第5章:荒川の夜風と、すれ違う二人
第5章:荒川の夜風と、すれ違う二人
月曜日の江東区役所は、負のオーラの集積地だ。
週末にたっぷり時間をかけて「理想の結婚相手」という名の妄想を膨らませた相談者たちが、現実という名の荒波に揉まれて、その不満をぶつけにやってくる。
「……ですから、年収800万以下の男性は、私のデータベースから除外してと言っているんです! 妥協してそのラインなんですよ? 江東区にはそんなに稼いでる男はいないんですか!」
窓口の透明なアクリル板越しに、美白クリームを塗りたくった40代前半の女性が、ヒステリックに声を張り上げる。
私は口角15度の「公務員スマイル」を維持したまま、心の中でそっと毒を吐いた。
(……お客様。江東区の平均年収をご存知ですか? その条件で独身、かつ貴方のわがままに耐えられる聖人君子は、今頃絶滅危惧種として保護されていますわよ)
もちろん、口には出さない。
代わりに、私は手元の11号スカートの生地を、デスクの下でギュッと握りしめた。
「左様でございますか。……ですが、年収というスペックは流動的なものです。それよりも、生活習慣や食の価値観が合う方の方が、長期的な『成婚維持率』は高まるというデータもございまして……」
「そんなの、結婚してから教育すればいいじゃない! とにかく、次回のリストには条件に合う人だけを入れてちょうだい。いいわね?」
嵐のような一時間が過ぎ、相談者が去った後、私は深いため息とともに椅子に沈み込んだ。
胃が痛い。
おまけに、ストレスで無意識に腹筋に力が入っていたせいか、11号のスカートがいつも以上にウエストに食い込んでいる。
「……美緒さん、お疲れ様です。今の、きつかったですね」
隣の席で、新人の青山愛が恐る恐るプロテインバーを差し出してきた。
「ありがとう、青山さん。でも大丈夫、今は固形物を受け付けないわ……胃が、プランク(腹筋運動)1時間やった後みたいに痙攣してるの」
「あはは……。あ、そういえば、例の『瀬戸様』。今日の午後にまた連絡がありましたよ。『マッチングの進捗はどうなっている、停滞は退化と同じだ』って。もう、追い込みがプロアスリート並みですよね」
「…………」
瀬戸慎治。
あのアーチェリー場で見せた、静寂を纏った美しき怪物。
仕事に戻れば、彼はただの「超絶に面倒なハイスペ男」でしかない。
けれど、あの日見た彼の広背筋を思い出すと、なぜか怒りよりも先に、奇妙な敗北感が込み上げてくる。
あんなに自分を律している男を納得させる「個体」なんて、この江東区のどこにいるっていうのよ。
*
定時退社、本来ならまっすぐ帰宅して、ドイエーで買った鶏胸肉を低温調理するルーティンに入るはずだった。
けれど、今日の私の精神状態は、キッチンに立つことすら拒否していた。
(……走らなきゃ。今すぐ、このドロドロしたストレスを汗で流し出さないと、私の筋肉が腐るわ)
一度帰宅し、ウェアに着替える。
週末の朝のジョギングとは違う。平日の「ナイトラン」は、私にとって一種の儀式だ。
行き先は、荒川河川敷。
大島の街を抜け、暗がりに沈む堤防へと向かう。
街灯が等間隔に並ぶ河川敷は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
夜の荒川は、独特の匂いがする。
湿った土と、川面の冷気。そして、どこか遠くの工場から漂ってくる、鉄のような匂い。
「……ふぅ。スタート」
スマートウォッチを起動し、私は走り出した。
一歩、また一歩。
着地するたびに、足裏から伝わるアスファルトの硬さが、現実味を呼び戻してくれる。
週末のランニングは「維持」のためのものだが、平日のランニングは「破壊」のためのものだ。
今日という一日を、一歩ごとに踏み潰していく。
(……年収がどうとか、スペックがどうとか。そんなものは、剥がれ落ちるメッキよ!)
ピッチが上がる。
私の大臀筋が、夜の冷気の中で熱を帯び始める。
元陸上部。中距離のランナーだったあの頃の感覚が、暗闇の中で鮮明に蘇る。
肺が熱くなり、喉の奥が鉄の味がしてくる。
それでいい。
この苦しさこそが、私が「自分自身を管理している」という確かな証拠なのだから。
*
同じ頃。
大島のドイエーに隣接する「シルバーマンジム」。
そこには、深夜まで黙々とマシンと対峙する一人の男がいた。
瀬戸慎治は、レッグプレスのマシンに200キロを超えるプレートを積み上げ、最後の1回を絞り出していた。
「…………ぬぅっ!」
咆哮は上げない。ただ、太い呼吸とともに、分厚い大腿四頭筋がはち切れんばかりに膨張する。
セットを終え、彼はゆっくりとマシンから降りた。
額に滲んだ汗をタオルで拭い、スポーツドリンクで喉を潤す。
(……仕事、トレーニング、食事。すべては計画通りだ)
商社の最前線で、一分一秒を争う取り引きをこなしながら、彼は常に自分のコンディションを俯瞰していた。
彼にとって、筋肉は裏切らない唯一の資産だ。
資産は守り、運用しなければならない。
けれど、そんな完璧主義の彼の中に、最近一つだけ、予測不能な「変数」が紛れ込んでいた。
(……あの、河川敷のランナー)
慎治は、ジムを出て、ロードバイクに跨がった。
自宅のある清澄白河へ帰る道すがら、彼はたまに、少し遠回りをして河川敷沿いの道を走ることがある。
一年前、偶然見かけた、一人の女性ランナー。
暗闇の中を、一筋の光のように駆け抜けていった彼女。
顔は見ていない。けれど、その走りのフォームは「完璧」という言葉が相応しかった。
無駄のない腕振りと、高い重心。そして、力強く地面を捉え、一切のブレを感じさせない下半身のバネ。
『彼女は、何を求めて走っているんだろうな』
スペックに群がる女たちや、自己管理を放棄した同僚たちとは違う、剥き出しの意志。
慎治は、いつしか彼女のことを「荒川の女神」と心の中で呼ぶようになっていた。
もちろん、それが自分の担当相談員である斉藤美緒だとは、夢にも思わずに。
*
時刻は午後9時30分。
河川敷の中間地点、街灯が途切れかけたカーブ。
美緒は、全開のスピードでコーナーを抜けた。
心拍数は170を超え、脳内にはエンドルフィンが溢れ出している。
もはやストレスなどどこにもない。あるのは、ただ「走る」という純粋な快感だけだ。
対面から、1台のロードバイクが走ってきた。
ライトが眩しく、美緒は一瞬だけ目を細める。
(……ローディー? いい脚してるわね)
一瞬の交差。
美緒の横を、ロードバイクが静かに、けれど速い速度で通り過ぎていく。
その瞬間。
慎治は、風の中に混ざった「ある匂い」に鼻をくすぐられた。
それは、高価な香水の匂いではない。
激しい運動によって弾けた、清潔な汗の匂い。
そして、その直後に聞こえてきた、正確なピッチを刻むシューズの音。
(……彼女だ)
慎治はハッとして、自転車のブレーキを握りかけた。
けれど、反射的に振り返った時には、彼女の背中はすでに夜の帳に消えかかっていた。
街灯の下を一瞬だけ横切った、しなやかに踊るポニーテール。
そして、闇の中でもはっきりと主張する、鍛え上げられた大臀筋の躍動。
「…………」
慎治は、自転車を止め、しばしその場所で立ち尽くした。
心臓が、レッグプレスをやった後よりも激しく高鳴っている。
なぜだか、わからない。
ただ、今のあの一瞬のすれ違いで、自分の魂の半分が、彼女の走りにさらわれてしまったような感覚に陥ったのだ。
「……また、会えたな」
彼は小さく呟き、再びペダルを漕ぎ出した。
その口元には、商談を成立させた時よりも、アーチェリーでゴールドを射抜いた時よりも、純粋で熱い笑みが浮かんでいた。
*
15分後、美緒は河川敷を抜け、自宅マンションへの階段を上っていた。
膝はガクガクと震え、ウェアは肌に張り付いている。
けれど、心は驚くほど澄み渡っていた。
「……ふぅ。……お疲れ、私」
冷蔵庫から、プロテインシェイカーを取り出す。
今日のフレーバーは、少し贅沢に「リッチチョコレート味」だ。
一気に飲み干すと、細胞一つ一つにたんぱく質が染み渡っていくような錯覚に陥る。
シャワーを浴び、鏡の前で濡れた髪を拭きながら、美緒はふと自分の下半身を見た。
今日のナイトランで、筋肉はさらに研ぎ澄まされた。
明日の朝、11号のスカートを穿く時、きっと今までで一番美しく、そしてフィットするはずだ。
(……瀬戸さん、だっけ。あんな男、私のこの努力には一生気づかないんでしょ)
アーチェリー場での彼の真剣な眼差し。
あれも結局、自分のことしか見ていない、冷徹な完璧主義の現れでしかない。
私みたいな「しがない公務員のランナー」なんて、彼のデータには1ミリも入っていないに決まっている。
「……いいわよ。私は私のために走るんだから」
美緒はベッドに倒れ込み、深い眠りへと落ちていった。
同じ夜空の下、清澄白河のマンションのベランダで。
慎治もまた、プロテインを片手に、遠く荒川の方角を見つめていた。
彼の胸の中には、今さっきすれ違った「女神」の残像が、消えない熱となって残り続けていた。
二人はまだ知らない。
お互いが、お互いにとっての「理想の個体」であることに。
そして、次の対面で、この「夜のすれ違い」が、運命の導火線に火をつけることになることを。
江東区の夜は、静かに、けれど確実に、二人の距離を「筋肉の共鳴」によって縮めていた。




