第6章:窓口の向こう側の「師匠」
第6章:窓口の向こう側の「師匠」
「……あ、美緒さん。またその『デッドリフト300キロに挑む直前』みたいな顔してますよ」
火曜日の午後。江東区役所・恋愛成就課(RAJ)の執務室で、隣の席の青山愛が、引き出しからプロテインバーを取り出しながらクスクスと笑った。
「失礼ね、青山さん。私は今、区民の幸せと江東区の未来について、深遠なる思索に耽っていただけよ」
「嘘おっしゃい。手元の『瀬戸慎治様』のファイル、指圧で穴が開きそうですよ?」
図星を突かれ、私は慌てて指の力を抜いた。
確かに、私の意識は午前中からずっと、この「合理的変態エリート」のデータに占領されていた。
昨夜、荒川の河川敷で一瞬だけすれ違った、あのロードバイクの男。
顔は見えなかった。けれど、闇を切り裂くような鋭い気配と、完璧なペダリングが生み出す機能的な美しさ……。
それが、窓口で傲慢に言い放つ瀬戸慎治の姿と、どうしても重なってしまう。
(……あの男を成婚させるには、まず『敵』を知る必要があるわ)
彼が心酔する「アーチェリー」という聖域に踏み込んでやる。
そして彼の言う「理想の個体」とやらが、いかに非現実的で、いかに江東区の婚活市場において絶滅危惧種であるかを証明して思い知らせてやる。
私は心の中で、自分に言い訳を並べた。
「青山さん。私、今日の定時後、ちょっと『実地調査』に行ってくるわ」
「実地調査? なんですか、それ。またドイエーの鶏胸肉の在庫確認ですか?」
「違うわよ。……アーチェリーよ」
「ええっ!? 美緒さん、まさか……あのお客様の趣味に染まっちゃうんですか?」
「染まるんじゃないわ、攻略するのよ! 相手の土俵に立って、その不条理さを暴いてやるの!」
私はぐっと拳を握った。
その拍子に、11号のスカートの縫い目が「ピチッ」と音を立てたが、今の私の決意は、縫い糸の張力をも凌駕していた。
*
午後6時30分。夢の島公園、BumB東京夢の島スポーツセンター。
週末のジョギングで訪れる時とは違い、夜の夢の島はどこかストイックな静寂に包まれていた。
私は更衣室で、お気に入りのトレーニングウェアに着替えた。
下半身は、筋肉の動きをサポートする高機能コンプレッションレギンス。
上半身は、肩甲骨の動きを妨げないレーサーバックのタンク。
鏡に映る自分の姿を確認する。
(……よし、大臀筋の張りは完璧ね。11号の制服より、こっちの方が私の正装だわ)
受付で「初心者体験講習」の申し込みを済ませ、私はアーチェリー場へと向かった。
夜の射場は、照明に照らし出された芝生の緑が目に鮮やかだ。
数人の経験者が、一定のリズムで矢を放っている。
「パァン!」
「パァン!」
乾いた音が響くたび、空気が震える。
「……初心者の方ですね? こちらへどうぞ」
案内の声に従って、私は練習用のレーンへと向かった。
そこには、貸し出し用の弓が数本立てかけられていた。
初めて間近で見る弓は、想像以上に大きく、そして複雑な構造をしていた。
「まずは基本のスタンスから説明します。……斉藤さん、ですね?」
聞き覚えのある、低く、重厚な、けれど今は驚くほど落ち着いた声。
私は、全身の筋肉が瞬間的に収縮するのを感じた。
ゆっくりと振り返る。
そこには、白いポロシャツに紺色のスラックス、左腕には黒いアームガードを装着した男が立っていた。
瀬戸慎治、窓口で見せる「攻撃的なエリート」の面影は影を潜め、今の彼は、ただただ静謐な「武道家」のオーラを纏っていた。
「……な、ぜ、貴方がここに」
私は、絞り出すような声で言った。
「なぜも何もない。ここは江東区アーチェリー協会の拠点だ。俺は今日、初心者指導の当番でここにいる」
瀬戸は、まるで事務報告でもするかのように淡々と言った。
そして、私の格好を上から下まで、一瞬だけ鋭い目線で走らせた。
「……驚いたな。窓口の『11号の番人』が、これほど本格的なトレーニングウェアを着こなしているとは」
「……っ。煽りに来たんなら、帰ります!」
「待て。俺は今、指導員としての職務を遂行している。私怨を挟むほど、俺の管理能力は低くない」
瀬戸は一歩前に踏み出した。
その瞬間、彼の体から漂う、石鹸とわずかなプロテイン……そして「鉄」のようなストイックな匂いが鼻をくすぐる。
「君がここに来た理由は推測できる。……俺の価値観を『理解』しようとしたんだろう? 行政の人間としては、殊勝な心がけだ」
「……自惚れないで。私はただ、ストレス解消に新しい刺激を求めただけよ」
「いいだろう。刺激なら、たっぷり与えてやる。……まずは弓を持て」
彼は、初心者用のリカーブボウを私に差し出した。
受け取ると、意外な重みが腕に伝わる。
「アーチェリーは、腕で引くスポーツではない。……背中で引くんだ。斉藤さん、君の広背筋は、役所のデスクワークで眠っているか、それともキックバックやヒップリフトのついでにしか使われていないのか……試させてもらうぞ」
「…………はあっ?ヒップリフト?そりゃやってるけど、それで広背筋使うってフォームが狂ってるってことよね?キックバックも二の腕のためにする運動よね?それで広背筋使うって、身体ねじってるってことよね?」
「ほお、トレーニングの知識はあるようだな。」
ちょっと腹が立ってきた。冷静を保て、私。
「スタンス。両足を肩幅に開き、的に対して垂直に立つ。……腰を反らせるな。腹圧をかけろ」
彼の大きな手が、私の腰骨のあたりに添えられた。
コンプレッションレギンス越しに伝わる、熱い手のひらの感触。
「……っ。触らないで!」
「指導だ。……いいか、君の最大の問題は、意識が常に『前』にあることだ。アーチェリーは『引き』の美学だ。大臀筋を締め、骨盤を安定させろ」
彼の声は、耳元で低く響く。
窓口での嫌味なトーンとは違う、真剣で、どこか慈愛すら感じる「師」の響き。
「……引け。ゆっくりだ」
瀬戸の左手が、私の左腕を支える。
右手が、私の弦を引く指の上に重なる。
背後から包み込まれるような形になり、私の背中は彼の厚い胸板の鼓動を感じるほどに密着した。
「……あ」
弓を引く力が、指先から腕へ、そして背中へと伝わっていく。
想像を絶する負荷。
けれど、背後から支える彼の体幹が、私のブレをすべて吸収してくれる。
「……いいぞ。その広背筋の収縮……やはり君は、ただの事務屋ではないな。この安定感……解剖学的に見て、実に誠実だ」
「……こんな時に、何を……」
「放せ(リリース)」
彼の短い号令。
指から弦が離れた瞬間、私の視界を真っ白な閃光が走り抜けた。
「パァン!」
弦が腕を叩く衝撃とともに、矢が放たれる。
それは、的の端に突き刺さった。
「……当たった……」
私は、肩で息をしながら、自分の右手の震えを見つめた。
今まで感じたことのない、脳が痺れるような達成感。
そして、背中から離れていく、彼の体温。
瀬戸は少しだけ意外そうに、突き刺さった矢と私を交互に見た。
「……初心者が、最初の一射で的に当てるとはな。……斉藤さん。君の肉体は、君が思っている以上に、俺の『理想』に近いのかもしれないぞ」
彼は、初めて窓口で見せたような「計算」のない、純粋な笑みを浮かべた。
それは、夜の射場の照明よりも、ずっと眩しかった。
「……勘違いしないで。私はただ、貴方に『できない』と言われたくないだけよ」
私は、震える腕で再び弓を握りしめた。
レギンスの下で、私の大臀筋が熱く脈打っている。
窓口の向こう側では見えなかった、彼の本質。
そして、私の中に眠っていた、新しい情熱。
江東区の夜は、まだ始まったばかりだ。
けれど、私と瀬戸慎治の「マッチング」は、スペックの表を飛び越えて、筋肉の深淵へと潜り込み始めていた。
「……次だ。次は、呼吸を意識しろ。俺のタイミングに合わせるんだ」
「……分かってるわよ、師匠」
私は、不敵に笑い返した。
この男に、私の「市場価値」の本当の底力を、思い知らせてやるために。




