第22章:清澄白河の「筋肉聖域(サンクチュアリ)」
第22章:清澄白河の「筋肉聖域」
「……ここが、瀬戸さんの城なのね」
土曜日の午後。私は江東区、清澄白河駅から徒歩3分という超1等地にそびえ立つデザイナーズマンションのエントランスで、思わずのけぞった。
ガラス張りのロビー、静かに流れるジャズ、そしてコンシェルジュの完璧な会釈。
さすがは年収一千万円超えの大手商社マン、瀬戸慎治。住んでいる世界が違う。
今日の私は、仕事用の制服ではない。
先日、彼との「初デート(ジム)」を経て新調した、ネイビーのストレッチ・タイトワンピースだ。かつてのように「11号」という数字に命を懸ける必要がなくなった私は、今の自分の豊かな肉体を最も美しく見せる「13号・改」を、誇らしく着こなしていた。
「……斉藤さん、入らないのか。心拍数が上がっているぞ」
オートロックを解錠した慎治さんが、不思議そうに私を振り返った。
彼も今日はオフの装い。上質なグレーのサマーニットが、彼の広背筋の厚みを隠しきれずに強調している。
「……いえ、緊張しているだけよ。男性の……それも、こんなお洒落な街のマンションにお邪魔するなんて、四年間の公務員生活で一度もなかったから」
「ふん。お洒落かどうかは重要ではない。重要なのは、ここがトレーニングルームと区役所、そして夢の島への中間地点として、最も効率的な立地だということだ」
相変わらずの「効率厨」ぶりに、私は小さく吹き出した。
けれど、彼の部屋の扉を開けた瞬間。私の期待していた「お洒落なデザイナーズライフ」の幻想は、音を立てて崩れ去った。
*
「……なに、これ」
玄関を抜けた先の広々としたリビング。
そこには、スタイリッシュな北欧家具の代わりに、黒光りする「パワーラック」が鎮座していた。
窓際にはダンベルのセット、壁には懸垂バー。さらには、最新式の有酸素マシンまで。
「……瀬戸さん。ここ、シルバーマンジムの清澄白河支店じゃないわよね?」
「何を言っている。ここは俺の『筋肉聖域』だ。……斉藤さん、喉は渇いていないか。今、最高品質のホエイプロテインをシェイクしよう」
「……お茶でいいわよ、お茶で」
慎治さんはキッチンへと向かった。
ふと、開けっ放しになった冷蔵庫の中身が見えて、私は再び絶句した。
そこには、整然と並べられた「ゆで卵(六個入り)」、小分けにされた「低温調理の鶏胸肉」、そして「ブロッコリーの食品保存容器」。
ビールの一缶も、コーラの一本もない。あるのは、色分けされたプロテインボトルと、アミノ酸のサプリメントだけ。
「……徹底してるわね。貴方の人生には、脂質という概念がないのかしら」
「脂質はエネルギー源として必要最小限は摂取している。……だが、斉藤さん。君という『究極の個体』を招く以上、不純な栄養素を晒すわけにはいかないだろう」
慎治さんは、バカラのグラスに、なぜか「黄金色の液体(BCAA)」を注いで私の前に置いた。
「……ありがとう。……お洒落な街で、プロテインをバカラで飲むなんて。……私、今、江東区で一番贅沢な女かもしれないわ」
私たちは、トレーニングベンチ(※ソファーの代わり)に腰を下ろした。
彼の部屋は、どこまでも無機質で、けれど彼という男の「誠実さ」と「規律」が凝縮されていた。
窓の外には、清澄白河の街並みと、その向こうに荒川の河川敷が見える。
「……瀬戸さん。……あそこ、私たちが初めて言葉を交わした場所よね」
慎治さんは、私の視線を追って、遠くの河川敷を見つめた。
「ああ。……あの時は、君が『女神』だとは気づかなかった。……ただ、この江東区に、俺と同じくらい『自分を律すること』に飢えている者がいる、ということだけに驚いていたんだ」
慎治さんの手が、そっと私の手に重なった。
ジムで触れ合う時の「補助」としての硬い手ではなく、今は、一人の男としての熱を帯びた、優しい手。
「……斉藤さん。……少し、走らないか。……今の君と、今の俺で」
*
夕暮れの隅田川沿いのランニングコース。
私たちは、お揃いのランニングウェアに着替え、風を切って走っていた。
かつての私は、一人で、何かに追われるように走っていた。
11号のスカートに収まらない自分を否定するように、ただ前だけを見て。
けれど今は、隣に彼がいる。
一定のピッチを刻む、慎治さんの足音。
彼の呼吸と私の呼吸が、夕闇の中で一つのリズムを刻んでいく。
「……美緒。……いいフォームだ。……大臀筋が、夕日を受けて最高に躍動しているぞ」
「……っ、走っている時に、マニアックな実況をしないで!」
私は笑いながら、さらにスピードを上げた。
清澄庭園を抜け、萬年橋を渡り、川沿いの道をどこまでも。
走り終えた後。私たちは、木場公園の噴水で足を止めた。
私のふくらはぎは心地よい疲労感に包まれ、額には玉のような汗が滲んでいる。
「……あ、アイシングしなきゃ」
「……待て。俺がやる」
慎治さんは、あらかじめ用意していた冷却パックを取り出すと、私の前に膝をついた。
そして、私のふくらはぎを労るように、ゆっくりと冷やしていく。
「……瀬戸さん、恥ずかしいわよ。……公園で、男性に足を冷やしてもらうなんて」
「……君の筋肉を最適な状態で維持することは、俺の『愛の義務』だ。……美緒。……君のこの脚のラインは、江東区の宝だ。……これからは、俺が一生、この宝を守っていく」
真面目な顔で、とんでもないことを言う。
けれど、その不器用な言葉が、今の私にはどんな甘いラブソングよりも深く響いた。
「……瀬戸さん。……私、もう11号の数字なんて、どうでもいい。……貴方が見てくれるこの私が、一番好きなの」
「……ああ。……数字などという不確かなもので、君という真実は測れない」
慎治さんは立ち上がり、私の肩を抱き寄せた。
夕闇の木場公園。
二人の影が、芝生の上に一つに重なる。
けれど。
幸せの絶頂にいた私たちの耳に、無慈悲な音が響いた。
慎治さんのポケットの中で、スマホが震えている。
彼は眉を動かし、画面を確認した。
その瞬間、彼の顔から「恋人」の表情が消え、冷徹な「エリート商社マン」の仮面が戻った。
「…………母さんか」
画面に表示された名前は、『瀬戸美智子』。
「……ああ。……例の話なら、もう決まった相手がいると言ったはずだ。……家柄? ……そんなものは、筋肉の機能美の前では何の意味も持たない。…………分かっている。近いうちに、彼女を連れて行く」
電話を切った慎治さんは、深く、重いため息を吐いた。
「……瀬戸さん? お母様?」
「……すまない、美緒。……どうやら、俺たちの『バルクアップ』した愛を試す、最初のハードルが現れたようだ」
慎治さんの瞳に、決意の光が宿る。
江東区の夜景が、どこか予兆を含んだ色に染まっていく。
清澄白河の聖域で育まれた私たちの恋に。
瀬戸家という名の「伝統の壁」が、今、立ちはだかろうとしていた。




