金庫の奥から一枚のカードを取り出した。
それは特殊なハイエンドゴールドチップが埋め込まれた、マットブラック仕様の非接触式ICカードであり、その脇には赤文字のヘッダーが印刷された受領書が添えられていた。
「こちらは施主側である承曜グループの資産管理部門、」
「そして共同運営を手掛けるカイシェン・アセットが共同発行した『全エリア工事監理専用マスターパス』でございます」
「闕総監には、このランドマークビルのメインロビーはもちろんのこと、」
「全エリアの共用動線、さらには最上階の重要空間におよぶ構造監理という重責を担っていただいておりますので、」
「このカードには、二十四時間いつでも無制限に入退出が可能な最高レベルの緊急アクセス権限が付与されております」
「一階のエントランスゲートや工事用エレベーターの全機をダイレクトに動かせるだけでなく、」
「すでに外資系企業が業務を開始している二十八階の高層オフィスフロアを含む、すべての防煙・防火区画の通用口、ならびに重要機械室の重厚なセキュリティに至るまで網羅されております」
「今後の夜間静音巡回や、施工工程の臨場検査スケジュールにぜひお役立てください」
闕恆遠はずっしりと重みのある黒い磁気カードを受け取ると、受領書に淀みない筆致で自らのフルネームを署名した。
「ありがとうございます、李マネージャー」
「夜間の施工および出入りの管理規定は厳格に遵守いたします」
闕恆遠は磁気カードをジャケット内側の最も深いファスナーポケットへと大切にしまい、五階の大型展望ガラス窓の前に立った。
深く澄んだ瞳をかすかに上げ、雲を突き刺すかのようにそびえ立つ、この超高層ビルの頂上方向をじっと見上げる。
その眼差しには、未来への無限の憧れと揺るぎない決意の光が宿っていた。
この大型プロジェクトは、彼と江睿宇が全財産を賭けて挑んだ再起の出発点だ。
このビルの共用部と高層空間が無事に竣工し、完了検査をパスしさえすれば、まとまった額の設計・監理報酬が旧正月前に口座へと振り込まれる。
そうなれば、妻である舒玟妤の手を引き、一面に広がる大きな窓を備えた新しいマンションを買いに行ける。
以前の起業の挫折がもたらした暗雲をすべて綺麗に拭い去り、彼女に心からの安らぎと幸福に満ちた家庭を与えられるのだ。
この瞬間、未来の青写真に胸を躍らせていた闕恆遠は、まだ夢にも思っていなかった。
自らの妻である舒玟妤が、毎朝カードキーをかざして出社し、ハイヒールを鳴らして働いているデスクが――まさに同じこのビルの、第二十八階に存在しているという事実を。




