第1章:7. 堅実な雛鳥と初めての会食(1)
午前十一時ちょうど、敦化北路の並木道沿いに佇むこのオフィスビル八階、仕上げを待つ無垢な会議室のガラス扉が再び小さくノックされた。
「どうぞ」
闕恆遠は手元の黒いボールペンを置き、顔を上げて入り口へと視線を向けた。
扉がわずかに押し開かれ、次いで小柄な若い女性がおずおずと、どこか緊張した足取りで中へと入ってきた。
彼女は綺麗に洗い上げられてアイロンの効いた薄いベージュのニットに、インディゴブルーのストレートデニム、そして少し履き慣らされたキャンバススニーカーを合わせていた。
その胸元には、分厚く重みのある黒い八つ切りハードカバーのポートフォリオをぎゅっと抱きかかえている。
耳の下で切りそろえた爽やかなショートヘアに、薄化粧すら施していない素顔からは、社会に出たばかりの青さと緊張感が滲み出ていた。
すっと通った鼻梁の上には細い黒縁眼鏡が乗り、全身から混じり気のない純粋な学生の空気を漂わせている。
無垢材のロングテーブルの向こうに座る闕恆遠と江睿宇の姿を視界に捉えるなり、少女は慌てて深く腰を折り、お辞儀をした。
その声は涼やかに通っていたものの、かすかな震えまでは隠し切れていなかった。
「お二方とも、はじめまして、」
「ジュニアアシスタントデザイナーの職に応募いたしました、悦清禾と申します」
「どうぞ座って、」
「そんなに緊張しなくていいよ」
「うちは人を食ってかかるような大企業じゃないんだからさ」
江睿宇は破顔してひらひらと手を振り、ひときわ親しみやすい口調で場を和ませた。
悦清禾は椅子を少しぎこちなく引き、両手を縮こまらせるように太ももの上に置いた。
それから、抱えていた重みのある手描きポートフォリオを、壊れ物を扱うかのように慎重に闕恆遠の目の前へと押し出した。
闕恆遠はポートフォリオを受け取ると、しなやかな指先で静かに最初の一ページを開いた。
そこに目に飛び込んできたのは、現在の業界で主流となっているレンダリングソフトによる手早いCGパースなどではなかった。
ミリペンと透明水彩で丹念に描き込まれた、息をのむほど繊細な建築スケッチの数々だったのだ。
古びた長屋建て住宅の階段手すりに刻まれた木目。
アーケードの柱が落とす光と影の繊細な屈折。
さらには、窓を彩る面格子アイアンワークの複雑を極めたプロポーションに至るまで。
引かれた一本一本の線は狂いなく精緻であり、添えられた文字もまた端正で美しい佇まいを見せていた。
闕恆遠の凪いでいた漆黒の瞳の奥に、次第に抑えきれない驚嘆の光が灯っていった。
空間の極限の美と構造の調和を追い求め続ける同じ建築の徒として、彼には一目で解ってしまったのだ。
この手描きの図面の数々を仕上げるために、どれほど眠れぬ夜を重ねてきたのか。
空間のディテールに対して、どれほど無垢で狂おしいほどの情熱を抱いていなければ、ここまでの線を描き出せないのかを。
「今の卒業したばかりの若い世代は、」
「ソフトのテンプレートに頼りきりになる者がほとんどだ」
「これほど腰を据えて、愚直に手描きの基礎を叩き込める者は滅多にいない」
闕恆遠はふっと瞳を上げ、その口調にはいつの間にかわずかな柔らかさが混じっていた。
「悦さん、」
「履歴書によると、実践大学の建築設計学科を卒業したばかりで、」
「大規模な商業建築の事務所でのインターン経験はないようですね」
「あらかじめ率直に伝えておく必要がありますが、」
「立ち上げたばかりの当事務所は、初期から抱える案件の密度が極めて高い」
「アシスタントには現場へ同行してもらい、墨出しの確認や採寸、現況の実測に追われることになります」
「時には資材などの重い荷物を運ぶ場面も少なくない」
「作業環境としては非常に過酷なものになりますが、」
「その点、耐えられますか?」
悦清禾は、華奢でありながらもしなやかな背筋をピンと伸ばし、微塵の躊躇もなく深く頷いた。
澄み渡った瞳の奥には、退く気配など少しも窺えなかった。
「総監、」
「どんな過酷な現場も恐れていませんし、」
「服が泥や埃に塗れることだって厭いません」
「大学の卒業制作のときも、」
「一人で木材を挽き、鉄骨を溶接しながら、丸二ヶ月間アトリエに泊まり込みました」
「私には大規模な商業案件の実務経験が足りないと、痛いほど自覚しています」
「けれど、学ぶ覚悟は誰にも負けません」
「総監の背中を追い、最も基礎となる現場のディテールから一歩ずつ叩き込ませていただけるなら、」
「どんな泥臭い雑用でも、すべてやり抜いてみせます」
江睿宇は傍らで密かに頷き、闕恆遠へと称賛の混じった視線を送った。
闕恆遠はその分厚いポートフォリオを静かに閉じると、唇の端にかすかだが心からの笑みを浮かべた。
「このポートフォリオからは確かな手の温もりが伝わってくるし、基礎が極めて堅実だ」
「空間に対する敬意と真摯さが、ありありと見て取れる」
「来週の月曜、朝九時に」
「もう一人の伊さんと一緒にオフィスへ出社してほしい」
「都合は大丈夫だろうか?」
悦清禾は数秒ほど呆然とし、まさかその場で採用を言い渡されるとは夢にも思っていなかった様子だった。
だが次の瞬間、その顔いっぱいに眩いほどの歓喜の笑みが弾けた。
慌てて再び立ち上がると、深々と腰を折って頭を下げた。
「ありがとうございます、闕総監!」
「ありがとうございます、江総監!」
「持てる力のすべてを尽くして励みます!」
「お二人のご期待を決して裏切りません!」
悦清禾が退室してからしばらく経ち、午後二時を回った頃、オフィスの外の廊下から優雅で落ち着きのあるハイヒールの足音が響いてきた。
高級インテリアファブリックおよび輸入建材ブランド「朗石国際」の代表である玥映嵐は、仕立ての美しいダークグレーのウールロングコートを身にまとい、マテリアルサンプルのボックスを抱えた二人のアシスタントを従えて、この無垢なオフィス空間へと足を踏み入れた。
玥映嵐は足を踏み入れるなり革の手袋を外し、基礎的な間仕切り工事を終えたオフィス内をぐるりと見渡した。
その視線は、図面を手に江睿宇と配管や電気配線のルートを議論していた闕恆遠の姿へと向けられた。
「闕総監、」
「思ったよりもずっと工事の進みが早いわね」
玥映嵐の口元には温かく知的な笑みが浮かび、その声は清らかで優雅に響いた。
闕恆遠は振り返り、玥映嵐の姿を認めると張り詰めていた表情を和らげ、歩み寄りながら穏やかな笑みを返した。
「映嵐、」
「ちょうどいいところに来てくれた」
「信義区の承曜金融センターの大型案件なんだが、吹き抜けのメインロビーに」
「イタリアから輸入するテラゾータイルの実物と、特殊な防眩仕様の照明器具のサンプルがいくつか必要でね」
玥映嵐はアシスタントに目配せし、大きなサンプルケースを長テーブルの上に広げさせた。
そして、金属特有の鈍い光沢を帯びた繊細なテキスタイルボードや石材のスライスを指し示しながら、光と影の相乗効果やコストの試算について淀みなく解説を進めていった。
大学の同系を卒業した選りすぐりの才媛であるだけに、玥映嵐のデザイン語彙や美学の根底にある理念は、闕恆遠のそれと完全に同じ波長を描いていた。
ほんの二、三言交わしただけで、複雑を極めていた異素材同士の取り合いの難題が、あっさりと紐解かれていく。
一通りの打ち合わせに区切りがつくと、江睿宇はアシスタントたちを連れてテラスの配管点検へと向かった。
会議用テーブルの周りには、闕恆遠と玥映嵐の二人だけが残された。
玥映嵐は闕恆遠から差し出された温かい茶を受け取り、目の前に立つ男の顔色を細やかに見つめた。
闕恆遠の瞳の奥に沈んでいた重い陰りが薄らぎ、代わりに起業へと全霊を捧げる研ぎ澄まされた集中力と生気が宿っているのを見て、玥映嵐の胸には心からの安堵が広がった。
だがそれと同時に、言葉にし難い微かな痛みがひっそりと疼いた。
あの居酒屋の片隅で、壊れゆく結婚生活の泥沼を前に無力な苦悩を滲ませ、自分に弱さを曝け出してくれたあの男は。
今、またあの家庭のために、あの女のために、傷一つ許さぬ頑丈な鎧を再び身に纏い直しているのだ。
「江睿宇から聞いたわよ」
「今朝、新しく二人の採用を決めたんですって?」
玥映嵐は瞳の奥に微かに滲んでいた秘めた恋情をすっと覆い隠し、古くからの親しい友人のトーンへと戻して、柔らかく問いかけた。
「ああ、」
「一人は実務経験が極めて豊富な総務・法務の要、伊凝婉さん」
「もう一人は、手描きの基礎が実に美しくて将来性のある新人、悦清禾さんだ」
闕恆遠はふっと口元を緩め、視線を落として図面を整えながら言葉を続けた。
「彼女たちが力を貸してくれれば、」
「事務所も来週には正式に看板を掲げて動き出せるよ」
「よかったわ」
玥映嵐は優しく彼を見つめた。
「事業は立ち上がったばかりなんだから、」
「あんまり自分を追い詰めすぎないでね」
「胃が弱いんだから、ブラックコーヒーも控えめにして」
「夜は早く帰って、家族と過ごす時間も大切にしなさいよ」
「わかっているよ、」
「前は目を覚まさせてくれて、本当に感謝している」
「玟妤との関係も、ずいぶんと落ち着いてきたんだ」
闕恆遠は顔を上げ、心からの謝意を伝えた。
玥映嵐は微かな笑みを浮かべ、そっと手をコートのポケットの中へと引き入れた。
そして、その指先をぎゅっと、痛むほどに強く握りしめた。
永遠に光を浴びることのないその愛しさを、再び心の最奥深くへと厳重に封じ込めながら。




