第8章:ドイエーの乱、共闘編
第8章:ドイエーの乱、共闘編
アーチェリーの練習を終え、夢の島公園から大島へと向かう都営バスの中で、私の体は悲鳴を上げていた。
けれど、それは決して不快な痛みではない。
普段のデスクワークでは眠っている背中の深層筋肉が、「自分はここにいるぞ」と熱く主張している感覚。そして、慎治に「締めろ」と命じられ続けた大臀筋が、かつてないほどのパンプアップを起こしている。
バスを降りようとしたとき、スカートが締め付けて足運びを制限する。
「……歩きにくい」
私は思わず漏らした。
隣を歩く瀬戸慎治は、スポーツバッグを肩にかけ、相変わらずの「モデルかよ」と突っ込みたくなるような姿勢で夜道を闊歩していた。
「……斉藤さん、さっきから歩幅が狭いぞ。股関節の可動域を狭めるような歩き方は、骨盤の歪みを招く。もっとダイナミックに脚を運べ」
「……うるさいわね。誰のせいでこんなにパツパツになってると思ってるのよ。貴方の『大臀筋ハラスメント』のせいでしょうが」
「ハラスメントではない。事実に基づいた最適な指導だ。……それより、もうすぐドイエーだ」
視線の先には、大島住民の心の拠り所、ドイエー大島店の看板が夜空に輝いていた。
昨日までは「獲物(鶏胸肉)」を奪い合う戦場だったこの場所が、今日はなぜか、戦友と共に帰還する基地のように見えるから不思議だ。
*
自動ドアをくぐると、冷気が火照った体を心地よく冷やしてくれる。
私たちは吸い寄せられるように、地下一階の精肉コーナーへと向かった。
夜のスーパーで並んで歩くハイスペ商社マンと役所職員。
端から見れば「買い物帰りのカップル」に見えなくもないかもしれないが、私たちの会話にそんな甘い気配は微塵もない。
「……よし。今日はまだ残っているな」
慎治が足を止めたのは、やはりあの「国産鶏胸肉」の前だった。
先週、私と醜い争奪戦を繰り広げた、あのピンク色の塊だ。
「……斉藤さん。昨日の残りはもう食べたのか?」
「食べたわよ。貴方の言った通り、炊飯器の保温モードで2時間。……悔しいけど、今までのパサパサした私の人生は何だったのかって思うくらい、しっとりしてたわよ」
「そうか。アミノ酸のポテンシャルを引き出すのは、暴力的な火力ではなく、慈しむような定温管理だ。……今日は、この右から二番目のパックがいい」
慎治が、まるで宝石鑑定士のような手つきで一つのパックを指し示した。
「……え、どれも同じじゃないの?」
「素人だな。見ろ、この肉の盛り上がり。表面の瑞々しさ。ドリップが全く出ていない。これは解凍のタイミングが完璧だった証拠だ。……これを二つ買おう。一つは君の分、もう一つは俺の分だ」
「……半分こじゃないの?」
「今日は俺も追い込んだ。600グラムでは足りない。……君もだ。アーチェリーで酷使した筋肉を修復するには、十分なたんぱく質が必要だ。……ケチるな、斉藤さん。筋肉は投資だ」
「投資……。公務員にそんな予算はないわよ」
文句を言いながらも、私は彼が選んだ「最高の一品」をカゴに入れた。
昨日とは違う。
今日は奪い合いではなく、確かな「信頼」に基づいた共同調達だ。
私たちはそのまま、野菜コーナーへと移動した。
「……次はブロッコリーだ」
慎治が、緑色の森のような陳列棚の前で立ち止まる。
「ブロッコリーなんて、茹でればいいだけでしょ? 冷凍のやつでもいいし」
「冷凍? 論外だ」
慎治は、棚の中からひときわ蕾が詰まった、濃い緑色のブロッコリーを掴み取った。
「冷凍は加工の過程でビタミンが流出している可能性がある。……斉藤さん、いいか。ブロッコリーは最強の野菜だ。テストステロンの分泌を助け、抗酸化作用もある。だが、茹でる時間は1分45秒。それを1秒でも過ぎれば、栄養素はすべて湯の中に逃げ出すと思え」
「1分45秒……。カップラーメンより短いのね」
「蒸すのがベストだが、時間がないなら電子レンジでもいい。だが、加熱しすぎは罪だ。……君の大臀筋をさらに高みへ引き上げたいなら、この『緑のダイヤモンド』を正しく扱うことだ」
「緑のダイヤモンド……」
もう、この男が何を言っても驚かない。
けれど、彼が語る栄養学は、すべてにおいて「効率的」で「合理的」だった。
窓口で「スペック、スペック」と連呼していたあの傲慢さは、自分自身の肉体に対する、この異常なまでの誠実さの裏返しだったのだと、ようやく理解し始めていた。
「……瀬戸さんって、本当に……変態ね」
「……最高の褒め言葉として受け取っておこう。……レジへ行くぞ」
*
レジを済ませ、私たちはドイエーの出口を出た。
夜風が、練習で疲れた筋肉を優しく撫でる。
慎治は自分のカゴから袋詰めした荷物を持ち、ふと隣の建物を見上げた。
ドイエーのすぐ隣。
煌々と明かりが灯る、ガラス張りの施設。
『シルバーマンジム(大島)』。
「……俺はこれから、あそこで一汗流して帰る」
「えっ? 今から? アーチェリーであんなに練習したのに?」
「アーチェリーは『技術』と『精神』だ。……筋肥大のための刺激とは別物だ。今日は、背中と二頭筋の日なんだ。……斉藤さん。君も、どうだ?」
「……え?」
慎治は、ジムの入り口を指差した。
「君の自重トレーニングも悪くないが、マシンの負荷による『非日常的ストレス』を知れば、君の11号スカートは、いよいよ物理的に終わりを迎えるだろう。……だが、その先にある景色は、今の君には想像もできないほど美しいぞ」
「……物理的に終わりって、不吉な予言しないでよ」
私は、自分のスカートの安全ピンを、こっそり指で押さえた。
確かに、自重トレーニングだけでは限界があることは分かっていた。
けれど、この男と同じ空間で、鉄の塊を上げ下げする……。
それは、私の「公務員」としての平穏な生活を、根底から破壊してしまうような気がして。
「……遠慮しとくわ。私は、家で静かに低温調理する方が性に合ってるの」
「そうか。……まあ、いい。君の『大臀筋』が、もっと大きな負荷を欲しがった時に来ればいい。……俺はいつでもあそこにいる」
慎治は、フッと不敵な笑みを浮かべた。
その瞳は、窓口で見た「顧客」のそれではなく、完全に「同じ道を志す者」としての熱を帯びていた。
「……おやすみ、斉藤さん。明日の窓口では、しっかりたんぱく質を摂取した顔を見せてくれ」
彼はそう言い残すと、颯爽とジムの入り口へと消えていった。
自動ドアが開くたびに漏れ聞こえてくる、ハードコアなロックの重低音と、鉄がぶつかり合う音。
その中に吸い込まれていく彼の背中を見送りながら、私は自分のバッグの中の、1.2キロの鶏胸肉とブロッコリーを見つめた。
「……1分45秒ね」
私は、一人で歩き出した。
大島の商店街を抜けて、自宅へ向かう道。
心拍数は、もうとっくに落ち着いているはずなのに、胸の奥がじんわりと熱い。
これは恋じゃない。
断じて、恋なんかじゃない。
私はただ、江東区の公務員として、一人の「特殊すぎる」顧客の生態を調査しているだけだ。
……そう、自分に言い聞かせる。
けれど、私の指はスマホを操作し、ドイエーのポイントカード……ではなく、『シルバーマンジム・入会キャンペーン』のページを開き始めていた。
「……あいつのせいよ。全部、瀬戸慎治のせいなんだから」
秋の夜空、月が大臀筋のように……いえ、美しく輝いていた。
私の11号スカートの限界は、もう、すぐそこまで迫っていた。




