第14章:鉄の仮面と、11号の誓い
第14章:鉄の仮面と、11号の誓い
「……落ち着け、斉藤美緒。貴方は今、江東区の公務員なのよ。……一人の、しがない、お役人なのよ……!」
月曜日の昼休み。江東区役所二階の女子トイレ。
私は、洗面台の鏡に映る自分の顔を、冷たい水で容赦なく叩いていた。
頬が赤いのは、決して血色が良すぎるからではない。
土曜日の夜、荒川の河川敷で浴びた、瀬戸慎治の「魂の告白」の熱が、まだ引いていないからだ。
『君のそのひたむきな魂に惚れたんだ』
脳内で再生される彼の低音ボイス。
そのたびに、私の大臀筋がギュッと収縮し、今朝もなんとか安全ピン三本でねじ込んだ11号のスカートが、ミシミシと悲鳴を上げる。
「……ダメよ。浮かれるんじゃないわ。彼は、まだ『顧客』なの。……退会届が受理されるまでは、私は彼の幸せをサポートする側の人間なんだから」
私は、無理やり「鉄の仮面(公務員スマイル)」を装着した。
鏡の中の自分は、相変わらず凛々しく、そしてどこからどう見ても「下半身が逞しすぎる事務職」だった。
*
「……あ、美緒さん。なんか……背筋の伸び方が、いつもの1.5倍くらいエグくないですか?」
執務室に入るなり、青山愛が私の背後に回り込んで、肩甲骨あたりをツンツンしてきた。
「失礼ね。私は常に、江東区役所の看板を背負っているのよ。……青山さん、瀬戸慎治様のファイル、出して」
「あ、それならもう江頭課長のデスクですよ。……ほら、昨日瀬戸様から『オンライン退会届』が届いたんですって。理由の欄、『究極の個体を発見したため』って書いてあったらしいですよ。……美緒さん、知ってました?」
「……し、知らないわよ。……究極の個体、ね……。……変態、相変わらずね」
私は、自分のデスクの引き出しに、昨夜慎治から渡された「シルバーマンジム招待券」をこっそり隠した。
心臓が、マウンテンクライマーを一セット終えた後のように、ドクンドクンと脈打つ。
瀬戸慎治、あんな合理的で冷徹な男が、私という「泥臭く走る女」を女神と呼び、スペックの檻から這い出そうとしている。
それは、私にとって最高に嬉しい誤算であり、同時に、最高に恐ろしい挑戦でもあった。
(……私、彼に相応しい『女神』になれるのかしら)
ふと、自分の逞しい二の腕を見る。
女神というよりは、戦女神の方が近い気がする。
そんな自嘲気味な思考を打ち消すように、RAJの自動ドアが、静かに、けれど圧倒的な威圧感を持って開いた。
カツ、カツ、カツ。
大理石の床を叩く、完璧なリズムのヒール音。
現れたのは、昨日カフェで慎治に「君は俺の魂を射抜けない」とまで言わしめた、あの港区の薔薇――香坂麗奈だった。
「……ごめんあそばせ。斉藤様、いらっしゃるかしら?」
麗奈は、昨日のダメージを微塵も感じさせない、5号サイズの白いセットアップを完璧に着こなしていた。
彼女の細いウエストを見るたび、私の11号のスカートが「場違いですよ」と囁いているような気がして、肩身が狭くなる。
「……香坂様。本日はどのようなご用件でしょうか。……瀬戸様とのマッチングは、ご本人の希望により……」
「分かっていますわ。……瀬戸様が、あんなに『取り乱した』お姿、私も初めて見ましたもの」
麗奈は、私のデスクの前に立ち、すっと眼鏡を外した。
その瞳は、一昨日よりもずっと冷たく、そして執念深い光を宿していた。
「……でも、腑に落ちませんの。……瀬戸様のような方が、単なる『ランニングのフォーム』に魅了されて、私のスペックを切り捨てるなんて。……斉藤様、貴方、何か隠してらして?」
「……隠す? 何を、でしょうか」
「……彼との間に、個人的な感情、あるいは……『事務手続き外』の接触があったのではないか、と伺っているの。……公務員としての守秘義務、そして公平性を、貴方は守っていらして?」
麗奈の一言一言が、鋭いメスのように私の良心を切り裂く。
一昨日、彼と手を繋ぎ町中を疾走したこと。
彼のジャケットを借りて、大島の夜道を二人で歩いたこと。
それは、間違いなく「担当相談員」の一線を越えていた。
(……ここで認めれば、私は公務員として失格よ。……瀬戸さんの退会実績も、私の私情によるものだと判断されてしまう)
私は、デスクの下で、安全ピンが一本弾けるのを感じた。
ウエストがわずかに緩む。……いや、違う。私の覚悟が、11号という鎧の限界を突き抜けたのだ。
「……滅相もございません、香坂様」
私は、1ミリの揺らぎもない「鉄の仮面」で、彼女を見据えた。
「……瀬戸様が貴方を選ばなかったのは、香坂様のスペックが不足していたからではありません。……瀬戸様という『個体』が、自分の魂の欠落を、データ以外の場所で埋めようとした結果に過ぎません。……私と彼の間にあるのは、あくまで『相談員と顧客』としての、厳格なプロセスのみです」
「……へえ。……よく、その『パツパツの制服』で、そこまで堂々と言い切れますわね」
麗奈は、私の腰回りを蔑むように見た後、ふっと笑った。
「……いいわ。貴方のその『嘘』、信じて差し上げますわ。……でも、斉藤様。……瀬戸様のようなエリートは、一度手に入れた『理想』に対しても、すぐに飽きてしまうもの。……貴方のその、ひたむきな……筋肉? が、いつまで彼の関心を繋ぎ止められるかしらね」
彼女は、翻るスカートの裾とともに、風のように去っていった。
嵐が過ぎ去った後のRAJに、私はへなへなと座り込んだ。
「……美緒さん。……今の、完全に『嫉妬に狂った女』の目でしたよ。……大丈夫ですか?」
青山が、震える手で差し出してきたプロテインゼリー。
「……大丈夫。……ただ、11号のスカートが、もう……無理。……本当に、限界よ」
私は、ジャケットで隠した、もう一本弾けそうな安全ピンを押さえた。
麗奈に吐いた嘘。
「個人的な感情はありません」という、プロとしての建前。
それは、慎治に対する私の裏切りのようにも思えて、胸が締め付けられる。
けれど、私のスマホが、不意に震えた。
差出人は、瀬戸慎治。
『退会手続き完了。受理された。……これからは、君は相談員としてではなく、俺を一人の男として見てくれればいい。……今夜、21時。シルバーマンジムのベンチプレス台で待つ。……サボりは許さん』
「…………相変わらず、デリカシーがないんだから」
私は、思わず小さく吹き出した。
麗奈のような優雅なバラにはなれなくても。
私は、この江東区のアスファルトを、自分の足で力強く踏みしめる「野に咲くたんぽぽ」……いや、頑強な「雑草」でいい。
「……青山さん。私、やっぱり決めたわ。……今日の帰り、新しい制服を注文する」
「えっ!? ついに13号ですか!?」
「いいえ。……特注よ。……大臀筋の部分だけ、ストレッチ素材を3倍に強化した、斉藤美緒専用の『11号・改』を作るのよ!」
私は、空になったプロテインゼリーを握りつぶし、立ち上がった。
嘘を真実に変えるために。
私は、彼が惚れたというその「魂」を、さらに鍛え上げる覚悟を決めた。
鉄の仮面の下で、私の心は、アーチェリーで放たれた一筋の矢のように、彼という「的」のど真ん中に向けて放たれていた。




