第9章:11号、沈黙の限界突破
第9章:11号、沈黙の限界突破
「……っ、ふんっ! ぬぅぅぅ……!」
二週後の水曜日の朝。江東区大島の自宅マンション。
私は、全宇宙の重力を下腹部の一点に集約させるような心持ちで、姿見の前に立っていた。
右手にファスナーの引き手、左手にウエストの端。
その間にあるのは、わずか2センチの「絶望」という名の隙間だ。
「嘘よ……。昨日、あんなに走ったのに。プロテイン用の牛乳も低脂肪のものに変えたのに。……なんで、昨日より、その、存在感が増してるのよっ!」
グイ、と強引に引き上げる。
布地が悲鳴を上げ、ファスナーの金具が火花を散らしそうなほどの摩擦音を立てる。
ようやく。
本当に、ようやく。
「カチリ」とホックがはまった。
「今日は安全ピンが必要だな……」そう思い、ファスナーとホックのところに安全ピンを裏止めした。
けれど、鏡に映る自分の姿は、もはや「事務職」のそれではない。
コンプレッションウェアも真っ青なほどに張り詰めた11号のスカート。
これまで三回参加した教室を通じてアーチェリーの捻転運動で絞られたウエストに対し、慎治のスパルタ指導でパンパンにパンプアップした大臀筋が、物理法則を無視したアーチを描いている。
「……これ、座れるかしら」
試しに、膝を軽く曲げてみる。
ギチッ。
……不穏な音が、ワンルームの部屋に虚しく響いた。
今の私は、いわば安全ピンという名の信管を抱えた爆弾だ。
一度でも激しい動きをすれば、このピンは木っ端微塵に弾け飛ぶだろう。
「……いいわよ。今日は一日、ペンギン歩きで通してやるわ」
私は、膝を一切曲げない特殊な歩行法で、江東区役所へと出陣した。
*
「……斉藤さん。あんた、今日なんだか歩き方が……こう、相撲取りの土俵入りみたいね」
午前10時。恋愛成就課(RAJ)の執務室。
お茶を啜りながら、ベテラン同僚の園田恵さんが、眼鏡の奥の鋭い目を光らせた。
園田さんは勤続25年。この課の生き字引であり、数々の修羅場を潜り抜けてきた「お局様」だ。
「……え、あ、園田さん。気のせいですよ。最近、江東区の坂道を歩きすぎて、少し、その、脚の付け根が活性化しておりまして」
「坂道ってうちの区にあったっけ? ……活性化? あんた……そのお尻のボリューム、どうしたの? 制服、特注サイズに替えた方がいいんじゃない? 後ろから見ると、もう『山』が動いてるみたいよ」
「や、山……!?」
私はショックで、デスクに置いていたクリップの山をひっくり返した。
いけない。ここで深く前屈みになれば、確実にホックが宇宙に還る。
私は背筋をピンと伸ばしたまま、膝を曲げずにゆっくりとクリップを拾い上げた。
「……いいえ、園田さん。これは11号です。私は11号の斉藤美緒なんです。サイズを上げることは、公務員としての『規律』を失うことと同義なんです!」
「……よくわからないけど、無理して弾けたら始末書ものよ。気をつけなさいよ」
園田さんが呆れたように去っていく。
(園田さん……ピーマンだな……貴女には分かるまい!)
隣の席で、青山愛がクスクスと笑いながら小声で囁いてきた。
「美緒さん、もう諦めて13号にしましょうよ。私、カタログの『ゆったり設計・ウエストゴム仕様』のページに付箋貼っておきましたから」
(おい小娘! 黙ってろ)
「ウエストはまだ余裕あんだから(いや、無いけど)! 余計なお世話よ、青山さん! 私は……私はまだ、この限界の向こう側にある『機能美』を信じてるんだから!」
そう、瀬戸慎治が言ったのだ。
『君のその大臀筋を、最強の土台にしろ』と。
彼に認められたこの肉体を、サイズアップという名の妥協で隠したくない。
……なんて、あんな傲慢男の言葉を拠り所にしている自分に、私は改めて戦慄した。
*
そんな「制服との冷戦」を繰り広げていた午後のこと。
RAJの重い自動ドアが、静かに、けれど圧倒的な気品を纏って開いた。
カツ、カツ、カツ。
大理石の床を叩く、計算し尽くされたようなヒールの音。
現れたのは、江東区役所の、ましてや「少子化対策」の窓口には似つかわしくない、一輪の薔薇のような女性だった。
艶やかな黒髪、陶器のような肌。
そして、何よりも目を引くのは、その驚異的な「細さ」だ。
ウエストは私の半分くらいしかないのではないかと思わせる、7号……いや、5号サイズかもしれないタイトなワンピースを、彼女は完璧に着こなしていた。
「……失礼いたします。瀬戸慎治様の、担当相談員の方はどなたかしら?」
鈴を転がすような、透き通った声。
青山愛が、ポカンと口を開けて固まっている。
私は、プロのプライドを奮い立たせ、ペンギン歩きで彼女の前に立った。
「……私が、担当の斉藤でございます。ご相談でしょうか?」
女性は、私を上から下まで……特に、私の「張り裂けんばかりの11号」を、わずかに眉をひそめて見つめた後、優雅に名刺を差し出した。
「香坂麗奈と申します。港区で社長秘書をしております。……瀬戸様とは、以前、パーティーでお目にかかりまして」
香坂麗奈。
その名を聞いた瞬間、私の脳内データベースが瞬時に反応した。
東陽町駅でチラシをぶちまけた、あのイベントの参加予定リスト。
「港区在住・ハイスペ女子枠」で、運営側が一番の目玉として期待していた女性だ。
「……香坂様ですね。瀬戸様のマッチングについてのご相談でしょうか?」
「ええ。単刀直入に申し上げます。彼のような方に相応しいのは、行政の……その、事務的な紹介ではなく、私のような、彼の世界を理解できる人間だと思うの」
麗奈は、私のデスクに置いてあった瀬戸慎治のファイルに、スッと指を置いた。
その指先には、完璧なフレンチネイル。
私の、ダンベルとプロテインシェイカーの振りすぎでわずかに硬くなった手のひらとは、正反対の世界。
「瀬戸様は、効率と合理性を重んじる方。……斉藤様、貴女のその……少し『無理をされている』お姿では、彼の美意識についていけないのではないかしら?」
「…………っ」
「無理をしている」……。
それは、11号のスカートのことか? それとも私の存在そのもののことか?
麗奈は、勝利を確信したような微笑みを浮かべ、さらに追い打ちをかけてきた。
「彼から伺いましたわ。最近、アーチェリーに熱心な『熱心な生徒』がいると。……でも、スポーツと結婚は別物。彼に必要なのは、共に汗を流す仲間ではなく、彼の隣で静かに輝く宝石ですの。……分かりますわね?」
「……香坂様」
私は、深く、深く息を吸い込んだ。
11号のホックが、悲鳴を上げてギシギシと震える。
けれど、私は逃げなかった。
「……瀬戸様が何を求めておられるか。それを判断するのは、瀬戸様ご自身です。私は相談員として、全ての可能性を平等に扱う義務がございます。……香坂様、瀬戸様との面談をご希望であれば、正式な手続きを。……江東区のルールに、港区の流儀は通用いたしませんわ」
麗奈の瞳に、一瞬だけ鋭い光が宿った。
「……面白い方ね。公務員の矜持かしら、それとも……ただの執着?」
彼女は、翻るワンピースの裾とともに立ち上がった。
「いいわ。正式にエントリーさせていただきます。……斉藤様、そのスカートが弾ける前に、結論が出ることを祈っておりますわ」
彼女が去った後、RAJにはしばらくの間、嵐の後のような静寂が流れた。
「……美緒さん。今の、完全に宣戦布告ですよね?」
青山が、震える声で言った。
私は、デスクにしがみつくようにして、ようやく肺の中の空気を吐き出した。
「……分かってるわよ。香坂麗奈。非の打ち所がない、真の『ハイスペ女子』ね」
私の大臀筋は、悔しさで強張っていた。
彼女のような女性が隣に立つのが、瀬戸慎治にとっての「合理的」な正解なのかもしれない。
あんな男、麗奈みたいな美人に押し付けて、私は早く「11号の呪縛」から解放されればいい。
……そう思えば思うほど、胸の奥が、片足でスクワットしているような重苦しさと不安定さに支配される。
「……まだよ。まだ、負けたわけじゃないわ」
私は、引き出しから一本の安全ピンを取り出した。
綻びかけたスカートの裾を、力強く留め直す。
まだ、11号は死んでいない。
私の「お仕事」も、まだ終わっていない。
その日の夜。
私は、吸い寄せられるように、大島の「シルバーマンジム」の門を叩いていた。
「……あ、斉藤さん。本当に来たのか」
ジムの入り口。トレーニングを終えてプロテインを飲んでいた慎治が、驚いたように私を見た。
私は、彼の手をガシッと掴んだ。
「瀬戸さん! 私を、今すぐ追い込んでちょうだい! 香坂麗奈に負けない……いえ、11号を粉砕するくらいの、最高のメニューを今すぐ!」
「……何の話だかさっぱりわからんが。……いいだろう、斉藤さん。君のその『飢え』た眼光、嫌いじゃない」
慎治が、不敵に笑う。
江東区の夜、鏡張りのジムの中で、私の新しい戦いが幕を開けた。
香坂麗奈というライバルの出現。そして、崩壊寸前の11号スカート。
恋と筋肉の迷宮は、さらに深く、激しく、私を追い込んでいくのだった。




