第24.5章:バルクアップ・ブライダル、狂気の衣裳合わせ
第24.5章:バルクアップ・ブライダル、狂気の衣裳合わせ
「……無理。もうこれ以上、一ミリも横隔膜を拡張させられないわ……!」
火曜日の午後七時。江東区清澄白河にある、完全予約制の高級ブライダルサロン『リュミエール江東』の試着室。
私は、全宇宙の重力に抗うような心持ちで、特大の姿見の前に立ち尽くしていた。
平日の昼間は、江東区役所の少子化対策を担うRAJの主任相談員。けれど今日の私は、数ヶ月後に控えた自分の結婚式に向け、人生最大の「物理的限界」に挑む一人の哀れな花嫁だった。
「美緒さん、背筋伸びてますよ! でも顔が『限界重量のデッドリフトを素手で持ち上げた直後』みたいな血管の浮き出方になってます!」
試着室のカーテンの隙間から、青山愛がいつものように糖度100パーセントのニヤニヤ顔を覗かせてくる。
「うるさいわよ、青山さん……! これ、本当にブライダルのサイズ規定に準拠してるの!? ウエストはまだ余裕(サバ読み)があるはずなのに、背中のジッパーが……私のこの、アーチェリーで覚醒した広背筋を、ギチギチの油揚げみたいに締め付けてくるのよ!」
今日の私が試着しているのは、シルクを贅沢に使った純白のAラインドレス。
本来なら女性の身体を最も華奢に、そして優美に見せるための魔法のドレスのはずだった。しかし、度重なる慎治さんとのトレーニング、そして先日の『百合の女王・凛』とのシャワー室での死闘(精神的カタボリックの回避運動)を経て、私の肉体はさらなるバルクアップ(進化)を遂げていた。
鏡に映る私は、ドレスの繊細なレースの内側で、広背筋と大臀筋が物理法則を無視した圧倒的な存在感を主張しており、さながら「白いシルクでラッピングされた超高性能重機」のようだった。
「お待たせ、美緒」
試着室の重厚なベルベットのカーテンが、音もなく左右に割れた。
現れたのは、これまたタキシードの試着を終えたばかりの、私の最愛の筋肉バカ――瀬戸慎治だった。
完璧に仕立てられた黒のタキシード。しかし、彼の規格外の肩幅と、引き締まったウエストの逆三角形(Vシェイプ)は、ヨーロッパの一流デザイナーが想定したであろう「細身のエリート」の寸法を完全に嘲笑っていた。スラックスの下からは、岩のような大腿四頭筋のラインがくっきりと浮かび上がっている。
慎治さんは試着室に入るなり、私の顔を見ることもなく、じっと私の「背中」――悲鳴を上げているドレスの縫い目へと、鷹のような鋭い視線を走らせた。
「……斉藤さん。いや、美緒。そのドレスの選択は非合理的だ」
開口一番、これである。
「なによ瀬戸さん! 私はこれでも、一生に一度の晴れ舞台のために、一番可愛いデザインを選んだつもりよ!」
「デザインなどという流動的な要素に惑わされるな。見ろ、その背背部のレースの変色を。君が呼吸を吸い込むたびに、大円筋と僧帽筋下部が異常な緊張を強いられている。これは筋肉への血流を阻害し、披露宴という長時間のイベントにおけるパフォーマンス(成婚維持率の誇示)を著しく低下させる要因だ」
慎治さんは私に近づくと、私の濡れた肩甲骨のあたりに、スッと自分の大きな、熱い手のひらを添えた。
ドレスの薄い布地越しに伝わる、彼の骨張った、けれど世界一信頼できる「補助」の感触。
「いいか、美緒。君の美しさは、そのような既製のサイズ(号数)という檻に収まるような脆弱なものではない。君のその、大地を掴む大腿四頭筋と、的を射抜くための広背筋……これらが織りなす『動的な機能美』を最大化させる衣裳でなければ、瀬戸家の次代を担う妻としてのスペックを証明できないだろう」
「……っ」
相変わらずマニアックで、デリカシーの欠片もない称賛。
普通の女性なら「もっと可愛いって言ってよ!」と泣いてドレスの裾で彼の顔を張り倒す場面だろう。けれど、女子校育ちで交際経験ゼロのピュアな私は、この男の「肉体に対する異常なまでの誠実さ」に、どうしても胸の奥の最大心拍数を跳ね上げられてしまうのだった。
「……分かったわよ。じゃあ、どうしろって言うのよ。このドレス、これ以上の大きいサイズ(15号)にしたら、今度はバストとウエストがブカブカのボンレスハムになっちゃうわよ」
「だから言っただろう。既製品など論外だ」
慎治さんは不敵に口角を上げると、パチンと指を鳴らした。
すると、サロンの奥から、恐る恐るという様子で、メジャーとタブレットを持った初老の男性デザイナーが姿を現した。
「瀬戸様……ご指定の、超高張力ストレッチシルクを用いた『オートクチュール(特注ドレス)』の基本図面、ご用意いたしました」
「よし」
慎治さんはタブレットを受け取ると、私に見せてきた。
画面に表示されていたのは、純白のウェディングドレスのデッサン……。いや、違う。それは三次元の『物理的応力解析図』だった。
「美緒、見ろ。前面は君の希望するプリンセスラインを維持しつつ、背部は腰のあたりまで大胆にカットしたバックレス(背中丸出し)スタイルだ。これにより、君の広背筋の可動域は100パーセント解放される。さらに、大臀筋のアーチを最も美しく、かつ圧迫しないよう、ヒップラインの縫製には、最新のレーシングウェアに使用される超高弾性チタン繊維を3倍に強化して織り込んである」
「チタン繊維のウェディングドレスって何よ!? 私はこれから戦場にでも上がるわけ!?」
「結婚とは、人生という名の過酷な長期ロードワークだ。戦場でなくて何だ。……デザイナー、彼女の僧帽筋の収縮率を計測しろ。1ミリの狂いも許さんぞ」
「は、はいっ!」
デザイナーが怯えながら私の背中にメジャーを当てる。
私は、呆然としながらも、鏡の中に映る「背中が大胆に開いたドレス」のシミュレーションを想像してみた。
確かに……。これなら、慎治さんに叩き込まれた地獄のスクワットの成果も、アーチェリーで鍛え上げた私の『誠実な背中』も、隠すことなく世界に見せつけられる。
「……まあ、悪くない、かしらね」
私は、自分の上気した頬を両手で押さえながら、小さく呟いた。
「悪くないどころか、最高だ。当日、君がバージンロードを時速4キロの正確なピッチで歩く姿を見た招待客は、その圧倒的な体幹の安定感に、涙を流してひれ伏すことになるだろう」
慎治さんは、私の肩をガシッと抱き寄せ、その瞳に「計算」のない、純粋な愛着の炎を灯した。
「……美緒。君の11号スカートが弾けたあの日から、俺の人生の標的は君という名のゴールドだけだ。最高のドレスで、最高のバルクアップを世界に証明しよう」
「…………うん。……もう、どこまでもついていくわよ、この筋肉バカ」
私は、彼の厚い大胸筋に、そっとおでこを押し付けた。
既製の数字(号数)なんかで、私たちの愛の質量は測れない。
プロテインの匂いと、白いドレスのレースが交差する、ブライダルサロンの特等席。
私たちの「マッスル・ウェディング」へのカウントダウンは、安全ピンの一本も必要ない、完璧な適合に向かって、今、フルスロットルで加速していくのだった。
「……よし、美緒。衣裳合わせは終了だ。ゴールドのプロテインシェイカーで失われたアミノ酸を補給し、即座にシルバーマンジムへ向かうぞ。今日は脚の日だ!」
「……最後まで、ロマンチックの欠片もないわね、貴方は!」
サロンの中に、私たちの笑い声と、ドレスの繊維がほんの少しだけ伸びる心地よい音が、高く、高く響き渡っていた。




