№32. 森の案内人
世界樹の森。そこの澄んだ空気は外まで溢れており、鼻を優しく撫でるように甘い香りが流れ出ていた。人工的なものではなく、果実の蜜のような、そんな優しい香りだ。
「いやぁ、近づいてみるとまた壮観ですね。アルさんも初めてなんでしたっけ?」
「あぁ、話にはよく聞いていたがな。実際に来るのは初めてだ」
「俺様も初めてだぜ」
「お前には聞いてねぇ」
見上げた先にあるのが世界樹、ユグドラシルだ。数百メートル……いや、千メートルをも超えた山のような一本の木。アレこそがエルフの国らしい。もはやあの大きさでは大地と何ら変わらない。そこ大きな枝の上に一つ一つ集落を作り、大きな国になってるのだとか。
「じゃあ行きましょうか。少し足元が不安定だけど……ナナ、平気?」
「はい、お構いなく。足腰は鍛えておりますので」
一つ、踏み入ると空気が変わった。空気が軽いんだ。森全体が、川のほとりのような、そんな雰囲気を帯びている。澱みがないのかな。世界樹が浄化してるのだろうか。と、そんなとき。激しい殺気が肩を狙った。
「うォッ!」
「っ……! 誰だ!」
「平気か、メルナ!」
風を斬り裂くように飛んできた矢。それを聖剣で弾いた。速かった。なんとか防ぐことはできた……が、これはボクを狙ったものじゃないな。もちろんアルさんでも、ナナでもない。コイツを連れてきたのは間違いだったかな。
「アルナリュート・バラムランデとメルナ・アマテラス、そしてその従者とお見受けする。問おう。なぜ悪魔を連れている」
木々の奥から聞こえた声は、風に乗って響く。現れたのは軽装のエルフだ。金髪に尖り耳の、めっちゃ可愛いエルフだ。やはりボク達には殺意を向けていないが、その矢の向く先は確かにボクの肩、ゼル。となれば——
「あぁ、えーと……ボクがメルナ。コイツは確かに悪魔だけど、人に危害を加えることはない。絶対に。それでも殺したいなら構わないけど、ボク達は許してくれ」
「うォい! 俺様を売るんじャねェ!」
「……なるほど、契約済みであったか。ならば良い。すまなかったな、謝罪する」
「いや、こっちこそこんなバカを連れて来たのが間違いだった。悪かった。契約があるからと城に置いてくるのは心配でね。セクハラでもするんじゃねぇかと」
耳元でこの黒猫は騒がしいが、一旦それは無視するとしよう。人類が悪魔と対立しているのは当然のこと、アルさんやナナに攻撃しなかった以上、ボクもどうこうするつもりもない。何より、彼女は案内役だろうから。
「三方、失礼したな。私はトリュネル・トルネーム、見ての通りここのエルフだ。ルヴァルク・アランレーム、あやつに会いに来たと伺っている。間違いないか?」
「あぁ。案内はメルナだけだったが、一人で行かせるのも不安なのでな。私とナナも着いてきたんだ。問題はないな?」
「もちろん。では向かおうか。兄が待っている」
兄……ということはルヴァルクとやらの妹、ということか? これはまた、身近な人に案内をさせるな。そんなことを考えながら、ボク達はトリュネルの後ろを歩いていた。
「そうだ。話しておかなければならないこともあったな。ええと……我々エルフは縦社会には疎くてな。多少の無礼は許してもらいたい。敬意がないというわけではないんだ」
「構わないさ。私もメルナも、そんなことを気にするような人間ではない。ただ縦社会に疎いとは意外だな。この国にも王はいるだろう?」
「いるにはいるのだがな、ハイエルフという種族なのだが……あの方は偉いのではなく種として偉大なのだ。序列を作る種族には分かりづらいかもしれないが、私達にとっては王とは親のようなものなのだよ」
ハイエルフ、か。やっぱり普通のエルフよりもさらに耳が長かったりするのかな。改めてファンタジーだよな。森を歩いてるつもりが、いつの間にか世界樹を登り始めてるし、このスケール感ときたら……。
「あの、失礼だったら申し訳ないんだけど。エルフってやっぱり長命なの?」
「まぁ……そうだな。人間が短いだけだと思うが。私は今、二六〇歳だ。兄は三〇〇、平均の寿命が一五〇〇歳ほどだから、まだまだ若者だな。ちなみに王、ハイエルフはその十倍程度と思ってくれ」
「十倍程度て……。種としてそんなに違うのか」
「それなりにな。明確に違うのは魔力だ。エルフも人間も、本来魔力は複数の属性が絡まっているだろう? ハイエルフはそうではなく、単一の属性がただ一本備えられているんだ」
それにどんな意味があるのか、ボクには詳しくは分からないが。それでも多少のことは分かる。つまりハイエルフの持つ魔力は底抜けて純粋なんだ。混じり気のない綺麗な魔力。それを生まれ持った種というわけか。
「……ん?」
巨木を登っている最中のことだ。何かが足元で蠢いた。ような気がした。生物ではない。いや、まさかとは思ったが……。可能性はあった。それでも、エルフの管理下なんだ。ないだろうと思っていた。
「ひぁっ! ト、ととト、トレントじゃん……っ!」
「あぁ。すまない、言い忘れていた。トレントは森の土を回してくれるからね、飼っているんだよ。安心しろ、契約をしてるから襲われることはない」
「いやぁああっ!!」
「わっ……と。はいはい、大丈夫だよ」
咄嗟に、ボクはアルさんに抱きついていた。それにビビったゼルはボクの肩からナナの方へと飛び移ったが、それはどうでもいい。こんなドラ猫のことなんて。
アルさんの子守唄のような、そんな柔らかく温かい声。それも関係なく視界が濡れて、けれどその視界を遮るようにボクの小柄な身体は抱き上げられていた。そして世界樹を登りきるまでずっとだ。ボクが彼女の腕の中で丸まっていたのは。
「さぁ、到着だ。ここがエルフの国、トラムレンだ」
「ほう……壮観だな。ほら、メルナ。見てみろ」
「メルナ様、もうトレントはいませんよー」
その声に、アルさんにしがみつきながらフイと顔を横に向いた。大地……いや、大きな大きな、それは大きな木の枝に、木や葉、蔦で作られた家が立ち並んでいる。照明も全て光る木の実だ。それが何層にも重なって、幾つもの街が縦に並んでいる。これが樹の上の、エルフの国。誰が言うまでもなく、まさにファンタジーの世界だった。




