第1章:8. 新たな幕開けの朝光と、忍び寄る暗い影(2)
午前十時半、事務所内のオペレーションは次第に軌道に乗り始めていた。
伊凝婉は驚くべき統括能力を発揮し、わずか二時間足らずのうちに、新入社員の社会保険や健康保険の手続き、オフィス備品の資産番号の割り振りを終わらせた。
さらには信義区の大規模案件に関わる初期請求フローまで、すべて淀みなく整理し終えていた。
オフィスの固定電話が鳴り響く。
それは電気・配管資材のサプライヤーからの確認連絡だった。
伊凝婉は卑屈にも傲慢にもならず、極めて理路整然と契約単価と出荷スケジュールを突き合わせ、迷いのない手際で受話器を置いた。
ひとしきりの忙しさが一段落し、伊凝婉はマグカップを手にしてお茶を淹れようと給湯室へと向かった。
ちょうどそのとき、エプロンのポケットに入れていた私用のスマートフォンが震えた。
液晶画面には着信表示が点滅していた。
妹の伊凝雪からだった。
伊凝婉の瞳の奥に、心からの柔らかな温もりが灯った。
通話アイコンをスライドさせ、端末を耳元へと寄せる。
「凝雪、」
「こんな時間にどうしたの?」
「今日は開廷する裁判はなかったかしら?」
電話の向こうから、凛として澄み渡り、極めて芯の通った若い女性の声が返ってきた。
その背景からは、微かに紙束をめくる乾いた音が漏れ聞こえている。
「ちょうど民事の企業法務法廷が一件終わってね、」
「今は自分の事務所へ戻る車の中よ」
「お姉ちゃん、」
「今日は新しいデザイン事務所への初出勤の日でしょう?」
「そこの環境はどう?」
「トップの人は、うまくやっていけそうな相手かしら?」
伊凝雪は、台北屈指のトップビジネスローファームでシニアパートナーを務める弁護士であった。
普段の法廷では舌鋒鋭く、氷のように怜悧な彼女だったが、唯一無二の肉親である実の姉に向き合う時だけは、その口調に飾りのない深い気遣いと柔らかな情が滲み出る。
伊凝婉の口元に、ほっと肩の力を抜いた笑みが浮かんだ。
給湯室のカウンターに軽く寄りかかり、ガラス越しに執務室で悦清禾へと熱心に図面の読み方を指導している闕恆遠の姿を見つめる。
「心配いらないわよ、」
「ここはとても環境がいいわ」
「オフィスも広々としているし、」
「光の入り方もすごく心地いいの」
「総監も極めてプロフェッショナルで誠実な方よ」
「ディテールをとことん追求する姿勢があって、」
「以前の大手グループに蔓延っていたような、息苦しい派閥争いも一切ないわ」
「新卒で入ったアシスタントの女の子も、とても純粋で働き者だしね」
「私、ここがすごく気に入っているの」
電話の向こうの伊凝雪は小さく息をついたようだったが、すぐにその声音をわずかに低く沈ませた。
「それならよかったわ」
「そういえば、」
「お姉ちゃん、」
「あのクズ男、ここ数日またメッセージで嫌がらせでもしてきてないでしょうね?」
伊凝雪の言う「あのクズ男」とは、無論、一、二ヶ月ほど前に伊凝婉との離婚手続きを終えたばかりの前夫――連昊成のことだった。
伊凝婉がマグカップを持つ指先が、かすかに強張った。
瞳の奥底に一瞬だけ嫌悪と疲弊の色がよぎったものの、すぐにいつもの冷静さを取り戻した。
「先週末、また新しい番号からメッセージを送ってきたのよ」
「海外のレバレッジ取引でロスカットを食らって、証券会社から追証を請求されているって」
「裏であちこちから借金して穴埋めをしているらしくてね、」
「信じられないことに、急場をしのぐために私から三百万を工面しようとしてきたのよ」
「涙ながらに懇願するような文面だったけれど、」
「相手にする気にもならなくて、」
「そのまま着信拒否にしたわ」
「それでいいのよ、」
「あいつには絶対に情けをかけちゃ駄目だからね」
伊凝雪は冷笑を漏らし、その口調は鋭利な刃物のように研ぎ澄まされていた。
「連昊成みたいな偽善者はね、」
「表向きは人当たりのいいエリートぶって着飾っているけれど、」
「骨の髄まで自己中心的で、底なしに貪欲な吸血鬼に過ぎないのよ」
「強欲なくせに無駄にプライドだけは高いから、」
「お姉ちゃんのところで門前払いされて金が引っ張れないとなれば、」
「逆上して何をしでかすか分からないわ」
「お姉ちゃんの名義になっている大安区のマンションにまで、汚い手を伸ばそうとするかもしれない」
「昔のとうに期限の切れた委託管理資料を悪用して、勝手に担保に入れて借金をつくろうと企むような男よ」
「あいつが浮気して資産を不正に移転させていた決定的な証拠は、全部私の金庫の中に厳重に保管してあるわ」
「もしまた少しでも嫌がらせをしてくるようなら、」
「すぐに私へ電話しなさい」
「私が弁護士として直接裁判所へ書類を叩きつけて、民事上の不法行為責任の追及と保護命令の申し立てをしてやるから」
「あいつの社会的立場を、根底から叩き潰してあげる」
「分かってるわ、」
「凝雪、」
「あなたがいてくれるから、」
「私は何も怖くないわ」
伊凝婉の胸の奥にじんわりと温かいものが広がり、妹を宥めるように優しい声を返した。
「あなた自身もあまり無理をしちゃ駄目よ、」
「夜遅くまで残業ばかりして、外食で済ませてばかりじゃ体に障るわ」
「分かってるって、」
「今週末に時間ができたら、」
「新しいオフィスまで車で迎えに行くわね」
「ついでにその事務所の秘密保持契約と就業規則にも目を通してあげる」
「お姉ちゃんがまた損な役回りを押しつけられたら困るから」
「ええ、」
「週末にね」
伊凝婉は通話を終えると、胸の内に溜まっていた澱のような息を静かに吐き出した。
そして給湯室をあとにし、過去から引きずってきた薄暗い陰りを完全に背後へと置き去りにして、目の前にある真新しい仕事へと全身全霊で向き直った。




