第8.9章:TLの衝撃!薔薇色の劇薬!
第8.9章:TLの衝撃!薔薇色の劇薬!
「……青山さん。貴方、今日という今日こそは、徹底的に追い込んであげるから覚悟しなさい」
月曜日の午前九時。江東区役所・恋愛成就課(通称:RAJ)の執務室に、私の地獄の底から響くような低音ボイスが厳かに響き渡った。
私のターゲットは、隣の席で必死におにぎりを口に詰め込み、ハムスターのように頬袋を膨らませている二十二歳の新人、青山愛だ。
「ふ、ふえっ!? み、美緒さん、朝から目が完全に『デッドリフトの限界重量を素手で引きちぎろうとしている顔』になってますよぉ!」
「誰のせいだと思っているのよ、誰のせいだと!」
私は引き出しからクリップの山をひっくり返さんばかりの勢いで掴み取り、デスクの下で腹直筋をキュッと収縮させた。その瞬間、11号のタイトスカートが「ギチッ」と不穏な悲鳴を上げる。
思い出すだけで、私の大臀筋が怒りのパンプアップを起こしそうだ。先週金曜日の夜の、あの人生初の合コン。青山が私の恋愛バイブルを『ちゃお』だの『別マ』だの盛大に煽り倒し、おまけに「男性の免疫ゼロ」だの「壁ドンのデモンストレーション」だの火に油を注ぎまくったせいで、私は恥ずかしさのあまり東陽町の居酒屋からシルバーマンジムへと全力疾走する羽目になったのだ。
「あのね、青山さん。公務員としての規律的にも、先輩のプライベートな戦闘力(恋愛偏差値)を職場で暴露するのは、著しい越権行為よ!」
「は、はひぃ! 申し訳ありませんでしたぁ! 悪気はなかったんです、ただピュアな美緒さんが弄られるのが可愛くて、ついバフを盛りすぎちゃいましたぁ!」
青山は涙目で両手を合わせると、周囲の職員(園田さん含む)にバレないよう、自分のデスクのバッグから「ある物」を素早く取り出し、私のデスクの上へとシュッとスライドさせてきた。
「……何よ、これ。貢ぎ物ならプロテインバーか低脂肪乳にしなさい」
「違います! 私の血と涙の結晶、人生のバイブルにして最高峰の『栄養素』です! 少女漫画のぬるま湯知識で現実の筋肉ダルマ(瀬戸様)と戦おうとする美緒さんに、大人のプロトコルを強制インストールするための特効薬ですっ!」
差し出されたのは、きらびやかで妖艶な表紙が描かれた、数冊の薄い文庫本だった。
スーツを着た切れ者の男が、今にもはち切れそうなシャツの胸元を晒し、華奢な女性を後ろから強引に抱きしめている。帯には不穏なフォントで『敏腕社長の強引な夜』『狂愛・極道の檻』などと書かれていた。
「……TL? ティーエルって何よ。タイムラインの略?」
「違います、ティーンズラブです! 美緒さん、いいですか。これは『別マ』の夕日に向かって綺麗なハッピーエンド、みたいな生ぬるい世界線じゃありません。大人の、その、実戦の手順が、解剖学的に見て非常に詳しく、かつ情熱的に描写されている聖書なんです!」
「ティーン用なんでしょ?別マと変わらないじゃない」
青山は首を横に振りながら、ゴクリと唾を飲み込み、真剣な目で囁いた。
「これを読めば、美緒さんの脳内恋愛ポートフォリオは一気に最新版にアップデートされますから! だからお願いですから、今日の定時後のスクワットの回数を減らしてくださいぃぃ!」
「……よくわからないけど、業務に戻りなさい。没収よ」
私はふん、と鼻を鳴らし、その謎の『TL』という本を事務カバンの一番奥へと押し込んだ。
*
その日の深夜。
大島のワンルームマンションのベッドの上で、私はプロテインシェイカーを片手に、パジャマ姿で寝転がっていた。
平日の夜のロードワークを終え、シャワーを浴びて筋肉を休めるためのゴールデンタイム。普段なら持ち帰りの残業をこなしているか、スマホで『大臀筋 効率的 筋肥大』と検索している時間だ。
しかし、なぜだかカバンの奥から覗いていた、あの青山の貢ぎ物の表紙が、妙に気になって仕方がなかった。
『別マ』の知識しか無い、と馬鹿にされた悔しさが、私の指先を動かした。
「……ちょっとだけよ。お仕事(RAJの相談員)の資料として、今の若い女性のトレンドをリサーチするだけなんだから」
そう自分に言い訳をしながら、一冊目の『独占欲の強い副社長は、新入社員を夜ごとに啼かせる』という本をめくった。
一頁、二頁。
……そして、私の指は止まらなくなった。
「な、何、何よこれ……!? 知らない世界が、解剖学的に見てとんでもない解像度で書いてある……っ!」
プロテインを飲むのも忘れ、私はベッドの上で身悶えした。
そこには、少女漫画のような「手を繋いでドキドキ」なんてプロセスは完全に省略されていた。出会って数頁で、スーツを着たスパダリ(副社長)が、ヒロインをオフィスのデスクの上で強引に押し倒し、衣服のホックを物理的に粉砕し、そのまま大人のメインディッシュへと突入していたのだ。
「でも……スパダリが好きなのは分かるわ。顔が良いし、仕事ができるし、何よりこの……服の上からでもわかる大胸筋と腹直筋の描写、トレーニーとして非常に評価できるわね……」
私はページをめくるスピードを上げた。完全に脳内物質が過剰分泌されている。
しかし、二冊目、三冊目を読み進めるうちに、私の脳内相談員(RAJ主任)としての冷静なツッコミが止まらなくなってきた。
「ちょっと待って。なんで出てくるスパダリが、どいつもこいつも『鬼部長』か『冷徹な経営者』か『インテリ反社』のどれかなのよ!? 異世界の王子や勇者なら、階級社会としてのファンタジーだからまだ理解できるわよ? なのに、現代の日本社会において、なんでこんなに反社会的勢力やパワハラ上司がのさばっているのよ!」
しかも、全員が例外なく『絶倫』だった。
一晩に何度も最大出力を叩き出し、ヒロインの可動域を限界まで広げるようなポージング(夜の営み)を要求し、翌朝は何食わぬ顔で高級三つ揃えのスーツを着てプレゼンに臨んでいる。
「おかしいわ。どんなにテストステロン値が高くても、一晩にこれだけの高強度インターバルトレーニング(有酸素かつ無酸素運動)を繰り返したら、翌朝は乳酸が溜まりすぎて横隔膜の拡張すら困難なはずよ! 超回復のプロセスを完全に無視しているわ! この男たちの栄養戦略はどうなっているのよ!?」
私はベッドの上で枕をバンバンと叩いた。
非科学的だ。あまりにも非効率で、非合理的だ。
なのに……。
私の胸の奥の心拍数は、最大負荷のスクワットをやった時よりも、激しく、うるさく、ドクドクと脈打っていた。
ページに描かれた、男の骨張った大きな手が、ヒロインの細いウエストを強引に掴み、耳元で低く「お前は俺だけのものだ」と囁くシーン。
その「大きな手」の描写に、私の脳裏が、どうしてもあの窓口で書類を突きつけてくる男の、あのアーチェリー場で背後から骨盤をグイと直してくる男の、瀬戸慎治の姿を重ねてしまっていた。
「……バカ。私のバカ。何考えてるのよ、あんな変態クレーマー相手に!」
私は慌てて本を閉じ、布団を頭から被った。
知らない世界の衝撃(TLバフ)は、ピュアな私の少女漫画脳を完全に汚染し、私のインナーマッスルを奇妙な熱さで強張らせていくのだった。
*
翌日の土曜日、午後一時。
江東区夢の島、『BumB東京夢の島スポーツセンター』のアーチェリー場。
五月の爽やかな風が芝生を揺らす中、私は貸し出し用のリカーブボウを握りしめ、射座に立っていた。
まだ付き合っているわけでも、関係が深まっているわけでもない。あくまで私はRAJの相談員として彼の「市場価値」を測るため、そして彼は私を「ポテンシャルを使いこなせていない個体」として指導するため、この土曜の特訓は不自然な規律を保ったまま続けられていた。
「……姿勢が崩れているぞ、斉藤さん。また腹圧が抜けている」
背後から、鼓膜を心地よく震わせる、あの低く、温度のない、けれど芯の通った声が降ってきた。
振り返るまでもない。瀬戸慎治だ。
今日も乱れのない白いポロシャツにアームガードを装着した彼は、音もなく私の背後に回り込んだ。
「腰を反らせるなと言ったはずだ。下半身の『土台』が狂えば、矢の弾道はミリ単位で狂う。……特に、君のその大臀筋だ。もっと内側に締めろ」
慎治さんの大きな、ゴツゴツとした熱い手のひらが、私の腰骨のあたりに添えられた。
トレーニングレギンス越しに伝わる、彼の指先の形。
その瞬間。
昨夜、ベッドの上で読み耽った『TL』の不純なフレーズが、私の脳内で爆発的なケミカル反応を起こした。
(……『お前の身体は、指先ひとつでこんなに緊張するんだな』……って、ひ、副社長が言ってたやつ――!!)
「……っあ!」
変な声が出た。私の全身の筋肉が瞬間的に硬直し、弓を引く腕がブルブルと震える。
「どうした、斉藤さん。僧帽筋が異常な緊張を起こしている。呼吸が浅いぞ、横隔膜を安定させろ」
慎治さんは眉をひそめ、さらに距離を詰めてきた。
彼の厚い大胸筋の鼓動が、私の背中に布地越しに触れるか触れないかの至近距離。
石鹸と、わずかなプロテイン、そして彼自身のストイックな生き様が凝縮されたような、あのひりつくような緊張感の匂いが鼻腔をくすぐる。
(……だ、ダメよ。冷静になりなさい、私! 彼は鬼部長でも反社でも異世界の王子でもない、ただの合理的変態商社マンよ!?)
頭では分かっているのに、TLによってアップデートされてしまった私の少女漫画脳は、勝手に最先端の暴走を始めていた。
もし、今。
この誰もいないアーチェリー場で、この男が、あの本に書いてあったみたいに、私の顎をその太い指先でグイと持ち上げて(顎クイ)、冷徹な瞳で私を見つめながら、「お前の市場価値は、俺の手の中でしか上がらない」なんて、低音ボイスで囁いてきたりしたら――。
ドォォォォォン!!!
私の脳内で、前代未聞の爆発が起きた。
世界が一瞬にしてピンク色の霧に包まれ、そこら中から大量の薔薇の花びらが吹き荒れる。
あまりの薔薇の物量(グラフィックの暴力)のせいで、その先の、彼と私がどうやって唇を重ねるのか、具体的にどうやってメインディッシュへと突入するのかという『肝心な詳細』は、画面が真っ白になってしまって全く見えない。
ただ、薔薇の花びらの隙間から、彼のあの整いすぎた黄金比の顔立ちが、信じられないほど優しい笑みを浮かべて近づいてくる幻影だけが見える。
「……っ、う、あ、頭に乳酸が溜まる――!!」
「斉藤さん? 何を訳のわからない代謝物質の名前を叫んでいる。……おい、まだリリースするな、まだエイミング(狙い)が定まっていない!」
(放せ(リリース)ーーー!!)
私はパニックのあまり、限界まで引き絞っていた弦を、力任せに放してしまった。
パァン!!
乾いた音が響き、放たれた矢は的の遥か上をマッハの速度で飛び越え、屋根を支える木の支柱に刺さっていた。
「…………」
アーチェリー場に、重苦しい静寂が流れた。
慎治さんはゆっくりと手を私の腰から離し、突き刺さった矢の方向と、顔をドイエーの特売の紅鮭よりも真っ赤にして肩で息をしている私を、交互に見つめた。
「……驚いたな。初心者の三週目にして、これほど初歩的な『フォームの全壊』を見せられるとは。斉藤さん、君の今日の集中力は、マイナスの相関関係だ。脳内のリソースが、別の不純なデータによって占領されているな」
慎治さんは、ふん、と鼻で笑い、腕を組んだ。その横顔は相変わらず不快なほどに美しく、機能的だった。
「……誰のせいだと思っているのよ、この筋肉バカ!」
私は震える腕で弓を彼に押し付けると、走って更衣室へと逃げ込んだ。
ジャージに着替えながら、私は鏡の前で自分の上気した顔を見つめた。
(……ノーカウントよ。今の妄想も、昨夜の本の知識も、すべて私の公務員としての守秘義務外のエラーよ!)
彼と私は、まだ付き合ってもいないし、関係が深まっているわけでもない。
なのに、私の大臀筋の下で、私の腹直筋の内側で、あの男の「大きな手」の感触が、どうしても消えない熱となって残り続けていた。
青山の持ってきた『TL』という名の劇薬は、私のピュアな心に、ターゲット(慎治)を射抜くための、あまりにも凶悪なバフを盛ってしまったらしい。
*
更衣室を出ると、受付の前で、慎治さんが私の分のプロテイン(低脂肪乳割り)を持って、相変わらずのモデルのような立ち姿で待っていた。
「……斉藤さん。今日の分のフォームの乱れは、今夜のシルバーマンジムでのラットプルダウン3セットで矯正する。サボりは許さんぞ」
「……言われなくても、行ってあげるわよ!」
私は彼からプロテインをひったくるように受け取り、わざと強い足取りで歩き出した。
少女漫画の『別マ』にも、大人の『TL』にも、こんな「プロテインで会話を終わらせる」ような不器用な二人の距離感は載っていなかったけれど。
この、まだ名前もつかない、ひりつくような心拍数の高鳴りこそが、私と彼の『適合』へ続く、唯一の不確実な真実なのだと、私はボトルを激しくシェイクしながら、薔薇の花びらを振り払うように思うのだった。
(その前に、青山! お前の不埒な本は全没収よっ!)




