第7章:引いて、締めて、大臀筋!
第7章:引いて、締めて、大臀筋!
「……肩の力を抜けと言っている。腕で引くんじゃない、肩甲骨を寄せるんだ」
夜のBumBアーチェリー場。
照明に照らされたグリーンの上で、瀬戸慎治の低く、芯の通った声が私の鼓膜を震わせる。
窓口で見せる「慇懃無礼なエリート」の仮面はどこへやら、今の彼は、1ミリの妥協も許さない冷徹な『鬼教官』そのものだった。
「わかってます……っ。でも、この弓、想像以上に重いんです……!」
私は貸し出し用のリカーブボウを握りしめ、必死に弦を引き絞っていた。
初心者用とはいえ、弦の張力はかなりのものだ。
元陸上部で体幹には自信があったけれど、普段使わない背中の深層筋肉が「もう無理!」と悲鳴を上げている。
「重いと感じるのは、無駄な力が入っている証拠だ。斉藤さん、君の広背筋は飾りのつもりか?」
「飾りなわけないでしょ! 私の広背筋は、日々のプッシュアップで仕上げた本物よ!」
「ならそれを使え。……姿勢が崩れているぞ」
慎治が、音もなく私の背後に回り込んだ。
ふわりと、彼の体温が背中に伝わる。
石鹸の匂いと、微かなプロテインの香り。そして、彼自身のストイックな生き様が凝縮されたような、ひりつくような緊張感。
「……っ!」
彼の大きな手が、私の腰骨のあたりに添えられた。
トレーニングウェア越しでもわかる、硬く、熱い掌の感触。
そのまま、彼は私の骨盤の位置をグイと微調整する。
「腹圧をかけろ。反り腰になるな。アーチェリーの安定は、下半身で作るんだ。……特に君のその大臀筋。それを締めろ」
「だっ……大臀筋を締めろって、そんな指示、普通はしません!」
「俺の指導に『普通』を求めるな。効率を求めていると言ったはずだ。……いいか、斉藤さん。君のその発達したヒップラインは、ただ11号のスカートをパツパツにするためのものではないはずだ。的を射抜くための、最強の『土台』にしろ」
耳元で囁かれる、マニアックすぎる称賛。
普通の女性なら「セクハラ!」と叫んで逃げ出すところかもしれない。
けれど、同じ「肉体管理狂」として、私は彼の言葉の意味を痛いほど理解してしまった。
そうだ。
私の大臀筋は、誰に見せるためでもない。
私が私らしく、強く立ち続けるためのエンジンのようなものだ。
こいつを、ただの「スカートのサイズ問題」で悩ませるパーツにしておいてたまるものか。
「……わかったわよ。締めるわよ、締めてやろうじゃないの!」
私は大きく息を吸い込み、意識を一点に集中させた。
大臀筋をギュッと内側に収縮させ、骨盤をニュートラルに固定する。
地面から伝わる反力が、脚、腰、そして背中へと一本の線のように繋がった感覚。
「……ほう」
慎治の声に、わずかな驚きが混ざった。
「重心が落ちたな。……いいぞ、斉藤さん。その安定感。解剖学的に見て、実に誠実だ」
「誠実って何よ、もう……っ!」
「今だ。指を解け(リリース)」
彼の短い号令に合わせて、私は弦を放した。
パァン!
乾いた音が夜の射場に響き渡る。
放たれた矢は、夜風を切り裂き、吸い込まれるように的の中央――ゴールドのすぐ下へと突き刺さった。
「…………当たった」
私は弓を持ったまま、呆然と的を見つめた。
今までに感じたことのない、脳が痺れるようなカタルシス。
全身の血流が一気に加速し、指先がピリピリと熱い。
「……8点か。初心者の二射目にしては上出来だ」
慎治が私の隣に並び、満足げに腕を組んだ。
横目で見ると、彼の横顔はどこか誇らしげで、窓口での険しさが嘘のように和らいでいた。
「……瀬戸さん。アーチェリーって、こんなに……っ」
「……静かだろう?」
慎治は、遠くの的を見つめたまま言った。
「放つ瞬間、世界から音が消える。自分と、的と、この肉体の一致だけが真実になる。……君のように、日頃から自分を律して走っている人間なら、この感覚が理解できると思っていたよ」
「…………」
心臓が、ジョギングの後よりも激しく鼓動を打っている。
この男は、傲慢で、合理的で、筋肉のことしか考えていない変態だ。
……けれど、その根底にあるのは、何事にも妥協しない「純粋さ」だった。
「……認めます。アーチェリー、面白いわ。悔しいけど」
私は、弓を返しながら、わざと不機嫌そうに唇を尖らせた。
慎治は、フッと口角を上げた。
「……そうか。なら、来週もここに来い。君の『機能美』が、どこまでアーチェリーに対応できるか、俺が直々に管理してやる」
「管理って……私は貴方の所有物じゃないわよ! 私は江東区役所の……」
「わかっている。……だが、俺の担当相談員が、自分のポテンシャルを使いこなせていないのは合理的ではないからな」
彼はそれだけ言うと、颯爽と自分の練習レーンへと戻っていった。
その後ろ姿――広背筋の躍動を見送りながら、私は自分の下半身の違和感に気づいた。
*
「……あれ?」
練習を終え、更衣室に戻った私は、愕然とした。
今日一日仕事中穿いていた11号のスカート。
履こうと脚を通した瞬間、かつてないほどの抵抗感が私を襲ったのだ。
「うそ……嘘でしょ!? 一時間の練習で、さらにお尻が育ったの!?」
アーチェリーの捻転運動と、慎治に指導された「大臀筋の締め」。
それが、眠っていた私の筋肉をさらに覚醒させてしまったらしい。
鏡に映る私のシルエットは、明らかに以前よりも立体的で、たくましく……そして、11号の限界を完全に突破していた。
ギチッ……。
虚しく響く、布地の悲鳴。結局、ファスナーが半分も閉まらない……
「……あいつのせいよ。あの瀬戸慎治の、マニアックな指導のせいなんだから!」
私は、安全ピンを駆使してなんとかスカートを固定しながら、更衣室を出た。
玄関ホールには、着替えを終えた慎治が待っていた。
彼は私のぎこちない歩き方を見るなり、微かに眉を動かした。
「……斉藤さん。その歩き方、中殿筋が疲労しているのか? あるいは、スカートの張力が限界なのか?」
「……どっちもよ! 責任取ってよね、筋肉ダルマ!」
「いいだろう。責任の第一歩として、失われたたんぱく質を補給しに行くぞ。……ドイエーが閉まる前に」
慎治は当然のように私の隣を歩き出した。
江東区の夜、ドイエー大島店へと続く道。
11号のスカートを安全ピン一本で繋ぎ止めている私は、隣を歩くこの「最悪で最高の師匠」の横顔から、目が離せなくなっていた。
「……次は、鶏胸肉だけじゃなくて、ブロッコリーの茹で方も教えなさいよ」
「……ふん。いいだろう。ビタミンCの含有率を最大化する加熱時間を叩き込んでやる」
二人の会話は、相変わらずロマンチックの欠片もなかったけれど。
秋の夜風に揺れる私の心は、アーチェリーで放たれた矢のように、真っ直ぐに彼という「的」に向かって飛び始めていた。




