第1章:8. 新たな幕開けの朝光と、忍び寄る暗い影(3)
同じ頃、信義区の高層ビル二十八階に構えるカイシェン・アセット・マネジメント社内。
広々として明るいオープンフロアにはキーボードを叩く乾いた音が絶え間なく響き渡り、足元まで広がる全面ガラスの窓からは、華やかな信義の摩天楼が一望できていた。
舒玟妤はパーティションで区切られた自席に腰を下ろし、海外高級ブランドECとの提携プロポーザル用のスライド修正に没頭していた。
先週金曜の夜に行われた部署のキックオフ会食が無事に終わって以来、舒玟妤の全身を覆っていた緊張は綺麗さっぱり解け去っていた。
あの席で連昊成が見せた洗練された立ち居振る舞い、寛大さ、そして踏み込みすぎない絶妙な距離感は、まるで強力な精神安定剤のように作用していた。
この一ヶ月間、彼女の胸の奥深くに燻っていた疑念と警戒心を、跡形もなく溶かしてしまったのだ。
窓の外に広がるきらびやかな信義の街並みを見下ろしながら、彼女の心の底には、密かな自負すら湧き上がっていた。
自分は職場と家庭の境界線をこれ以上ないほど完璧にコントロールできている、と。
ここではハイクラスの外資系企業ならではの気品と達成感を存分に味わい、その一方で、家庭の穏やかな平穏もしっかりと守り抜いているのだから。
「玟妤、」
「この第三四半期のユーザー維持率のグラフだけど、」
「フォントをサンセリフ体に変えてくれたんだよね?」
「前よりもレイアウトがぐっと見やすくなっているよ」
隣の席に座る千慕羽がくるりと振り返り、手元のタブレット端末を舒玟妤へと差し出した。
その色白で涼やかな横顔には、客観的な評価と好意的な認めの色が浮かんでいる。
ここ最近、舒玟妤が見せているプレゼン資料の優れた審美眼と細やかな気配りは、千慕羽にこの新しい同僚への確かなプロとしての信頼感を抱かせていた。
「ありがとう、慕羽」
「この前、あなたがローデータを綺麗に整理してくれたおかげよ」
「あれがなかったら、私ひとりじゃどこを強調すべきか掴めなかったわ」
舒玟妤は笑みを返しながら応じ、その表情には自然な柔らかさが漂っていた。
二人が声を落として打ち合わせを続けていたその時、総監室のブラインドが静かに引き上げられ、ライトグレーのオーダーメイドスーツに身を包んだ連昊成が扉を押し開けて出てきた。
髪型は乱れ一つなく完璧にセットされ、鼻梁に乗った金縁の眼鏡が、成熟した大人の男ならではの知的な気品を際立たせている。
その手には、決済を終えたばかりの二冊のファイルが握られていた。
二人のブースの脇を通りかかる際、連昊成はわずかに歩みを緩め、千慕羽と舒玟妤へと穏やかな眼差しを向けた。
その声音は、どこまでも自然で親しげだった。
「二人とも、ご苦労さま」
「先ほどのグローバル会議でね、」
「アジア太平洋地区の統括責任者が、君たちの部署が出した新しいマーケティングの骨子をひどく絶賛していたよ」
「年末の大型フラッグシップ案件をこのまま無事に勝ち取ることができれば、」
「インセンティブもしっかりと期待してくれていい」
千慕羽は穏やかな面持ちのまま静かに頷き、ビジネスライクに淡々と応じた。
「自分たちの職務を果たしたまでですから」
「ありがとうございます、総監」
連昊成は満足そうに微笑んで頷くと、視線を自然な流れで在庫レポートの脇にいる舒玟妤の顔へと移した。
その口調は極めて穏やかで、一片の非の打ち所もなかった。
「玟妤、」
「前の提案書に添えられていたブランドストーリーは、とても心に響くものだったよ」
「実に繊細で、素晴らしい筆致だった」
「その調子で頼むよ」
「もし他のチームからリソースを引っ張ってくる必要があれば、」
「いつでも私のオフィスに来て相談してくれ」
「分かりました、」
「ありがとうございます、連総監」
舒玟妤は軽く頭を下げ、どこか気圧されたような面持ちで小さく応じた。
連昊成はそれ以上その場に留まることなく、落ち着いた足取りで給湯室のほうへと歩き去っていった。
その一連の所作はどこまでも自然で品格に満ちており、一線を越えようとする気配など微塵も感じさせなかった。
千慕羽は連昊成が去っていく背中を横目で見やりながら、静かにアイスアメリカーノを一口喉へと流し込んだ。
その瞳は水面のように波一つ立たず、あのような甘い言葉に少しも心を動かされることなく、再び視線を落として信義承曜金融センターの資産運用原帳のデータ抽出を続けた。
舒玟妤はデスクの椅子に腰掛けたまま、無意識のうちに口元をわずかに綻ばせていた。
彼女はデスクの引き出しをそっと細く引き開け、その最奥に収められている、高級な万年筆が入ったダークグレーの細長いケースを見つめた。
今この瞬間、彼女の胸の内にあったのは、かつてのような恐怖や罪悪感ではなかった。
それに取って代わっていたのは、目の前にある甘い現状に対するある種の麻痺と、都合のいい僥倖の念だった。
連昊成はかつてのような私情などとうに脱ぎ捨て、自分に対する純粋なビジネス上の引き立てと評価へと昇華させてくれたのだと、彼女は盲信していた。
これは自分に巡ってきた純然たるキャリアのチャンスであり、自分にはそのすべてを完璧にコントロールする力があるのだと。




