第1章:5. 錯くぐった優しさと音なき亀裂(1)
内湖のマンション、主寝室に隣接するバスルームでは、蛇口から冷たい水が勢いよく流れ落ちていた。
舒玟妤は冷え切った白い大理石の洗面台に両手を突っ張り、鏡の中に映る、目元を真っ赤に腫らして血の気を失った己の顔を見つめていた。
彼女は力任せに冷水をすくい上げ、幾度も顔へと浴びせかけた。
胸の奥底で渦巻き、自らを八つ裂きにせんばかりの激しい窒息感を、冷気で強引に鎮めようともがく。
扉の外からは、詰問する声も、苛立ちに任せてドアを叩く音も、一切聞こえてこなかった。
だが、まさにその異常なまでの静寂こそが、舒玟妤にこれまで味わったことのないほどの動揺と恐怖を叩きつけていた。
彼女は数枚のティッシュを抜き取って顔の水滴を拭い去ると、何度も深く息を吸い込んだ。
震える指先でドアの鍵を回し、腹を括って恐る恐る外へと足を踏み出す。
リビングの大理石テーブルの傍らから、闕恆遠は立ち去ってはいなかった。
彼はただそこに、静かに腰を下ろしていた。
舒玟妤が姿を現したのを見ても、彼は先ほどの突然の取り乱しようを問い質すことも、なぜ自らの手を拒絶するように避けたのかを追及することもなかった。
ただボックスから柔らかいティッシュを一枚引き抜き、舒玟妤へと差し出した。
その双眸には、静謐とすら呼べるほどの包容の光が湛えられていた。
「もし体の具合が悪いなら」
「今日は会社を休んで、家で身体を休めるといい」
「新しい仕事がどれほど大切だろうと」
「今日一日休んだところで、どうにかなるものでもない」
闕恆遠の声音は低く抑えられ、その口調は波一つ立たない湖面のように穏やかだった。
舒玟妤は目の前に差し出されたティッシュを見つめ、次いでテーブルの上で微かな湯気を立てるホットミルクへと視線を落とした。
目頭が痛いほどに熱く軋む。
彼女はティッシュを受け取ると、闕恆遠のあの深く静まり返った双眸から逃げるようにうつむき、蚊の鳴くようなか細い声で答えた。
「……ううん、大丈夫」
「今日、部署の週締めミーティングがあるから」
「平気よ」
「ただ起きたばかりで」
「少し目眩がしただけ」
彼女は椅子を引き、ぎこちない動作で腰を下ろした。
ほどよく焼き色のついたトーストを手に取り二口ほどかじったものの、喉の奥はまるで砂利でも詰め込まれたかのように渇ききっていた。
闕恆遠はそれ以上何も追及することなく、ただ黙って温かいミルクを彼女の手元へとそっと押し進めた。
そして立ち上がると、ビジネスバッグを取りに書斎へと戻っていった。
闕恆遠の、どこか疲労の滲む凛とした背中を見つめながら、舒玟妤の涙はあやうくミルクのグラスへと零れ落ちそうになっていた。
真相を何も知らぬがゆえの、この気遣いと温もり。
今の彼女にとって、それはどんな刃のような罵詈雑言や冷酷な指弾よりも、何千倍、何万倍も残酷な拷問だった。
彼女はグラスの半分ほどまで無理やりミルクを流し込むと、慌てふためいた様子でハンドバッグを掴み取り、文字通り逃げ出すようにして我が家の玄関を飛び出した。
午前八時五十分、信義計画区の高級オフィスビルの中には涼やかな冷気が行き渡り、仕立てのよいスーツに身を包んだビジネスパーソンたちが吸い込まれるようにエレベーターへと乗り込んでいた。
舒玟妤は社員証をかざして二十八階のオフィスフロアへと足を踏み入れたが、その足取りはどこか上の空だった。
自分のデスクへと辿り着くと、引き出しを開け、ハンドバッグの中からあの高級万年筆が収められたチャコールグレーの細長い小箱を取り出した。
ギフトボックスにかけられた濃紺のリボンが、オフィスの冷たい白色蛍光灯の下で鈍い光を放っている。
それはまるで、肌に焼き付けられた消えない烙印のようだった。
舒玟妤は下唇を痛いほどに噛み締めると、その小箱を引き出しの最深部にある仕切りの奥へと素早く押し込んだ。
そして勢いよく引き出しを閉ざす。
視界から消し去りさえすれば、嘘と隠し事によって引き起こされたこの狂おしい恐怖も、一時的に封印できるかのように。
「おはよう、」
「玟妤」
すぐ隣から、千慕羽の澄んだ凛とした声が降ってきた。
千慕羽は仕立てのいいオフホワイトのシャツを身にまとい、長い黒髪をいつも通り後ろですっきりと束ねていた。
その手には、印刷されたばかりの市場調査レポートが二部握られている。
「おはよう、」
「慕羽」
舒玟妤は慌てて顔の強張りをほぐし、引きつるような笑みをなんとか浮かべてみせた。
千慕羽は椅子を引いて腰を下ろすと、そのうちの一部のレポートを舒玟妤へと差し出した。
その口調はいつもと変わらず、礼儀正しくも研ぎ澄まされた集中力に満ちている。
「これ、先週のオンラインプロモーションのコンバージョン率データよ」
「昨日の退勤前に」
「数値が異常に乱れている箇所をいくつかマークしておいたわ」
「このあとの十時の会議で」
「連総監からブランド露出の具体的な費用対効果について突っ込まれるかもしれないから」
「目を通しておくといいわ」
千慕羽の態度はどこまでも公明正大であり、自らの手元にある業務のみに神経を注いでいた。
舒玟妤が先ほどこそこそと何かを隠そうとしていた小さな不審な仕草に対しても、詮索するような好奇の視線を向けることは一切なかった。
千慕羽の目において、職場とは専門性とデータのみによって語られるべき戦場だった。
他人のゴシップを嗅ぎ回る趣味など持ち合わせていないし、無為な疑心暗鬼に貴重な時間を浪費するつもりも毛頭なかったのだ。
「分かった」
「ありがとう」
「今すぐ目を通すわ」
舒玟妤はレポートを受け取り、胸の内でそっと安堵の息を吐き出した。
十時ちょうど、連昊成が時間通りに会議室の扉を押し開けて入ってきた。
濃紺のスーツジャケットを身に纏い、鼻梁にかけられた金縁の眼鏡が、極めて知的なエグゼクティブとしての威厳を際立たせている。
一時間に及ぶプロジェクト検討会の中で、連昊成は筋道立てて的確に各項目の盲点を指摘していった。
千慕羽が提示したデータに対しては客観的な評価を与え、舒玟妤の担当するブランドコピーに話題が移った際にも、純粋に直属の上司としての視点から的を射た修正指示を数点出すに留めた。
会議が終了すると、連昊成は書類を閉じ、一同を見渡して薄く微笑んだ。
「この二週間、みんな本当によくやってくれた」
「プロジェクトの進捗は極めて順調だ」
「週末はそれぞれゆっくり身体を休めてくれ」
そう言い残すと、彼は長い脚を前に進めて会議室を後にした。
その視線は、舒玟妤の姿にコンマ数秒すら余計に留まることはなかった。
連昊成がこれほどまでに節度を保ち、品格を備え、公私のけじめを完璧につけてみせればみせるほど、舒玟妤の胸の内にあった彼への警戒心は、形もなく霧散していった。
廊下の向こうへと去っていく連昊成の後ろ姿を見つめながら、彼女は心の中で幾度も幾度も己に言い聞かせていた。
『連昊成は、本当に過去を吹っ切ったんだわ』
『彼は今、ただの優秀な上司に過ぎないのよ』
自分さえ分をわきまえ、一線を越えなければ。
この会社に彼が存在しているという事実を、闕恆遠が生涯知ることさえなければ。
あの壊れかけた家庭も、少しずつ元の穏やかな軌道へと戻っていくことができるはずなのだ。




