第17章:プロテインと真心の狭間で
第17章:プロテインと真心の狭間で
「……斉藤さん。ちょっと、ブースに来てくれるかしら?」
月曜日の朝。江東区役所・恋愛成就課(RAJ)の執務室に、江頭課長の低く冷徹な声が響き渡った。
私は、手に持っていたプロテインシェイカー(中身は低脂肪乳割りのストロベリー味)を落としそうになった。課長のデスクには、昨日、香坂麗奈様が「置いていった」一通の封筒が鎮座している。
「……はい。失礼いたします」
私は、ペンギン歩きを卒業したはずの足取りで、課長の前に立った。
今朝の11号スカートは、昨日のイベントでの「機材救出」という過酷なトレーニングを経て、もはや布地の分子構造が変化したのではないかと思わせるほど、私の腰回りに張り付いている。安全ピンは、今や要塞のように四本で固定されていた。
「これ、香坂麗奈さんからの『意見書』よ。……内容は、担当相談員である貴方が、特定の顧客――瀬戸慎治さんと、職務の範囲を超えた密接な関係にあるのではないか、という指摘。……斉藤さん、説明できるかしら?」
課長の鋭い瞳が、私の目を射抜く。
私は、腹圧を最大に高めた。11号のホックがミシミシと鳴る。
「……報告いたします。瀬戸様とは、あくまで『アスリートとしての技術交流』および『栄養学的な知見の共有』を行っていたに過ぎません。……昨日のイベントでの接触も、緊急事態における機材の安全確保を最優先した結果です」
「……技術交流、ねぇ」
課長は、ふっと口角を上げた。その笑みは、すべてを見透かしているようで恐ろしい。
「瀬戸さんはすでに成婚(?)退会されたわ。規約上、彼との個人的な交際は禁止されていないけれど、……RAJの信頼に関わるような噂を立てられるのは困るのよ。……いいわ、斉藤さん。しばらく彼への『公式なサポート』は中止しなさい。……これは、貴方を守るための措置よ」
「…………。承知、いたしました」
私は、深く頭を下げて自席に戻った。
仕事、公務員、少子化対策。
そんな言葉が、私の胸にずっしりと重くのしかかる。
慎治さんへの想いは、もはや「筋肉の共鳴」を通り越し、私の生活の軸になりつつあった。けれど、私が彼の「女神」であるためには、この11号の制服を汚すわけにはいかないのだ。
*
それから一週間。瀬戸さんとは、会っていない。
「……美緒さん。これ、見ました?」
昼休み。青山愛が、スマートフォンの画面を私に向けてきた。
そこには、慎治さんのSNS――トレーニングログと仕事の備忘録を淡々と綴るだけの、愛想のないアカウントの最新投稿があった。
『本日から3日間、海外取引先との連続ウェブ会議。および深夜の大会用特訓。……一日の総摂取たんぱく質、必要量の60パーセントに低迷中。……効率が悪い』
投稿された写真は、深夜のオフィスで寂しく置かれた、コンビニのサラダチキンと栄養ドリンク。
彼のトレードマークである、あの研ぎ澄まされた広背筋が、どこか疲弊しているように感じられて、私の胸が締め付けられた。
(……サポートは中止よ。しばらく会えないと言ってしまったし……。商社のエリートなんだから、自分で何とかできるはずよ)
そう自分に言い聞かせる。けれど、脳内ではすでに、ドイエー大島店の精肉コーナーの在庫状況が検索されていた。
彼は今、週末の「都民アーチェリー大会」を控えている。
心身ともに最大の追い込みをかけるべきこの時期に、栄養失調(?)なんて、アスリートとして、そして「彼の筋肉のファン」として、見過ごせるわけがない。
「……青山さん。私、午後から『江東区健康増進プログラム』の資料作成で、フィールドワークに出てくるわ」
「えっ? フィールドワークって……またドイエーですか?」
「……心外ね。……キッチンよ」
私は、定時とともに役所を飛び出した。
*
ドイエー大島店、私は迷わず、最高級の国産鶏胸肉を手に入れた。
慎治さんに教えてもらった通り、アミノ酸のポテンシャルを最大限に引き出すための調理。
ジップロックに入れ、慎重に空気を抜く。
温度は、60℃。
炊飯器の保温モードを使い、2時間。
じっくり、ゆっくり。
まるで、私のこの「じれったい想い」を、しっとりと熟成させるように。
同時に、ブロッコリーを1分45秒で茹で上げ、抗酸化作用を最大化させる。
味付けは、彼が推奨するヒマラヤ産の岩塩と、最高品質のオリーブオイルのみ。
(……これは、恋じゃない。……江東区の公務員としての、一区民への『福利厚生』よ。そうよ、そうに決まってるわ)
私は、自分に嘘を吐きながら、完成した「究極のバルクアップ弁当」を保冷バッグに詰めた。
11号の制服を脱ぎ、動きやすいジャージに着替える。
向かう先は、夜の夢の島アーチェリー場。
*
照明の下、静寂を切り裂くように一本の矢が放たれた。
夜のBumBで、慎治さんは一人で射場に立っていた。
けれど、その背中にはいつもの余裕がなく、わずかに肩が落ちているように見えた。
「……瀬戸さん」
私の声に、慎治さんがハッとして振り返る。
その顔には、隠しようのない疲労の色が滲んでいた。
「……斉藤さん。……なぜ、ここに。……君は、課長から接触を禁じられたのではなかったのか?」
「……公式なサポートは中止です。……ですが、これは『江東区健康増進プログラム・試作第1号』の試食調査です。……断ることは、区政への妨害とみなしますわよ」
私は、強引に保冷バッグを彼に差し出した。
慎治さんは、きょとんとした顔でそれを受け取り、ベンチに座って蓋を開けた。
「…………っ」
鶏胸肉の、しっとりとした質感。鮮やかな緑色のブロッコリー。
慎治さんは、箸を手に取ると、一切れを口に運んだ。
彼はゆっくりと咀嚼し、深く、深く息を吐いた。
「……斉藤さん。……君のこの、アミノ酸のバランス。……そして、この火入れの加減。……君の『真心』という名の酵素が、肉の繊維を完璧に分解しているな」
「……真心なんて、入ってません。……ただの、科学的な熱管理の結果です」
「……嘘をつけ。……君の、このじれったいほど丁寧な仕事。……俺の筋肉に、真っ直ぐに届いているぞ」
慎治さんは、残りの肉を惜しむように食べ進めた。
彼の方から疲れが少しずつ消え、あの研ぎ澄まされた「静寂」が戻ってくるのが分かった。
「……斉藤美緒さん。……俺は、この大会で必ずゴールドを射抜く。……それは、君のこの『献身』への、唯一の利子返済だと思ってくれ」
「……利子なんていりません。……ただ、貴方の広背筋が、最高の状態で躍動するのを見せてくれれば……それでいいんです」
夜の射場。
照明の下、私たちは一分間だけ、見つめ合った。
手作り弁当という、最高にアナログで、最高に「真心のこもった」プロテイン。
麗奈様の告発も、お役所の規律も。
今、この瞬間だけは、私たちの「バルクアップ」した想いの前で、塵のように消え去っていた。
「……瀬戸さん。……明日は、100回スクワットをやってから寝てくださいね。……私の『真心』を、無駄にしないで」
「……ふん。いいだろう。……君のその、スパルタな愛……いや、管理。……嫌いじゃないぞ」
私は、空になった弁当箱を受け取り、夜の夢の島を走り去った。
11号のスカートは、今はもう履いていない。
けれど、私の心は、どんな制服よりもパツパツに張り詰めた「幸せ」で満たされていた。
大会まで、あとわずか。
プロテインと真心。
二つの成分が混ざり合い、私たちの運命を、新たな標的へと導いていく。




