第3章:窓口の向こう側の「再々会」
第3章:窓口の向こう側の「再々会」
「花金なんて言葉、私には縁が無いけれど、今日が終われば明日も明後日もオフだわ……」
この仕事はたまに休日出勤がある。なにかと婚活イベントが行われる為だ。勤続四年目でもまだ「新人枠」で独身という『使いやすい』立場の私は、そんなイベントの時に出勤者の頭数に常に入れられている。
どんよりとした曇り空の下、私は東陽町駅から徒歩5分の江東区役所へと、五連勤目の重い足取りを進めていた。
昨夜、ドイエーで奪い合った鶏胸肉600グラム。結局、あいつのアドバイス通りにジップロックに入れて炊飯器の保温モードで「低温調理」とやらに挑戦してみた。結果、驚くほどしっとりと仕上がった肉を噛み締めながら、私は虚空を見つめていた。
(……なんであんな男の言う通りにしてるのよ、私)
屈辱である。しかし、たんぱく質の吸収効率の前では、個人のプライドなど塵に等しい。
今朝の私の11号スカートは、昨日よりもわずかに、ほんのコンマ数ミリほどウエストに余裕がある気がした。これが「低温調理」の恩恵だとしたら、あまりに業が深い。
「おっはようございまーす、美緒さーん!」
区役所二階、恋愛成就課(RAJ)。
扉を開けるなり、後輩の青山愛が、朝から糖度100パーセントの声を飛ばしてきた。
「聞いてくださいよ! 今日の新規相談予約、『特等席』案件ですよ。昨日の深夜、ネット予約が入ったんですけど、システムがフリーズするかと思うくらいのハイスペックなんです!」
「……ハイスペック? どうせ、性格に致命的な欠陥があるから、わざわざ役所のマッチングを頼りにするのよ。民間の高級結婚相談所に相手にされなかった『ワケありエリート』に決まってるわ」
私は事務机にカバンを置き、パソコンを起動させる。
画面に表示される、今日一日のスケジュール。
午前10時。新規カウンセリング。
『瀬戸慎治様』
その名前を見た瞬間、私の指先が、キーボードの上で「ピタッ」と凍りついた。
「…………瀬戸、慎治?」
「そうなんです! 都内大手商社勤務、28歳。年収は余裕の一千万超え! 趣味はスポーツ……えーっと、アーチェリー? なんか高貴ですよね。顔写真も見ます? もう、モデルかと思いましたよ!」
青山が差し出してきたタブレット。そこに映っていたのは、昨日の昼と晩、私の平穏な生活を物理的・精神的に蹂躙してきた「あの男」だった。
写真の中の彼は、清潔感溢れる紺色のスーツを纏い、不快なほど完璧な黄金比の顔立ちで、こちらを見据えていた。
「…………」
「どうしました、美緒さん? 顔が『デッドリフト限界突破』した時みたいな色になってますよ」
「……青山さん。この男、私が担当するわ」
「えっ、いいんですか? 私、自分がやる気満々だったんですけど」
「いいの。これは……江東区の平和を守るための、聖戦なのよ」
私は拳を固く握りしめた。
昨日の「鶏胸肉半分こ」の恩は、今ここで、プロのカウンセリングという名の「仕返し」で清算してやる。
あんな合理的変態、私が完膚なきまでに「市場価値」を査定して、江東区の厳しい現実を叩きつけてやるわ。
*
午前10時、RAJの相談ブース3番。
ここはプライバシーに配慮し、背の高いパーティションで区切られた空間だ。
私は深呼吸をし、11号スカートのホックを指で確認してから、受付マイクに向かって声を張った。
「新規相談、瀬戸慎治様。3番ブースへお越しください」
数秒後。
パーティションを抜けて現れたのは、写真よりも三割り増しで威圧感を放つ実物の「壁」だった。
今日はダークネイビーの三つ揃え。ネクタイはエルメスだろうか、江東区役所の安っぽい蛍光灯の下でも、そのシルクは上品な光沢を放っている。
瀬戸慎治は、椅子に座る私を認めると、一瞬だけ目を見開いた。
けれどすぐに、昨日と同じ、あの温度のない笑みを口元に浮かべた。
「……三度目、か。江東区の役所というのは、これほどまでに人材不足なのか? それとも、君が俺のストーカーにでもなったのか」
「……お座りください、瀬戸様。私は江東区役所・恋愛成就課、主任相談員の斉藤です。瀬戸様が当課の『効率的な』マッチングシステムに期待してご来庁されたこと、心より歓迎いたします」
私はプロの笑みを貼り付けた。口角の角度は、訓練された15度。
瀬戸はフンと鼻を鳴らし、私の対面に腰を下ろした。
座った瞬間、彼の太ももの筋肉がスラックスを押し広げるのがわかる。
……いい大腿四頭筋ね、なんて絶対に言ってやらない。
「さっそくですが、瀬戸様。こちらのカウンセリングシートにご記入を。……特に、『理想のパートナー像』については、具体的であればあるほど、当課のAIが……」
「AIなど必要ない」
瀬戸は私の言葉を遮り、カバンから一枚の用紙を取り出した。
それは、彼が事前に自宅で作成してきたのであろう、隙間なく文字が埋め尽くされた「条件リスト」だった。
「俺が求めているのは、感情の振れ幅が少なく、自己管理能力に長けた個体だ。特に栄養学的な知識を共有でき、週末のトレーニングスケジュールを阻害しないことが絶対条件だ」
「……『個体』。人間をそう呼ぶ方を、私は初めて担当しましたわ」
私はリストを手に取り、内容に目を走らせる。
年齢22歳から29歳
大卒以上
共働き希望
ここまでは、エリートによくある「対等なパートナー」を求める条件だ。
けれど、その先が異常だった。
『身体的条件:体脂肪率18〜22パーセント
骨盤の歪みがなく、歩行姿勢において体幹のブレがないこと
特に大臀筋のアーチが、解剖学的に見て「機能美」を体現していること』
「…………」
私は書類を持つ手が震えるのを必死に抑えた。
大臀筋のアーチ? 機能美?
昨日の今日で、これを私に見せる?
……これは挑発? それとも、この男は本物の天然物なの?
「……瀬戸様。当課は『恋愛成就課』であって、『アスリート育成所』ではありません。このような条件に合致する女性は、江東区……いえ、日本国内でも希少種かと」
「だからこそ、ここに来たんだ」
瀬戸は身を乗り出し、至近距離で私を見つめた。
その瞳は、獲物を狙う狩人のように鋭い。
「民間サイトの女たちは、俺の年収と肩書きしか見ていない。彼らは自分の肉体すら管理できていないくせに、他人の資産に寄生しようとする。……だが、君はどうだ」
「……はい?」
「昨日、あのメガパックを奪い合った時の君の眼光。そして、11号のスカートを破らんばかりの、その鍛え抜かれた下半身。君のような『自己規律の塊』が選ぶ女性なら、俺の基準を満たす可能性があると判断した」
「…………」
褒められているのか。それとも、やっぱり「パンパンのスカートの女」として馬鹿にされているのか。……いや、誰のスカートが破れる5秒前だ!
私の脳内の計測不能な怒りメーターが、レッドゾーンを振り切った。
「……瀬戸様。一つ、重大なアドバイスを差し上げます」
私は笑顔を消し、冷徹な「相談員モード」に切り替えた。
「貴方のその条件、そのまま女性に伝えたら、99パーセントの確率で通報されます。貴方が求めているのは妻ではなく、トレーニングパートナー、あるいは『優秀な母体』としての標本です。……江東区の女性たちは、貴方の筋肉の一部になるために生きているのではありませんわ」
「……ほう。言うようになったな、公務員」
瀬戸の目が、楽しげに細められた。
「だが、残りの1パーセントは? 俺のこの『合理的』な価値観を理解できる女性が、この街に一人もいないと言い切れるのか?」
「それは……」
「いないなら、君が俺を教育すればいい。……俺の条件を、世間の『軟弱な』恋愛観とやらに翻訳して、マッチングさせるのが君の仕事だろう?」
詭弁、いや挑発だ。
この男は、私を、江東区の意地を試している。
私は深く息を吸い込み、腹圧を高めた。
その瞬間
「ギチッ……」
静かな相談ブースに、不穏な音が響いた。
11号スカートのホックが、私の怒りによる腹圧に耐えきれず、小さな悲鳴を上げたのだ。
瀬戸の視線が、スッと私の腰元へと落ちた。
そして、彼は口角をわずかに上げた。
「……斉藤さん。君の『熱意』は、そのホックの張力から十分に伝わってきた。……いいだろう。君に、俺の市場価値を預ける」
「…………っ!」
私は、なんとかお腹を引っ込めるべく丹田に力を込めながら、力強く答えた。
「……承知いたしました、瀬戸様。貴方を成婚させ、当課から一日も早く『退場』していただくこと。それを私の、今期の最優先事項といたします!」
「期待しているよ。……あ、それと。昨日の鶏胸肉、低温調理の結果はどうだった?」
去り際に、彼は何でもないことのように聞いた。
「……最高に、しっとりしていましたわよ! 悔しいことに!」
「そうか。アミノ酸は嘘をつかないからな」
瀬戸慎治は、完璧な立ち姿を見せた後、ブースを去っていった。
残された私は、その場に崩れ落ちそうになるのを、気合いのスクワット姿勢で堪えた。
「……美緒さん、お疲れ様です! どうでした、あのイケメン!?」
青山が駆け寄ってくる。
私は、安全ピンを求めて引き出しを漁りながら、地獄の底から響くような声で言った。
「……青山さん。私、決めたわ。あの男を、江東区で一番『普通じゃない』幸せな結婚に叩き落としてやる」
私の11号スカートのホックは、かろうじて繋がっていた。
けれど、私の「普通の公務員生活」という名のホックは、今、完全に弾け飛んだのだ。




