第15章:地獄のモニタリング・デート
第15章:地獄のモニタリング・デート
「……この世に、これ以上の地獄があるかしら」
土曜日の午後。私は清澄白河の、ガラス張りで天井の高いサードウェーブコーヒーショップの片隅で、遺書を書くような気持ちでアイスコーヒーを啜っていた。
本来なら、今日は非番のはずだった。
それも、瀬戸慎治さんと「シルバーマンジム」で、ベンチプレスの補助をし合うという、私の人生史上もっとも不純で最高な休日の予定が入っていたのだ。
それなのに……。
「……斉藤様、そんなに死にそうな顔をなさらないで? これは江東区役所の『正当な手続き』なんですもの」
目の前で、一点の曇りもないクリスタルのような微笑を浮かべているのは、香坂麗奈様。
彼女は、慎治さんの退会届が受理された直後、RAJに対して正式な不服申し立てを行った。
『相談員による誘導の疑いがある。納得のいく説明と、最終的な意思確認の場を設けるべきだ』
……という、お役所がもっとも弱い「コンプライアンス」のカードを切って。
結果、私は江頭課長から「公務員の公平性を示すための、最終モニタリング」という特命を拝命し、ここに座らされている。
お見合いの立会人。それも、自分が魂を抜かれた男と、彼を狙う最強のハイスペック女子の。
「……香坂様。瀬戸様はすでにご自身の意思で退会手続きを終えられております。本日の面談は、あくまで特例措置ですので……」
「ええ、分かっていますわ。……瀬戸様が、あの日の一時的な『迷い』から覚めていらっしゃるか。それを確かめるだけですもの」
麗奈様は、5号サイズのオフホワイトのニットワンピースを纏い、まるで北欧の工芸品のような美しさで慎治さんの到着を待っていた。
それに引き換え、私は。
(……ああ、やっぱりこのスカート、限界だわ……)
今日の私は、仕事着の11号ではない。慎治さんに見せても恥ずかしくないようにと新調した、ストレッチ素材の「はず」のタイトスカート。
それなのに、昨夜の追い込みトレーニングでさらにパンプアップした私の大臀筋は、新しい布地すらも「トロール船に巻き上げられる大漁の魚ではち切れそうな網」に変えてしまっていた。
安全ピンは三本、ファスナーは半開。呼吸をするたびに、布地が悲鳴を上げるのが分かる。
カラン、という鈴の音。
店のドアが開いた。
逆光の中に現れたのは、仕立ての良いネイビーのジャケットを羽織った、瀬戸慎治。
彼は店内に足を踏み入れた瞬間、獲物を探す鷹のような鋭い視線で周囲を見渡し、そして、麗奈様を完全にスルーして、私の目だけをじっと見据えた。
「……トレーニングに合わせてスケジュール調整と身体の負荷をコントロールしていたのに急に別件で呼び出すとは、俺のタイムマネジメントへの挑戦か?」
「……瀬戸様。本日は、お見合いの継続ではなく『最終モニタリング』として……」
「うるさい。……俺は、君がそこにいるから来たんだ」
慎治さんは麗奈様の真正面に座るなり、不機嫌を隠そうともせずに言い放った。
麗奈様の頬が、ピクリと引き攣る。
「……ごきげんよう、瀬戸様。……斉藤様は単なる事務方ですわ。……さあ、始めましょう? 私たちが、どれほど『合理的』な未来を築けるかについて」
地獄のモニタリング・デートが、幕を開けた。
*
「……瀬戸様。私はすでに、港区のレジデンスの仮契約を検討しておりますの。貴方の商社での地位を考えれば、やはり住まいは1等地であるべきだわ」
「……港区か。効率が悪いな。清澄白河なら、隅田川の堤まで走って5分だ。有酸素運動の質が落ちる場所には興味がない」
「……運動? ふふっ、瀬戸様ったらお茶目ですのね。……では、お食事はどうかしら?私の行きつけのフレンチでは、トリュフをふんだんに使った……」
「トリュフ? ただの菌類だろう。俺が求めているのは、アミノ酸スコア100のたんぱく質だ。……香坂さん。君は、鶏胸肉を『60℃で2時間』加熱する際、その温度が1℃でもズレた時に起こる『筋繊維の変質』の恐怖を、俺と共有できるか?」
「…………は?」
麗奈様が、ついにポカンと口を開けた。
無理もない。港区の薔薇に、低温調理の物理学を説く男がどこにいる。
私は、記録用のタブレットを手にしながら、必死で笑いを堪えていた。
慎治さんは、わざとやっている。
彼女がもっとも嫌う「非・優雅」な話題を振って、追い払おうとしているのだ。
けれど、慎治さんは不意に、テーブルの下で私の足先に自分の靴をコツンと当ててきた。
(……えっ!?)
私が驚いて顔を上げると、彼は何食わぬ顔でコーヒーを啜りながら、私にだけ聞こえるような、低く、密やかな声で言った。
「……斉藤相談員。君はどう思う? この『栄養学的な価値観の不一致』。……マッチングを継続するのは、リソースの無駄だと思わないか?」
「……せ、瀬戸様。それは……」
「……斉藤様。貴方は黙っていてくださる?」
麗奈様の瞳が、氷のように鋭くなった。
彼女は慎治さんではなく、私を、射抜くように見つめた。
「……瀬戸様。貴方は、私に嘘を吐いていらっしゃいますわね。……アミノ酸だの、筋肉だの。そんなもので私を遠ざけようとしても、無駄ですわ。……貴方のその、私に対する『拒絶』の根底にあるもの。……それは、そこの『11号のスカート』じゃないかしら?」
心臓が、跳ね上がった。
麗奈様は、テーブルを指でコツコツと叩きながら、私を嘲笑うように言った。
「……斉藤様。貴方、瀬戸様に何を吹き込みましたの? ……公務員という立場を利用して、顧客を自分の『トレーニング相手』として独占するなんて。……これ、江東区役所の倫理委員会に報告したら、どうなるかしらね?」
「…………っ」
私の指が、タブレットの上で震える。
その通りだ。私は、彼と「個人的な関係」を築き始めている。
麗奈様がそれを突けば、私のキャリアは終わる。それどころか、慎治さんにまで迷惑がかかる。
「……香坂様。それは、誤解です。……瀬戸様が退会されたのは、あくまでご自身の……」
「……黙れ」
慎治さんの声が、カフェの静寂を切り裂いた。
彼は、立ち上がった。
その全身から放たれる圧倒的な威圧感に、店内の視線が一斉に集まる。
「……香坂さん。君は、大きな勘違いをしている。……彼女が俺を独占しているのではない。……俺が、彼女を……彼女のその『誰にも媚びない強さ』を、独占したいと願っているんだ」
「……瀬戸、様……?」
「倫理委員会? 勝手に通報すればいい。……俺は、江東区の公務員としての彼女を尊敬している。そして、荒川を時速12キロで走り抜ける、一人の女性としての彼女に、魂を射抜かれた。……スペックだの、レジデンスだの。そんな薄っぺらいもので、俺たちの『共鳴』を測れると思うな」
慎治さんは、麗奈様を冷たく見下ろすと、私の手首をガシッと掴んだ。
「行くぞ、斉藤さん。……最終モニタリングは終了だ。……これからは、俺の『個人指導』の時間だ」
「え、ええっ!? 待ってください、まだタブレットの保存が……ああっ、香坂様! 失礼いたします、ああっ!!」
私は、またしても慎治さんに引きずられるようにして、カフェを飛び出した。
清澄白河の、冬の風。
後ろを振り返ると、麗奈様が店内で真っ赤な顔をして立ち尽くしているのが見えた。
*
「……はぁ、はぁ、はぁっ……。……瀬戸さん、貴方……本当に、デリカシーの欠片もないわね」
少し離れた、清澄庭園の木陰。
私はようやく解放された手首をさすりながら、地面にへなへなと座り込んだ。
スカートの安全ピンが一本、音を立てて弾け飛んだ。もう、限界だ。
「……すまない。だが、あいつの言うことが我慢ならなかった。……君が俺のために、職務を全うしようとして自分を殺している姿を見るのが、何よりも不愉快だったんだ」
慎治さんは、私の隣に座り込むと、自分のジャケットを脱いで私の腰にふわりとかけた。
「……瀬戸さん。……私、クビになるかもしれないわよ? あんな風に、麗奈様の前で『独占したい』なんて……」
「……その時は、俺が君の人生の『専属相談員』になればいいだけだ」
慎治さんは、不器用な手つきで私の頭をぽん、と叩いた。
その大きな手のひらから、彼の熱が、そして不器用なまでの誠実さが、私の心へと染み渡っていく。
「……斉藤美緒。……俺は、君の11号のスカートが弾ける音も、君が窓口で溜め息を吐く音も、全部含めて愛している。……麗奈のような宝石に、俺を射抜くことは一生できない。……俺を射抜けるのは、君が放つ、その真っ直ぐな一射だけだ」
「…………」
涙が、溢れた。
11号のスカートの下で、私の大臀筋が、かつてないほど激しく脈打っている。
それはもう、トレーニングのせいじゃない。
「……バカ。……本当に、筋肉バカなんだから……」
私は、彼の胸に顔を埋めた。
硬くて、厚い、世界一信頼できる大胸筋の感触。
江東区の空の下、モニタリング・デートという名の地獄は、いつの間にか、私にとっての「最高の天国」へと変わっていた。
けれど。
私たちの愛の射程距離には、まだ大きな壁が立ちはだかっている。
麗奈様の「復讐」。そして、公務員に課せられる「規則の足枷」。
私たちの真の戦いは、ここから始まるのだ。




