第19章:夢の島、決戦の夜明け
第19章:夢の島、決戦の夜明け
3月の江東区夢の島公園。
潮風が運んでくるのは、春の予感と、ピンと張り詰めた「弦」の匂いだった。
夢の島アーチェリー場の隣、明日のイベントで使われる緑地の芝生は、朝露に濡れて瑞々しく輝いている。
「……よし。事前準備は完了」
私は、特設会場設営の事前チェックを終え、一度だけ大きく深呼吸をした。
今日の私は、今までの私とは違う。
四年間、私のアイデンティティを縛り付けてきた「11号のタイトスカート」は、今、自宅のクローゼットで静かに余生を過ごしている。
代わりに私の身体を包んでいるのは、先日新調した、ストレッチ素材を極限まで強化した特注のネイビー・セットアップだ。
「……動ける。どこまでも動けるわ」
軽くスクワットをしてみる。布地が私の大臀筋の動きに完璧に追従し、反発力さえ与えてくれる。安全ピンは一本もいらない。これは、私自身の肉体を肯定し、一人の女性として、そして一人の「戦士」としてここに立つための礼装だ。
「斉藤さん、今日なんだか……神々しいわね。11号の亡霊が成仏して、ヴァルキリーが降臨したみたいよ」
設営図面を抱えた園田さんが、感心したように私を眺めた。
「成仏だなんて。……園田さん、今日は江東区役所RAJの看板を背負いつつ、一人の『サポーター』としてここにいます」
「いいわよ、その気合い。……瀬戸さんの応援でしょ?わざわざ午前出勤にしなくても二時前には設営もチェックも終わりそうなのに」
(今日の休日出勤は明日ここ夢の島で行われるイベントの設営のため、同じ場所でたまたまアーチェリー都民大会が開催されるのは何かの導きなのだろうか……)
私は苦笑いして、隣のアーチェリー場へと視線を向けた。
そこには、すでにアップを始めている選手たちの姿があった。
*
午後1時、東京都民アーチェリー大会リカーブ70メートル決勝ラウンド開始。
予選を圧倒的なスコアで通過した瀬戸慎治は、1番的の射位に立っていた。
真っ白なアーチェリーウェア。左腕には黒のアームガード。
彼は、周囲の喧騒を完全に遮断し、自分だけの「静寂」の中に沈み込んでいるように見えた。
けれど、彼が一度だけ、観客席の端に立つ私の方を振り返った。
視線が、重なる。
慎治さんは、私の新しい装いを見ると、口角をわずかに上げた。
その瞳には「見ていてくれよ! 俺の女神」という厚い信頼が宿っていた。
(……勝ちなさいよ、筋肉バカ)
私は声に出さず、ただ背筋を伸ばして彼を見つめ返した。
決勝の相手は、元国体選手のベテラン。
一射ごとに順位が入れ替わる、壮絶なシーソーゲームが始まった。
アーチェリーは、物理学と精神力の結晶だ。
風速V 、矢の初速U、そして重力加速度G 。
それらすべての変数を、自分の肉体という精密機械で制御し、標的のど真ん中、直径わずか12センチのゴールドに叩き込む。
慎治さんが弓を引き絞るたび、私は自分の身体が連動するような錯覚に陥った。
彼の広背筋が左右に広がり、肩甲骨が中央に寄る。
大腿四頭筋が大地を掴み、体幹が一本の鋼鉄の柱と化す。
「……美しい」
思わず、言葉が漏れた。
それは、彼が窓口で語っていた「合理的」な美しさを超え、命そのものが躍動する「機能美」の極致だった。
*
試合は最終セットへ。
慎治さんは、最後の一射で「10点」を射抜かなければ、逆転優勝は叶わないという絶体絶命の状況に追い込まれていた。
会場全体が、息を呑む。
風が、わずかに止まった。
「……あら、大変なプレッシャーですわね。瀬戸様、大丈夫かしら?」
背後から、聞き覚えのある、涼やかな声。
振り返ると、そこには香坂麗奈様が、今日も完璧な5号サイズの装いで立っていた。
けれど、彼女の瞳には、かつての執念や怒りは消えていた。ただ、どこか寂しげに、けれど潔く負けを認めた者のような、澄んだ光が宿っている。
「……香坂様」
「斉藤様。……今日のあなた、とても素敵ですわ。……11号のスカートに隠されていた、あなたの『本当のスペック』。……瀬戸様が何を求めていたのか、ようやく理解できましたの」
麗奈様は、私の隣に並び、慎治さんを見据えた。
「彼に必要なのは、共に宝石を眺める女ではなく、共に戦場を駆け抜ける戦友……いいえ、魂の半身。……斉藤様、あの方を、信じていらして?」
「……ええ。信じています。凄く」
私は、迷わずに答えた。
慎治さんが、最後の一矢を番える。
彼の背中が、私の「真心弁当」と「共に行ってきたスクワット」を覚えている。
今の彼の肉体には、私たちが積み上げてきた時間のすべてが宿っている。
慎治さんが、ゆっくりと弓を引き始めた。
競技用の時計が、残り5秒を切るところだった。
静寂
夢の島アーチェリー場を支配していたのは、耳が痛くなるほどの無音だった。
観客席を埋める人々の呼吸音すら消えたのではないかと思えるほどの、張り詰めた空気。
70メートル先の標的。その中心にある直径12センチの「10点」だけが、春の陽光を浴びて鮮やかに浮かび上がっている。
私は、特設会場の最前列で、祈るように両手を握りしめていた。
(……行け! 慎治さん。あんたの積み上げてきたすべてを、あの一点に叩き込みなさい……!)
私は全身の筋肉を硬直させていた。
無意識のうちに重心を落とし、大腿四頭筋に力を込め、骨盤を安定させる。
まるで、私が慎治さんの「土台」そのものになったかのような感覚。
先日新調した特注のネイビー・セットアップが、私の膨れ上がった筋肉の張力に耐え、ミシミシと低い音を立てている。
(……締めて、大臀筋)
(……寄せて、肩甲骨)
(……そして、放ちなさい。私たちの、未来を)
慎治さんの眼光が、かつてないほど鋭く研ぎ澄まされる。
彼が見つめているのは、70メートル先の的ではない。
その先にある、私と共に走る、新しき人生の標的だ。
パァン!!
夢の島の静寂を、乾いた「弾ける音」が切り裂いた。
矢が、光のような速度で空を飛ぶ。
その瞬間。
私のウエスト部分で、この特注セットアップですら耐えきれないほどの、強烈な「予兆」が走った。
「……っ!? うそ、ここでも!?」
慎治さんの優勝を確信し、私が全身に力を込めた、その刹那。
パキィィィィン!!
もう一つの「弾ける音」が、私の腰元で響き渡った。
矢は的の中央を射抜き、慎治さんの優勝が決まる。
そして、私の……。




