第4章:静寂を射抜く背中
第4章:静寂を射抜く背中
「……1、2、3。よし」
土曜日の朝、午前8時。
私は大島の自宅マンションの前で、アキレス腱を伸ばしながら入念にリズムを刻んでいた。
平日の私は、江東区の少子化を食い止めるべく、11号のスカートに身を包んで戦う公務員。
けれど週末の私は、ただの「走る筋肉」だ。
今日のウェアは、機能性を最優先したタイトなランニングレギンスに、吸汗速乾のTシャツ。
仕事用の制服という鎧から解放された私の下半身は、自由を謳歌するように軽やかだ。
それでも、走り出す前に自分の尻をパンパンと叩くルーティンは欠かさない。
レギンス越しに伝わる、この確かな弾力。
よし、大臀筋の張りは今日も最高。
「……ふぅ。行くわよ」
スマートウォッチの計測を開始し、私は走り出した。
コースは決まっている。
仙台堀川公園を南下し、南沙を抜けて夢の島へ。
往復で約13キロのジョギングコースだ。
*
走り始めて5分。
私の意識は、次第に「思考」から「呼吸」へと移り変わっていく。
吸って、吐いて。着地、蹴り出し。
アスファルトを蹴るたびに、平日、あの窓口で溜まりに溜まった澱が、汗となって毛穴から吹き出していく。
(……瀬戸、慎治。あの、歩く合理主義変態……!)
走るリズムに乗せて、昨日の窓口での出来事がフラッシュバックする。
『大臀筋のアーチが、解剖学的に見て機能美を体現していること』
思い出すだけで、顔から火が出そうだ。
あんなことを真顔でリクエストしてくる男が、この世に実在していいものか。
しかも、昨日の鶏胸肉。悔しいことに、あいつが言った「低温調理」は完璧だった。
今朝の私の筋肉は、かつてないほどしなやかに、そして力強く私を前へと押し出している。
(……あんな男の理論に屈したみたいで、本当に癪だわ!)
ピッチを上げる。
私は元陸上部。中距離が専門だった。
インターハイ選考会、あとコンマ数秒が届かずに終わったあの日。
私は「本気」という言葉の残酷さを知った。
あの時、練習にもっと熱を入れていれば……
あの時、毎週末トールサイズのカロリー爆弾なんて口にしていなければ……
高校での愚行を今更後悔しても仕方がない。もっと悔やむべきは、その後の4年間の怠惰すぎる時間を過ごしたことだ。大学の卒業式に写る袴姿の私の写真は、就職してからずっと封印してある。あの頃の陸上少女の輪郭は、見る影もなく変わってしまった。
でも、今は本気でトレーニングに臨んでいる。私にランニングシューズを再び履かせたのは、あの22歳の秋の出来事だった。
自堕落な大学の4年間とストレスまみれの新人社会人の半年を過ごした後、久々の家族旅行で一緒に行った温泉で母と叔母に笑われた『くびれ』の無い私の身体!
そして同時に彼女たちの裸体を見てしまったときに知った遺伝子の呪縛!
40代後半の二人の、同じ形の丸みの消えた尻……
なんとかしないと!
あんなピーマン尻には絶対にならない!
以来、自宅での自重トレーニングとロードワークは日課になった。
*
砂町運河を渡る橋の上、海風が髪を乱す。
遠くに、夢の島公園の緑が見えてきた。
夢の島公園。かつてはゴミの埋め立て地だったこの場所は、今や江東区が誇る一大スポーツ拠点だ。
多目的コロシアムに熱帯植物館。そして、今日の私の目的地。ここのサウナで、最後仕上がるつもりだ。
『BumB東京夢の島スポーツセンター』。
その手前に広がるアーチェリー場に差し掛かった時、私は思わず、足を止めた。
「……大会?」
アーチェリー場の周囲には、いつになく多くの人が集まっていた。
色とりどりの弓(リカーブボウと言うらしい)を抱えた選手たちが、静かに、けれど熱を帯びた空気の中で出番を待っている。
どうやら区民大会か、あるいは都レベルの記録会が開催されているようだった。
普段ならそのまま素通りしてジョギングを続けるところだが、昨日の青山愛の言葉が耳の奥でリフレインした。
『趣味は……アーチェリー? なんか高貴ですよね』
(……まさか、ね)
あんな、ドイエーの特売コーナーで鶏肉を奪い合うような男が、こんな静寂のスポーツを嗜んでいるはずがない。
あいつに似合うのは、もっとこう、パワーラックをガシャンガシャン鳴らして咆哮を上げるような、野蛮な筋トレのはずだ。
……けれど、足が勝手に観客席の方へと向いていた。
整理運動のふりをして、私はフェンス越しに射場を覗き込む。
そこで、私は見た。
「…………え」
時が、止まったかと思った。
数十人並んだ射手たちの、ちょうど中央。
そこに、一際「異質な静寂」を纏った男が立っていた。
白いアーチェリーウェア。左胸にはチェストガード。
指先を守るタブをはめ、背筋をピンと伸ばしたその姿。
間違いなかった。
瀬戸慎治だ。
けれど、私の知っている「嫌味なエリート」の瀬戸慎治ではなかった。
スーツを脱いだ彼の体躯は、想像以上に凄まじかった。
ウェア越しでもわかる、広背筋の厚み。
重い弓を構える左腕の、岩のような安定感。
そして、何よりも。
(……なんて、静かなの)
周囲の選手たちが、矢を放つ瞬間にわずかに力んだり、外した後に悔しげな表情を浮かべたりする中。
彼だけは、深い湖の底に沈んでいるかのように静かだった。
彼はゆっくりと弓を引き絞った。
その動きには、一切の無駄がない。
引く、というよりは、背中の筋肉を左右に広げ、宇宙の力を一点に集約させていくような。
彼の厚い広背筋が、ウェアの布地を内側から引き絞り、盛り上がる。
(……美しい)
思わず、そう呟きそうになった。
機能美。
彼が昨日、窓口で私に突きつけた言葉。
それが今、目の前で体現されていた。
彼の体幹は、荒川の濁流の中でも微動だにしない巨岩のように安定している。
そこから生み出される「静の力」。
「…………っ」
パァン!
乾いた音が響いた。
弦から放たれた矢は、目にも留まらぬ速さで空気を切り裂き。
吸い込まれるように、的のど真ん中――ゴールドの、さらにその中心へと突き刺さった。
会場から、どよめきが上がる。
10点
けれど、彼は眉一つ動かさない。
ただ静かに弓を下ろし、次の矢を番える。
その横顔は、昨日の傲慢な笑みとは別人のように、鋭く、研ぎ澄まされていた。
「……すご……」
私は、アーチェリーという競技を舐めていたのかもしれない。
これはただ弓を射るスポーツじゃない。
自分の肉体を、精神を、そして呼吸を、ミリ単位でコントロールし続ける。
「自分を律する」ことの極致。
(……だから、あんなことを言ったのね)
『俺が求めているのは、感情の振れ幅が少なく、自己管理能力に長けた個体だ』
彼のあの異常なまでのこだわり。
それは、一射ごとに己のすべてを試される、この残酷な競技から来ているものだったのだ。
そう思うと、不思議と腹が立たなかった。
むしろ、同じ「自分の肉体を管理すること」に命をかけている者として、深い共鳴を覚えてしまった。
「…………っあ」
不意に、彼が的から視線を外した。
矢を番え終えた彼が、ふと、観客席の方を……私がいる方を、何気なく振り返ったのだ。
(……まずい!)
目が合う。
確実に、合う。
今の私は、汗だくのジョギング姿。髪は乱れ、顔は赤い。
しかも、あんなに毛嫌いしていた相手の練習を、ストーカーみたいに覗き見していたなんてバレたら――。
(逃げろ、美緒!)
私は、反射的に回れ右をした。
元陸上部の本領発揮だ。
心拍数はアーチェリー場の静寂をぶち壊すほどに跳ね上がり、私は夢の島公園の茂みへと全力で駆け込んだ。
「……はぁ、はぁ、はぁっ!」
200メートルほど全力疾走し、熱帯植物館の裏側まで逃げ延びたところで、私は膝をついた。
心臓がうるさい。
それは、走ったせいだけではない。
(……なによ、今の)
あんなに嫌な奴なのに。
あんなに合理的で、冷たくて、筋肉のことしか考えていない変態なのに。
あの、一瞬だけ見せた、的を射抜く時の鋭い眼差し。
それが、脳裏に焼き付いて離れない。
「……認めないわよ」
私は、自分の上気した頬を両手で叩いた。
「あんな性格の悪い筋肉ダルマに、ときめくなんて。……私はただ、アスリートとして、 彼の広背筋を高く評価しただけ。そう、それだけよ」
けれど、心の中の深いところが、小さく震えているのがわかった。
彼が射抜いたのは、的だけじゃない。
私が公務員として、そして一人の女性として頑なに守ってきた、心の防壁のど真ん中だった。
「…………帰って、スクワットしよ」
私は、無理やり思考をトレーニングへと切り替えた。
けれど、帰り道の足取りは、いつものジョギングよりもどこか浮ついていた。
新木場の潮風が、なぜか甘く感じられた。
江東区の週末は、まだ始まったばかり。
けれど、私の中の何かが、確かに変わり始めていた。




