第1章:5. 錯くぐった優しさと音なき亀裂(3)
日曜日の夕暮れ時、台北の街路にはぽつぽつと薄黄色の街灯が灯り始めていた。
闕恆遠は車を走らせ、内湖へと戻ってきた。
マンションの階下にある高級フルーツ店を通りかかった際、彼はわざわざ車を止め、店へと足を踏み入れた。
そして舒玟妤が普段から何よりも好んでいた日本直輸入の白桃と、大粒の種無しシャインマスカットをひと箱、丹念に見繕った。
我が家の玄関をくぐると、リビングには柔らかな暖色系のシーリングライトが灯り、テレビには無音のまま旅番組が流れていた。
舒玟妤はソファに腰掛け、部屋着のグレーのスウェットパンツ姿で手元にファッション雑誌を広げていたが、その様子はどう見ても心ここにあらずだった。
闕恆遠がずっしりと重みのある果物の紙袋を提げて入ってくるのを目に留めると、舒玟妤は慌てて腰を浮かせた。
「恆遠、」
「おかえりなさい」
闕恆遠は果物をキッチンの調理台へと置き、脱いだ上着を玄関のフックに掛けると、振り返って穏やかな笑みを向けた。
「下を通ったら白桃がすごく新鮮でね」
「前にお前が食べたいと言っていたのを思い出して」
「ひと箱買ってきたんだ」
「俺が洗うよ」
「お前は座ってテレビでも見ていなさい」
そう言いながら、闕恆遠はシャツの袖をまくり上げ、そのままキッチンへと向かって蛇口をひねった。
葡萄と白桃を丹念に洗い清め、上品な白磁のプレートを取り出すと、美しく切り分けた白桃を整然と並べていく。
そして、リビングのローテーブルへと丁寧に運んできた。
「少し食べるといい」
「とても甘いよ」
闕恆遠はソファのもう一方の端に静かに腰を下ろした。
その口調は穏やかで自然そのものであり、玥映嵐から授かった助言に従って、最大限の包容力でこのところの二人の間の溝を埋めようと努めていた。
舒玟妤は、ローテーブルの上に美しく切り分けられた白桃を呆然と見つめた。
そして顔を上げ、微かな疲労の色を滲ませながらも、温もりある微笑みを湛えている闕恆遠の顔立ちを凝視した。
彼女の胸の奥が、目に見えぬ巨大な掌で力任せに鷲掴みにされたかのように軋み、息が詰まるほどの激痛が走る。
彼は朝から晩まで外で奔走し、へとへとに疲れて帰ってきたというのに、彼女に対して不機嫌な顔一つ見せなかった。
それどころか、彼女が何を好んで食べるのかを細やかに記憶し、自らの手で丁寧に洗い、皮を剥いて切り分け、目の前まで運んでくれたのだ。
――それなのに、自分はどうだというのか。
自分は連昊成の支配する掌の上で働き、連昊成から贈られたあの万年筆を引き出しに隠し持ち、毎日のように職場でかつての男と向かい合っている。
そして家に帰れば、自分を信じ切っている夫に対して、冷え切った沈黙と欺瞞を塗り重ねているのだ。
押し寄せる猛烈な罪悪感が、怒濤の潮水となって舒玟妤の理性を容赦なく呑み込んでいった。
この一瞬、彼女は何もかもをかなぐり捨てて闕恆遠の足元に崩れ落ち、泣きじゃくりながら連昊成に関するすべてを白状してしまいたい衝動に駆られていた。
「恆遠……」
舒玟妤の唇が小刻みに震え、その目元は瞬く間に赤く滲んだ。
こぼれ出た声には、どうしても抑えきれない嗚咽が混じっていた。
闕恆遠はわずかに眉根を寄せ、いぶかしげに、けれど深い気遣いを込めて彼女を見つめた。
「どうしたんだ?」
「どこか体の具合でも悪いのか?」
舒玟妤は闕恆遠のあの澄み切った、信じきったような無防備な双眸を見つめた。
喉元まで出かかっていた告白の言葉が、その眼差しに触れた刹那、底知れぬ恐怖によって凍りついたかのようにぴたりと止まった。
もしすべてを打ち明けてしまったら、闕恆遠は自分をどう見るだろうか。
偶然この外資系企業に応募して採用されただけだという言葉を、果たして彼は信じてくれるだろうか。
連昊成がただの仕事仲間として割り切って接しているだけだと、信じてくれるだろうか。
――いや、違う。
闕恆遠のような誇り高く、潔癖な男が真相を知ってしまえば。
ようやく修復の兆しが見え始めたこの結婚生活は、今夜この場で、取り返しのつかない破滅へと転がり落ちていくに決まっている。
恐怖と臆病さが、最期の良心に打ち勝ってしまった。
舒玟妤は目元に溢れかけた涙を無理やり押し戻し、膝の上に置いた両手でルームウェアの生地をぐしゃりと力任せに握りしめた。
そして深くうつむき、歯の隙間からあまりにも白々しい言葉を絞り出した。
「……ううん、なんでもないの」
「ただ……」
「果物、買ってきてくれてありがとうって」
闕恆遠は何かを言いかけて呑み込んだ彼女の様子を見つめ、その瞳の奥に微かな戸惑いをよぎらせた。
けれどそれ以上詮索することはせず、伸ばした右手でそっと彼女の肩を撫でた。
「馬鹿だな、」
「自分の夫相手に何を遠慮しているんだ」
「ほら、早く食べなさい」
舒玟妤は一切れの白桃をつまみ上げ、口の中へと運んだ。
本来であれば瑞々しく甘美なはずの果肉が、今の彼女の舌の上では、呑み込むことすら苦痛なほど苦々しく感じられた。
リビングのテレビ画面は絶え間なく明滅を繰り返している。
二人はソファの上に並んで腰を下ろし、その間隔は半メートルにも満たなかった。
しかし、欺瞞と怯懦、そしてすれ違い続ける優しさによって穿たれた目に見えぬ亀裂は、この穏やかに見える灯りの下で、誰にも気づかれぬまま底知れぬ万丈の深淵へと静かに口を開きつつあった。




