第13章:スペックの外側にある光
第13章:スペックの外側にある光
オレンジ色に染まった隅田川の堤。
私の人生で、これほどまでに心臓がうるさかったことがあっただろうか。
それも、心拍トレーニングの負荷のせいじゃない。目の前に立つ、瀬戸慎治という男の存在そのもののせいだ。
「……瀬戸さん。さっきの、もう一回言ってくれませんか?」
私は、ずり落ちそうになる11号のスカートを必死に手で押さえながら、聞き返した。
逆光の中に立つ彼は、一年前のあの日、私が闇を切り裂いて走っていた姿を「女神」と呼び、あろうことか「惚れた」と断言した。
「言葉通りの意味だ。俺は、君のスペックに惚れたんじゃない。君の、そのひたむきな魂に惚れたんだ」
慎治はもう一度、一字一句を噛み締めるように繰り返した。
商社のプレゼンで数千億を動かす時よりも、ずっと真剣な眼差し。
私は、自分の顔がドイエーの「特売の紅鮭」よりも赤くなっているのを自覚した。
「……スペックじゃないって、貴方、窓口であんなに細かい条件を並べ立てて……! 体脂肪率がどうとか、骨盤がどうとか言ってたじゃない!」
「あれは、君に気づいて欲しかったからだ」
「……は?」
「河川敷で君を見失ってから、俺は必死に君の残像を探した。だが、顔も名前も知らない。唯一の手がかりは、あの完璧なフォームと、鍛え抜かれた下半身のラインだけだった」
慎治は、少しだけ自嘲気味に笑った。
「だから、恋愛成就課に行けば、君のような……あるいは君自身に繋がるような、ストイックな『個体』に出会えるかもしれないと思った。窓口に座っていたのが君だと気づいた瞬間、俺は確信したんだ。……これは、俺の人生という標的に、運命が矢を番えたのだと」
「…………」
ドラマチックすぎる。
あまりに現実離れした言葉に、私はめまいがした。
けれど、彼の瞳の奥にある「孤独」が、私の胸を締め付けた。
「……一年前。俺は、スペックという数字の檻の中にいた」
慎治は、夕日に照らされた川面を見つめながら語り始めた。
「商社の最前線で、相手の資産価値とリスクだけを計算し、自分自身もまた『最高級の資産』として振る舞うことを求められた。会食に行けば、俺の年収と時計のブランドしか見ていない女性たちに囲まれる。……そんな中、荒川で走る君を見かけた」
彼は、私の方を向き直し、一歩近づいた。
「君は、誰に褒められるためでもなく、ただ自分の限界を超えるためだけに走っていた。汗にまみれ、苦しげに息を吐きながらも、その瞳は前だけを見据えていた。……その姿を見た時、俺は思い出したんだ。……自分を律し、高めることの、純粋な喜びを」
「…………」
「君が走っているのは、スペックを上げるためじゃない。……君が君であるための、聖域なんだろう? 斉藤美緒さん」
図星だった。
陸上を辞め、平凡な公務員として働く中で、私が唯一捨てられなかったもの。
それが、11号のスカートに象徴される「自分への規律」だった。
誰にも理解されないと思っていたその部分を、この男は、一番深い場所で射抜いていた。
「……瀬戸さん」
私の目から、一滴の涙がこぼれ、レギンスの膝の上に落ちた。
私は、ずっと怖かった。
ただの公務員としての自分。数字やデータで処理される「個体」としての自分。
けれど、彼は私を「一人の戦士」として見つけ出してくれた。
「……ずるいわよ。そんなの、反則だわ」
「反則で結構だ。……俺は、君の隣を走りたい。……マッチングの条件はすべて撤回する。俺が求めているのは、データ上のパートナーじゃない。……俺を、本気にさせてくれる、君という真実だ」
慎治が、そっと手を伸ばした。
大きな、節くれ立った、温かい手。
その手が、私の頬に触れようとした、その時。
ギチッ……ピシィィィィン!!
静寂の隅田川に、鋭い破壊音が響き渡った。
私のウエストを死守していた、二本の安全ピンのうちの一本が、ついに物理的な限界を超えて破断し、夕闇の中に弾け飛んだのだ。
「……ひっ!?」
「……斉藤さん!?」
感動の告白シーンは、一瞬にしてコント会場へと変貌した。
私は悲鳴を上げ、ずり落ちるスカートを両手でガシッと掴んだ。
「ま、待って! 瀬戸さん! 感動的なのは分かった! 十二分に分かったから、今は、今はステイ! ステイです!!」
「……あ、ああ、すまない。……そんなに、俺の告白が負荷だったのか?」
「違うわよ、物理的な負荷の問題よ! 貴方が一歩近づくたびに、私の全筋肉が緊張して、11号の繊維が千切れる音がするの!」
私は顔を真っ赤にして、蟹のような歩き方で後退りした。
慎治は、呆然とした顔で立ち尽くしていたが、やがてフッと吹き出した。
「……ふふっ、はははは! ……そうか。君はどこまでも、そのスカートと戦っているんだな」
「笑わないでよ! こっちは必死なんだから!」
「いいだろう。……君の言う通り、今は『ステイ』だ。……君がその11号を卒業して、自分を許せるようになった時、……もう一度、真っ直ぐに君を射抜かせてもらう」
慎治は、自分のジャケットを脱ぐと、それを私の肩にふわりとかけた。
石鹸と、わずかなプロテイン……そして、彼の誠実さが混ざった匂い。
「……風が冷たくなってきた。……家まで送ろう」
「…………ありがとう。……筋肉バカ」
私は、彼のジャケットの袖をギュッと握りしめた。
スペックの外側。
そこには、数字では測れない、熱くて、ひりつくような「光」があった。
*
「……美緒さん。今日、なんか……輝いてません? なんかあったんすか?」
月曜日の朝。江東区役所の執務室。
青山愛が、私の顔を凝視しながら、おにぎりを頬張っている。
「……何が? 何を言ってるのよ。寝不足なだけよ」
私は、努めて平然を装い、パソコンの電源を入れた。
けれど、手元の『新規相談者ファイル』から瀬戸慎治の名前が消えていることに、奇妙な喪失感を覚えていた。
彼は、土曜の夜の別れ際、こう言った。
『明日、退会の手続きをする。……俺はもう、相談員としての君に用はない』
それは、私にとっての「お仕事」の終了であり、新しい「関係」の始まりを意味していた。
けれど、職場という現実に戻れば、そこにはまだ大きな壁が立ちはだかっている。
「……斉藤さん。ちょっと、ブースへ来てくれる?」
江頭課長の、低くて落ち着いた声。
私は背筋を伸ばし、ジャケットで隠したスカートのウエストを気にしながら、課長の元へ向かった。
「……瀬戸慎治さんから、退会の申し出があったわ。……理由は、『運命の相手が見つかったため』。……斉藤さん、これ、貴女の実績ということでいいのかしら?」
「…………」
私は、返答に詰まった。
はい、と答えれば、それは公務員としての勝利だ。
けれど、その「相手」が自分だとは、まだ言えるはずもない。
「……江頭課長。その件につきましては、追って詳細をご報告いたします」
「……ふん。まあいいわ。……ところで、香坂麗奈さんからも連絡があったわよ。……『瀬戸様が私を選ばないなんて、何かの間違いだ』って、相当お怒りだったわ」
麗奈、ハイスペ女子の代名詞。
スペックの外側に惚れた慎治と、スペックで世界を測る麗奈。
その激突の間に立たされた私は、これからどうすればいいのか。
私の机には、一通の封筒が置かれていた。
差出人は、瀬戸慎治。
中には、一枚のカードと……なぜか、金色の『シルバーマンジム・ペア一日招待券』が入っていた。
『今日の夜、ベンチプレス台で待っている。……スカートのホックが心配なら、ジャージで来い』
「…………本当に、デリカシーがないんだから」
私は、カードをそっと引き出しに隠した。
11号のスカートは、まだ私の腰にパツパツに張り付いている。
けれど、私の心は、すでに13号の広がりを持って、新しい風に向かって走り出そうとしていた。
江東区の空は、今日もどこまでも青い。
スペックの外側にある光を追いかけて、私の二幕目が、今、幕を開ける。




