第1章:6. 宿命が交差する面接室(1)
季節はいつしか十一月中旬へと移ろい、台北盆地を満たす空気にも肌を刺すような冷たさが混じり始めていた。
敦化北路の並木道に立ち並ぶクスノキが風に揺れ、散った落ち葉が、基礎の内装木工を終えたばかりの八階のオフィス窓を時折かすめていた。
「遠睿統合設計」と名付けられたこの独立事務所は、闕恆遠の連日にわたる現場での指揮と奔走の甲斐あって、洗練されたモダンな輪郭をすでに覗かせつつあった。
開放的なオフィスエリアには温もりのあるライトグレーのシームレスフロアが敷き詰められ、窓際に伸びるロングカウンターテーブルにはたっぷりと自然光が差し込んでいる。
部屋の隅に配された大きなフィカス・ウンベラータやモンステラの鉢植えが、控えめながらも研ぎ澄まされた美意識を物語っていた。
午前十時ちょうど、闕恆遠は体に馴染む濃紺のカジュアルジャケットに清潔感のある白の無地Tシャツを合わせ、会議室の無垢材ロングテーブルの端に真摯な面持ちで腰を下ろしていた。
木目のテーブルの上には、印刷されたばかりの三通の応募者履歴書が整然と並び、その傍らではブラックコーヒーの湯気が静かに立ち上っている。
隣に座る江睿宇はマグカップを傾けて一口含むと、手元の資料をめくりながら笑みを浮かべた。
「恆遠、」
「お前が今回出したシニアプロジェクトアシスタント兼総務統括のポストだが」
「業界水準から見てもかなり待遇がいい」
「求人システムを公開した途端」
「あっという間に何十通も応募が集まったよ」
「俺の方で事前に書類選考をしておいたが」
「今日面接の一人目に来る人は」
「経歴が飛び抜けて華やかだ」
「以前は多国籍ラグジュアリーグループや大手外資系でオペレーションを統括していたらしい」
「ただ、少し前にプライベートの事情で退職して」
「ほんのわずかなブランクがあるようだがな」
闕恆遠は静かに頷き、手元の履歴書に記された氏名へと視線を落とした。
――伊凝婉。
写真に写る女性は、艶やかな漆黒の緩やかなウェーブヘアをたたえ、目鼻立ちは繊細にして華やかだった。
その眉間には、幾重もの世の荒波をくぐり抜けてきた者にしか宿らない、冷涼なまでの静謐さが漂っていた。
「プロとしての能力が確かで、芯が据わっていれば」
「わずかな履歴のブランクなど問題ではない」
闕恆遠はファイルを閉じると、冷静かつ厳格な表情を崩さなかった。
この事務所は、彼がかつての組織の束縛を断ち切った場所であり、何よりも舒玟妤により確かな未来を約束するために、全精力を注ぎ込んで立ち上げた再起の足がかりだった。
だからこそ、初期メンバーの選考においては、極限までの厳格さと慎重さを自らに課していたのだ。
コン、コン。
半開きになった会議室のガラス扉から、礼儀正しくリズミカルなノックの音が二度響いた。
「どうぞ」
闕恆遠は顔を上げ、声をかけた。
扉が静かに押し開かれ、すらりとした細身の女性が一歩足を踏み入れてきた。
伊凝婉は仕立てのいいキャメルのロングコートに、オフホワイトのシルクブラウスと黒のワイドパンツを合わせ、肩にはブランドロゴのない控えめな上質レザーのトートバッグを提げていた。
その面落ちは履歴書の写真と違わぬ美しさであり、むしろ華美な装飾を削ぎ落としたからこその落ち着きと気品が満ちていた。
ただ、その眼差しの奥底には、かすかな疎外感と警戒の光が時折よぎる。
会議テーブルにつく二人の面接官の姿を捉えると、伊凝婉は丁寧に一礼し、澄んだ穏やかな声で口を開いた。
「はじめまして」
「本日面接に伺いました、伊凝婉と申します」
「伊さん、」
「どうぞお座りください」
江睿宇が柔らかな笑みを浮かべて促した。
伊凝婉は無垢材のチェアを引いて優雅に腰を下ろすと、両手を自然に膝の上で重ね、背筋をすっとまっすぐに伸ばした。
闕恆遠は彼女へと視線を向け、穏やかながらも率直な口調で切り出した。
「伊さん、」
「履歴書を拝見しました」
「ラグジュアリーブランドのサプライチェーン統合や、クロスボーダーの商務契約の管理において、極めて確かな実績をお持ちですね」
「あなたの条件であれば」
「大手外資系グループで引き続き要職を務めることも容易なはずです」
「まずお伺いしたいのですが」
「何が決め手となって、立ち上げたばかりで」
「何から何まで自らの手でこなさなければならない、我々のような独立設計事務所を選んでくださったのでしょうか?」
その鋭くも本質を突いた問いを前にしても、伊凝婉の表情には微塵の動揺も浮かばなかった。
唇の端にかすかな気品ある笑みを浮かべ、闕恆遠の値踏みするような視線を静かに、そして堂々と受け止めた。
「闕総監、」
「包み隠さず申し上げますと、」
「ここ数年は家庭に重きを置き、」
「前夫の資産管理やビジネスの折衝を陰ながら支えてまいりました」
「一、二ヶ月ほど前に」
「ようやく離婚の手続きが滞りなく完了し、」
「過去の一切にきっぱりと区切りをつけ、」
「家を出て一から再起を図ることにしたのです」
「この空白期間があったからこそ、自分が本当に求めるものが明確になりました」
「今の私には、時間も気力も」
「百パーセント自らのキャリアに注ぎ込める環境が整っております」
「大企業の煩雑な階層構造や、部署間の足の引っ張り合いによる効率の低下には辟易しておりました」
「私はそれよりも、フラットな組織が持つ機動性と実行力を高く評価しておりますし」
「何より作品のクオリティに純粋に打ち込める環境で、自らを深めていきたいと考えております」
「立ち上げ初期の事務所は、制度やオペレーションの面で手探りな部分が多いかと存じます」
「私が最も得意とするのは、総務・労務、契約書のリスクマネジメント、そして請求フローを一から構築し、仕組み化することです」
「私にお任せいただければ、」
「闕総監と江総監は、デザインの図面引きと施工現場の監理だけに専念していただけます」
「バックオフィスの一切は、」
「私が責任を持って、非の打ち所がないほど整然と管理し切ってみせます」
闕恆遠は静かに耳を傾けていた。
その深い漆黒の瞳の奥に、微かな揺らぎがよぎる。
目の前の女性には、余計な恨み言や自己憐憫の気配が微塵もなかった。
語られる言葉の端々には、確固たる実績と実力に裏打ちされた凛とした余裕が漂っている。
感情の破綻という手痛い打撃を経ながらも、彼女が選んだのは過去を鮮やかに断ち切り、プロフェッショナルとしての誇りを胸に再び自立して歩み出す道だった。
自らもまた婚姻の暗雲の中に身を置く闕恆遠の心の深奥に、彼女が示すその静謐さと節度ある境界線に対する、無言の共鳴と敬意が芽生えていた。
その後、闕恆遠と江睿宇は、いくつかの大型開発案件における契約条項や出来高請求のフローについて専門的な質問を投げかけた。
伊凝婉は淀みなく受け答えを返すばかりか、現在の建築設計業界の下請け契約において最も陥りやすい法務上の落とし穴を幾点か自ら指摘してみせ、驚くべきビジネスの嗅覚と高度な専門性をまざまざと見せつけた。
三十分の面接が終わり、伊凝婉は立ち上がって礼儀正しく謝意を述べると、静かに会議室を後にした。
扉が閉まるや否や、江睿宇は闕恆遠の方へ身を乗り出し、その瞳に満足の光を溢れさせた。
「どうだ?」
「俺の言った通り、並外れた実力派だろう!」
「あんな優秀な人材がバックオフィスと契約を仕切ってくれれば」
「お前は図面を引いて現場を飛び回るだけでいい」
「後ろを振り返る心配なんて一切なくなるぞ」
闕恆遠は手元の万年筆を指先でゆっくりと回し、しばし思案した後に小さく頷いた。
「プロとしての能力は非の打ち所がない」
「人間性も非常に落ち着いている」
「彼女に決めよう」
闕恆遠は視線を落とし、伊凝婉の履歴書の右上に採用の承認サインを書き入れた。
知的で洗練された語り口と、淀みのない立ち居振る舞いを見せたあの女性の残像を反芻しながら、闕恆遠の胸中には久しく忘れていた確固たる手応えが満ちていた。
家庭に潜む冷たい暗雲と、起業という巨大な重圧を一身に背負い込むこの渦中において。
これほどまでに冷静沈着で頼もしく、ゼロからの出発に肩を並べて立ち向かってくれるパートナーに巡り合えたことは、間違いなく「遠睿統合設計」の未来に力強い活力を注ぎ込むものであった。
二人はまだ知る由もなかった。
この仕上がったばかりの無垢なオフィスが、やがてそれぞれの人生と運命を根本から塗り替えていく、新たな舞台の起点となることなど。




