第10章:ハイスペ女子の襲来と、担当者のジレンマ
第10章:ハイスペ女子の襲来と、担当者のジレンマ
「……無理。こんなの、マッチング率120パーセントじゃない」
木曜日の午後。私は江東区役所・恋愛成就課(RAJ)の自席で、香坂麗奈から受け取ったエントリーシートを前に、深いため息を吐き出した。
あまりにも完璧すぎる。
学歴、経歴、資産状況。そして何より、あの「5号サイズ」の完璧な肢体。
瀬戸慎治が求める「自己管理能力」という冷徹な基準に照らし合わせれば、彼女はまさに「標本」として博物館に展示されるべきレベルの逸材だった。
それに引き換え、私はどうだ。
デスクの下で、パンパンに張った太ももをさする。
昨夜、シルバーマンジムで慎治に「追い込まれた」せいで、私の下半身はかつてないほどの筋肥大を起こしていた。
11号のスカートは、もはや「布」というよりは「拘束具」に近い。
「美緒さん、顔が『プロテインを水なしで飲んだ時』みたいな顔になってますよ」
隣で青山愛が、心配そうに私の顔を覗き込んできた。
「……青山さん。私、プロの相談員として、大きな壁にぶち当たっているわ。……私情を殺して、この二人をマッチングさせるのが、江東区の未来にとっての正解なのよね?」
「ええ……。スペックだけ見れば、これ以上のペアはいないでしょうね。瀬戸様も『効率』を求めていらっしゃるわけですし」
「……効率。そうよね、効率よね」
私は、慎治の顔写真をじっと見つめた。
アーチェリー場で、的を射抜く瞬間の、あの研ぎ澄まされた眼差し。
ドイエーで鶏胸肉の鮮度を語る時の、あの異常なまでの情熱。
彼にとって、結婚は「人生のポートフォリオを最適化するための共同事業」でしかない。
ならば、香坂麗奈という最高ランクの資産を彼に紹介することこそが、私の職務であり、使命なのだ。
分かっている。頭では、嫌というほど分かっている。
けれど、心のどこかで、いや、私の大臀筋が「納得いかない!」と激しく収縮しているのを感じていた。
*
その日の定時後。私は逃げるようにシルバーマンジムへと向かった。
更衣室でタイトなレギンスに着替え、ジムのフロアへ足を踏み入れる。
鉄と汗の匂い。重いプレートがぶつかる音。
ここに来れば、余計な思考をバーベルの重みで押し潰せる気がしたのだ。
「……フォームが乱れているぞ、斉藤さん」
背後から、不意に降ってきた低い声。
振り返るまでもない。私の筋肉が、その気配を察知して一斉に緊張した。
瀬戸慎治。
彼は、黒いタンクトップにハーフパンツという、これまた「歩く身体解剖図」のような格好で、私の隣のマシンに座っていた。
「……瀬戸さん。今日は背中の日じゃなかったんですか?」
「メニューを変更した。……君がここに来る予感がしたからな。相談員としての『報告』があるんだろう?」
彼は、200キロのレッグプレスを事もなげに押し上げながら、私を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、1ミリの揺らぎもない。
「……ええ。お仕事ですから。……香坂麗奈様から、正式にお見合いのエントリーがありました。彼女、貴方のことを非常に高く評価されています」
「香坂麗奈……。ああ、あのパーティーで『資産価値』の話をしていた女か」
「……言い方。彼女、完璧ですよ。貴方の求める『自己管理能力』も『教養』も、すべて最高ランクで備えています。……正直、当課のデータベースでも、彼女以上のマッチング相手は見つかりません」
私は、わざと事務的なトーンで言い切った。
慎治はマシンを止め、ゆっくりと立ち上がった。
汗を拭う仕草すら、計算し尽くされた機能美に満ちている。
「……そうか。それで、君はどう思うんだ?」
「……え?」
「相談員としてではない。一人の『トレーニング仲間』として。……彼女は、俺の隣で、この負荷に耐えられると思うか?」
慎治の一歩、彼との距離が、ぐっと縮まる。
ジムの照明の下で、彼の瞳が怪しく光った。
「……そ、それは……。彼女、5号サイズですし、貴方の食事管理にも完璧に合わせられると仰ってました。……私みたいな、11号を無理に履いてる女とは、住む世界が違うんです」
「……サイズの話などしていない」
慎治は、私の目を逸らさせないように、さらに顔を近づけた。
「俺が聞いているのは、魂の『バルクアップ』だ。……香坂麗奈は、鶏胸肉を奪い合う情熱を持っているか? 制服を破るまで筋肉を痛め抜く覚悟があるか?」
「…………っ」
心臓が、最大負荷のスクワットをやった時よりも激しく鼓動する。
この男は、何を言っているの……。
それは、私との思い出……いえ、私と「出会い」の記憶のことじゃないの。
「……瀬戸さん。それは、お仕事の範囲を超えています。……お見合いの席、セットしました。今度の土曜日、清澄白河のカフェです。……プロとして、私は貴方の成婚を全力でサポートします」
私は、彼の胸元をドンと押し返した。
硬い。岩のような大胸筋。
その感触が、余計に私の心を乱す。
「……期待しているよ、斉藤相談員。君が選んだ『最高傑作』、拝見させてもらおう」
慎治は、不敵な笑みを浮かべて去っていった。
残された私は、重いバーベルを握りしめ、天を仰いだ。
(……バカ。私のバカ)
なんで、あんなに自信満々に勧めてしまったんだろう。
今の私は、芽生えたばかりの自分の恋心を11号の壊れたファスナーと一緒に、ゴミ箱に捨ててしまったようなものだ。
更衣室に戻り、私は鏡の前で自分の姿を見つめた。
トレーニングで赤くなった顔。少し乱れたポニーテール。
そして、どんなに鍛えても、香坂麗奈のような「華奢な美しさ」には届かない、この骨太な体躯。
「……いいわよ。これが私なんだから」
私は、無理やり口角を上げた。
11号のスカートを再び穿き、安全ピンを慎重に留める。
土曜日、お見合い。
私は立会人として、その場にいなければならない。
自分の心の声を解き放ってしまいたいと願っている自分を抑えながら。
けれど、私は公務員。江東区の未来のために、私はこの「地獄のお見合い」を、成功させなければならないのだ。
大島の夜は、いつもより少しだけ、鉄の味がした。




