第1章:8. 新たな幕開けの朝光と、忍び寄る暗い影(1)
十一月下旬の台北。朝の空気には、すでに透き通るような冷気が張りつめていた。
敦化北路の並木道に立ち並ぶクスノキの葉が、朝風に吹かれてサラサラと音を立て、アスファルトの上には薄っすらとした湿り気が広がっている。
八階に居を構える「遠睿統合デザイン」のエントランスでは、取り付けられたばかりのマットブラックのチタンメタル製看板が、廊下の柔らかなダウンライトの光を浴びて、重厚で落ち着いた輝きを放っていた。
午前八時四十五分、エレベーターの扉が静かに横へと滑り開いた。
悦清禾は、洗濯を重ねて少し色褪せたキャンバス地のリュックを背負い、路地裏の朝食店『美而美』で買ったばかりのハムエッグトーストと温かい豆乳を手に下げて、小走りにエレベーターから飛び出してきた。
初出社を迎えた新人として、彼女はあらかじめ三十分以上も前倒しで到着していた。
重厚なフロストガラスの扉の前に立ったとき、鍵はとうに開け放たれ、奥からは温かみのある明るい光が漏れ出していることに気がついた。
悦清禾は深く息を吸い込み、耳の下で切りそろえたショートヘアと、清潔なベージュのニットの裾をそっと整えてから、慎重に扉を押し開けた。
「おは……」
「おはようございます!」
広々とした開放的な執務スペースには、挽きたての濃醇なコーヒーの香りが漂い、そこに無垢材と観葉植物の瑞々しい気配がほのかに溶け合っていた。
総務・法務の要である伊凝婉は、すでに窓際の独立したエグゼクティブデスクに腰を落ち着けていた。
仕立ての冴えるブラックのウールジャケットを羽織り、インナーには上質なハイネックのオフホワイトニット。艶やかな長い黒髪は、べっ甲柄のシンプルなヘアクリップで無造作に後ろへと纏められている。
デスクの上には三台のノートパソコンと整然と色分けされたファイルボックスが並び、その脇では小型のエスプレッソマシンが低く作動音を響かせていた。
扉の開く音を耳にして、伊凝婉は端正で落ち着きのある顔を上げ、悦清禾へと品格のある柔らかな微笑みを向けた。
「おはよう、」
「清禾さん」
「約束の時間よりも三十分も早いのね」
「とても気持ちのいい挨拶だわ」
「伊特命補佐、おはようございます!」
悦清禾は慌てて腰を折ってお辞儀をし、手に提げていた朝食を気まずそうにさっと背中へと隠した。
「そんなに畏まらなくていいのよ」
「普通に凝婉さんって呼んでくれれば大丈夫だから」
伊凝婉はすっと立ち上がり、温かい白湯を一杯注いで彼女へと差し出した。
「闕総監なら三十分前にはもう来ていてね、」
「今は奥のサンプルルームで建材の品番を突き合わせていらっしゃるわ」
「ひとまず荷物は窓際の一番手前の席に置きなさい」
「あそこが一番光の入りがいいから」
「朝ごはんを食べ終わったら、向こうへ顔を出してみて」
「はいっ、」
「ありがとうございます、凝婉さん!」
悦清禾は温かい白湯を受け取った。
社会人としての一歩を踏み出したばかりの胸のざわめきや不安は、伊凝婉の落ち着きのある温かな気遣いによって、たちまちその大半が解きほぐされていった。
数分後、身の回りの荷物を整え終えた悦清禾は、小走りでサンプルルームの入り口へと向かった。
サンプルルームの中には、背の高いスチール製のディスプレイラックが二列にわたって整然と立ち並び、色とりどりの大理石スライスやイタリア直輸入のテラゾータイル、そして先週玥映嵐が自ら届けに来たファブリックのカラーパレットなどが、整然と分類されて収められていた。
闕恆遠はダークグレーのタフなヘビーウェイト長袖カットソーを身にまとい、袖口を肘のあたりまで捲り上げていた。
鼻梁には仕事用の華奢な黒縁メタルフレームの眼鏡をかけ、手持ちのレーザー距離計と色見本帳を片手に、床へと片膝をついてダークグレーの花崗岩の防滑係数を綿密に確かめているところだった。
斜めに差し込む朝の光線が、彫りの深い彼の横顔をくっきりと照らし出し、その眼差しには極めて厳格な集中が宿っていた。
「闕総監、」
「おはようございます!」
「アシスタントの悦清禾、本日より着任いたしました」
悦清禾は扉の脇に背筋を伸ばして立ち、澄んだ張りのある声を響かせた。
闕恆遠は手元の作業を止め、ゆっくりと立ち上がって振り返ると、眼鏡を外して彼女へと柔らかな笑みを向けた。
「おはよう、」
「清禾」
「荷物はもう片付いたかい?」
「はい、」
「すべて整頓いたしました!」
悦清禾は力強く、小気味よく頷いた。
闕恆遠は長テーブルの脇へと歩み寄り、数十ページにも及ぶ分厚い建築図面と、一冊の真新しい黒いハードカバーのノートを彼女へと差し出した。
「これは信義承曜金融センターの複合型オフィスビル案件における、エントランスホールの構造図だ」
「君の手描きのデッサン力は極めて確かだけれど、」
「実際の商業案件における施工図面の納まりや取り合いは、学校の課題で模型を作っていた頃とは根本から次元が違う」
「今日の君のミッションは、」
「一階エントランスの吹き抜け動線上にある構造柱の寸法と、床面舗装の目地割を、」
「すべて赤ペンで照合し、洗い出すことだ」
「分からないところがあれば、いつでも僕や江総監に尋ねて構わない」
「初歩的な質問を恥ずかしがる必要はまったくないからね」
「理解できたかい?」
「はい、理解しました!」
「全力で、しっかり読み込みます!」
悦清禾は両手で恭しく図面を受け取った。
その澄んだ瞳の中には、偽りのない純粋で熱い輝きが宿っていた。
目の前にいるこの、愚直なまでに学ぶ意欲に満ちた若い少女を見つめ、闕恆遠の瞳の奥に確かな称賛の色が宿った。
その声の調子は、殊のほか穏やかだった。
「行きなさい、」
「焦らず、じっくりと見てごらん」
「拙速さよりも、確実な土台を築くことの方がずっと大切だからね」




