第23.5章:猿江の輪舞曲!筋肉女帝の挑戦
第23.5章:猿江の輪舞曲!筋肉女王の挑戦
「……1、2、3、4。よし、まだ生きているわね」
木曜日の午後八時。江東区大島の『シルバーマンジム』、そのフリーウエイトエリアの片隅で、私は汗まみれのレギンスを叩きながら荒い呼吸を整えていた。
先日、ららぽーと豊洲の超高層フレンチで慎治さんのお母様と対峙し、彼の狂気じみた筋肉プレゼンテーションによって「瀬戸家の伝統を貴方の広背筋でねじ伏せなさい」と言い渡されてから数日。
伝統の壁を突破した安堵感も束の間、私の肉体はさらなる「高み」を求めて、今日も鉄の塊とダンスを踊っていた。現在の私は「11号」という数字の檻を完全に脱ぎ捨て、「13号・改」という己の真実を受け入れた状態だ。
「おい、そこの女」
不意に、パワーラックの影から、私の大臀筋を凍りつかせるような、低くドスの効いた声が降ってきた。
振り返ると、そこに立っていたのは、ジムの薄暗い照明の下でも異様な威圧感を放つ一人の女性だった。
黒いスポーツブラにショートパンツ。露出したその肉体は、一般の女性トレーニーの域を遥かに超越していた。はち切れんばかりにビルドアップされた大腿四頭筋。浮き出た血管。彼女は、国内のフィジーク大会で何度も表彰台に上っているトップ選手であり、このジムの「女帝」として君臨する武田亮子だった。
「……武田、さん? 私に何かご用でしょうか」
私が立ち上がると、亮子は私の「13号」の腰回りを、ナパーム弾でも浴びせるような鋭い眼光で射抜いてきた。
「斉藤美緒。あんたが慎治の『婚約者』だってね。……笑わせないでよ。そんな締まりのない下半身で、あの男の隣に立とうなんて、百年早いのよ」
「……は?」
怒りよりも先に、困惑が脳天を突き抜けた。
「慎治はね、かつて私の最高の『トレーニングパートナー』だったのよ。毎週末、このジムで、誰よりも高い負荷を共有し合っていたわ。……私たちが『いい感じ』だったこと、あんた、慎治から聞いてないわけ?」
亮子は一歩前に踏み出し、私の胸元にその分厚い大胸筋を押し付けるようにして凄んできた。
(聞いてないわよ。あの筋肉ダルマ、人の過去のスペックにはうるさいくせに、自分の過去はノーデータなわけ!?)
私は心の中で慎治さんの胸ぐらを掴みつつ、冷徹な相談員モードのスイッチを入れた。
「武田さん。過去の相関関係がどうであれ、現在、瀬戸様と私は正式なプロセスを経て成婚(?)へと至っております。……それに、瀬戸さんが貴方の元を離れたのには、それなりの合理的理由があったのではないですか?」
「うるさいわね!」
亮子の顔が、屈辱で真っ赤に染まる。
「私はただ、あの男に認められたくて、誰よりもデカく、誰よりもバルクのあるバルクアップを追求しただけよ! 外見の圧倒的なインパクト、それこそが筋肉の正義でしょうが! なのにあの男……『君のバルクには機能美がない。ただのプロポーションへの固執だ』なんて冷たく言い放って、私を捨てたのよ!」
(……ああ。容易に想像できるわ。あの男なら、フィジークの審査基準すら全否定して、解剖学的に非効率なバルクアップだと説教したに違いないわね……)
「納得いかないわ。あんたみたいな、事務職の、ちょっと走れるだけの女に慎治を奪われるなんて。……斉藤美緒。慎治をかけて、私と『決闘』しなさいよ!」
「決闘……!? ここはジムですよ、野蛮な真似は……」
「お前の指定する『競技』で対決だ!」
亮子は私の言葉を遮り、不敵に笑った。
「重量なら私の圧勝だけど、それじゃあんたが可哀想でしょ? 何でもいいわよ、あんたが得意なジャンルで相手してあげる。その代わり、負けたら慎治の前から消えなさい!」
勝手に盛り上がるフィジーク女帝。
しかし、私は彼女の「お前の指定する競技で」という言葉を聞いた瞬間、脳内のデータベースが高速で勝率を計算し始めるのを感じた。
私の格好。汗にまみれたランニングレギンス、そして元陸上部中距離選手としての、かつてインターハイ選考会で敗退したあの日から、密かに江東区の夜に研ぎ澄まされてきた、地面を正確に捉える足裏のバネ。
「……いいですよ。そこまで言うなら、お受けします」
私は、湧き上がりそうになる笑みを必死に押し殺し、わざと困ったような、気弱な声を装った。
「ウエイトじゃ勝てませんから……そうですね、猿江恩賜公園のジョギングコースを『丸々1周』のジョギング勝負でどうでしょうか。コース長はちょうど1.09キロメートル。1周一本勝負です」
「ハッ! 猿江恩賜公園をたったの1周? 1キロちょっとじゃない」
亮子は、私の提案を聞いて大笑いした。
「いいわよ! スタートとゴールが同じ場所なら、慎治もタイムが見やすくていいわね。どうせ、最初のカーブを曲がる頃には息を切らして途中で這いつくばるのがオチよ。ウエイトで鍛えた私の心肺機能と、大腿四頭筋の出力を舐めないことね。明日の早朝、猿江恩賜公園のジョギングコーススタート地点で待ってるわ。慎治には私が連絡して、立会人にさせるから!」
去りゆく亮子の背中(凄まじい大円筋の盛り上がり)を見送りながら、私はデスクの下でガッツポーズを決めた。
(……馬鹿ね。本当に、外見に囚われた筋肉馬鹿だわ。フィジークのトップ選手が、陸上の中距離経験者に『約1キロの周回コース』で挑むなんて……それ、私の最も得意とする『絶対領域』よ)
高校時代、あとコンマ数秒に泣いたあの感覚。そして、22歳の秋に「ピーマン尻には絶対にならない」と誓ってから、毎夜毎夜、江東区の夜を切り裂いてきた、私のこの大臀筋の真価を見せる時が来たのだ。
翌朝、午前6時。江東区住吉、都立猿江恩賜公園。
朝露に濡れた芝生と木々が、昇り始めた太陽の光を浴びて瑞々しく輝いている。中央のジョギングコースは、緑豊かな公園内をぐるりと巡る1周1.09キロメートルの美しいオーバル。風はひんやりとしていて、絶好の「トラックコンディション」だった。
「……集まったな、二人とも」
コースの起点となるスタート兼ゴールライン。そこに立っていたのは、ストップウォッチを片手に、なぜか審判員の公式ブレザーを完璧に着こなした瀬戸慎治だった。相変わらず一分の隙もない立ち姿。
「慎治! 見ててね、私がこの泥臭い女を完膚なきまでにねじ伏せて、貴方の隣に戻ってみせるから! スタートとゴールがここなら、私の圧倒的な独走劇が最初から最後まで特等席で見られるわよ!」
亮子は、ナイキの最新ランニングウェアに身を包み、太ももの大腿四頭筋をパチパチと叩いてアピールしている。
慎治さんは、亮子の言葉を完全にスルーし、じっと私の方を見つめてきた。
今日の私は、特注のネイビーのレーシングレギンスに、肩甲骨の可動域を最大化させたレーサーバックのタンクトップ。無駄な鎧(制服)を脱ぎ捨てた私の肉体は、朝の光を浴びて、静かに闘志の熱を帯びていた。
「……美緒。心拍数は安定しているか。大臀筋の収縮圧、広背筋の張力、すべてが一年前のあの夜を超えているな」
慎治さんの瞳に、熱い光が宿る。彼は私たちが夜な夜な重ねてきた、あの「すれ違い」と「共鳴」の記憶を、その目でなぞっていた。
「ええ、瀬戸さん。コンディションは最高よ。……武田さん、スタートラインへ」
私は、余計な言葉を捨てて、アスファルトの白線に足を番えた。
コースは、ここから始まってここへ戻る1.09キロメートル。
審判員である慎治さんが、右手を高く掲げた。
「……位置について」
私は重心を落とし、大腿四頭筋に力を込め、骨盤を盤石に固定した。高校時代、スターティングブロックを蹴り出したあの瞬間の記憶が、細胞一つ一つに蘇る。亮子は、クラウチングに近い姿勢で、爆発的なバルクを誇示するように身構えている。
「……用意」
静寂。
公園を流れる冷気の中、慎治さんの持つストップウォッチの電子音が、世界の始まりを告げるように鳴り響いた。
パァン!!(慎治さんのスターターピストル……ではなく、彼の鋭い号令)
「スタート!」
その瞬間、私の身体は、弾け飛んだ11号のホックのように、前方へと射出されていた。
ドォォォン、と地面を蹴る。
元陸上部・中距離ランナーの本領発揮だ。
最初の第一コーナーへ差し掛かる前の直線、わずか10歩で、私は亮子の視界から完全に「消えた」。
「え……っ、嘘、速――」
背後で、亮子の驚愕の声が小さく遠ざかっていく。
私は、全開のスピードで猿江の美しい緑のトンネルへと飛び出していった。
ピッチは正確に刻まれ、腕振りは肩甲骨を中心に無駄なくブレを相殺する。最初のカーブを滑らかに曲がり、コースの奥へと消えていく私の背中。
吸って、吐いて。着地、蹴り出し。
(……見なさい、これが私の、積み上げてきた『機能美』よ!)
中間地点、木々の向こう側のバックストレートを通過。
私の後ろ姿――タイトなレギンスの下で、物理法則を無視した完璧なアーチを描く大臀筋が、木漏れ日を浴びて激しく、かつ美しく躍動していた。
スタート・ゴール地点でストップウォッチを握る慎治さんの瞳が、かつてないほど激しく見開かれた。
公園の周回コースだからこそ、遠くに見える私のフォームの美しさが、彼の目にはっきりと映る。彼の脳裏に、一年前のあの夜、一筋の光のように駆け抜けていった「女神」の残像が、鮮烈にフラッシュバックしていた。
「……完璧だ」
慎治さんは、無意識のうちに呟いていた。
「無駄のない腕振りと、高い重心。そして、一切のブレを感じさせない下半身のバネ。……やはり君は、俺の魂を射抜いた唯一の『個体』だ、美緒……!」
背後では、武田亮子がその巨大な筋肉の重量に苦しみ、呼吸を乱して激しく失速していた。短距離の出力に特化し、外見の肥大だけを求めた彼女の肉体は、1キロを超える「持続する機能美」の前では、あまりにも非効率な構造物でしかなかったのだ。
「はぁ、はぁ、……なんで、あんなに曲がり角でも……ブレないのよ……!」
亮子の視界の中で、私のポニーテールが、朝風にしなやかに踊りながら、最終コーナーを回って再びスタート地点の直線へと戻っていく。
ラスト200メートル。
私の肺は熱く燃え、喉の奥には鉄の味が広がっていた。けれど、それは最高に心地よい「生きている証拠」だった。
視界の先、スタートと同じ場所にあるゴールラインで、慎治さんが両手を広げて私を待っている。
「行け、美緒! そのまま俺の胸に飛び込んでこい!」
「……っ、ふんんんんっ!!」
私は最後のギアを上げた。大臀筋をギュッと内側に収縮させ、地面からの反力をすべて前進するエネルギーへと変換する。
朝日を背負い、公園の緑を鮮やかに割りながら、私はまさに「戦女神」となって、慎治さんの待つゴールの白線へと、光速で滑り込んだ。
チーン、とストップウォッチが止められる。
「ゴール! タイム、3分11秒。……1.09キロの周回として、完璧なマッスル・レコードだ!」
私は慎治さんの胸に飛び込む……手前で、プロのランナーらしく徐々に減速し、大きく息を吐きながら振り返った。
遅れること、約1分。武田亮子が、大腿四頭筋をガクガクと震わせ、ゴールラインの手前で地面に膝をついて崩れ落ちた。
「……はぁ、はぁ、……嘘……同じ場所からスタートして、目の前で……こんなに差をつけられるなんて……私の、筋肉が……負けた……?」
「武田さん」
慎治さんが、冷徹な、けれどどこか諭すような声で、倒れ込んだ亮子を見下ろした。
「君のバルクアップは素晴らしい。だが、それは鏡の前で審査員に見せるための『静止した資産』だ。……美緒の筋肉は違う。彼女の肉体は、重力に抗い、実社会を力強く駆け抜けるための『動的な機能美』そのものなんだ。俺が惚れたのは、外見の数字(号数やキログラム)じゃない。自らを律し、この1周のオーバルを切り裂く、彼女のひたむきな魂なんだよ」
慎治さんは、自分の審判員ジャケットを脱ぐと、汗ばんだ私の肩にふわりとかけた。
石鹸と、わずかなプロテイン、緊張感と彼の深い愛の匂いが、私を包み込む。
亮子は、私たちが並び立つ姿――完璧な調和を見せる二人の「体幹」を見て、ようやく深く、長くため息を吐いた。
「……負けたわよ。……慎治の言う通りね。同じスタートラインに立って、これほど綺麗に置き去りにされたら文句のつけようがないわ。あんたのその背中……フィジークのポージングじゃ作れない、本物の『戦う背中』だわ」
亮子は、潔く立ち上がると、プロのトレーニーとしての敬意を私に一瞬だけ示し、大島のジムの方へとトボトボと歩き去っていった。
「……終わったわね、瀬戸さん」
私は、彼のジャケットの袖をギュッと握りしめた。
「ああ。……美緒、今日の君の走りは、一年前よりもさらに3パーセント、大臀筋の出力が向上していたぞ。……素晴らしいバルクアップだ」
「もう、走った後すぐに、マニアックな分析をしないでってば!」
私は泣き笑いしながら、世界一信頼できる私の「生涯の補助員」の胸を、ドンと叩いた。
江東区、猿江恩賜公園の朝焼け。
伝統の壁も、過去の亡霊も、私たちの「バルクアップ」した真実の愛の前には、ただの爽快な風となって、どこまでも青い空へ吹き抜けていくのだった。




