第8.7章:百合の園への誘い!美緒危機一髪!
第8.7章:百合の園への誘い!美緒危機一髪!
「……最悪だわ。私のタイムマネジメントが、物理的なエラーによって完全に崩壊していく……」
金曜日の午後八時三十分。大島の『シルバーマンジム』の女子更衣室の奥、シャワーブースへと続く通路で、私は心の中で激しいスクワットを繰り返していた。
この日は、女性用シャワーブース全八個のうち、あろうことか三個が排水管のトラブルで同時故障。金曜の夜という最も混雑する時間帯も重なり、ブースの前には信じられないほどの「全裸、あるいは半裸の列」が出来上がっていた。
普段なら、きっちりと自宅からマイスポーツタオルを持参する私だが、今日は役所の残業帰りにバタバタと駆け込んだため、バッグの底に眠っていた小さなフェイスタオル一枚しか手元になかった。
周囲の女性たちは、慣れた様子で大判のバスタオルを体に巻き、あるいは潔く生まれたままの姿で堂々と順番を待っている。
翻って、私はどうか。
横幅三十センチ、縦幅八十センチのちっぽけなフェイスタオル。これで前(主に恥骨と腹直筋エリア)を隠すのが精一杯だった。
つまり、慎治さんのスパルタなアーチェリー指導によって爆発的な進化を遂げ、今や「13号」を買おうかどうかネットショップのページで苦悶する程、はち切れんばかりに主張する私の『大臀筋』は、今、完全に夜のジムの空気に無防備に晒されていた。
「……ジムで鍛えていても、女の身体もまちまちね」
ふと、私の二つ前に並んでいる女性の、見事なプロポーションが目に留まる。
その豊かな大胸筋の膨らみを見た瞬間、私の脳裏に、つい一週間前にRAJの窓口へ突進してきたあの『ホルスタイン7号』こと牛嶋春菜の姿が呼び起こされた。
(……出会ったその日にタワマンへ消えて、一週間で成婚退会届……)
デイトレーダー金田様の「資産八億」という圧倒的な決済スピード。そして、二時間のインテリアの打ち合わせという名目で、前菜(牛タン炙り)の後、「スープ」や「魚料理」をすっ飛ばしていきなりメインディッシュ(本番)へと突入したであろう、あの二人の肉食っぷり。
思い出だすだけで、フェイスタオルを握る指先にじっとりと汗が滲む。
(……メインディッシュって、具体的に何をするのよ……。やっぱり、こう……お互いの最大心拍数を極限まで追い込み合うような、激しい有酸素運動なのかしら……!?)
悶々とした思考がループする。
情けないことに、私は中学から大学と完全なる女子校育ち。中高は陸上にすべてを捧げ、大学の四年間は、ただただ、怠惰に過ごした。社会人になってからはパツパツの11号スカートのホックと戦う毎日だった。
つまり、男性との交際経験は文字通りの『ゼロ』。知識としては役所のデータベースで成婚率やデータを扱っているものの、実技における具体的なイマジネーションが、致命的なまでに機能していなかった。
慎治さんとは何度も至近距離で大臀筋や広背筋を触れ合わせているが、あれはあくまで解剖学的なフォームの矯正だ。……いや、本当にあれだけで終わるものなのかしら?
脳内が煩悩のオーバーロードを起こしかけていた、その時だった。
「……っ!?」
突如、私の無防備な大臀筋の右側のアーチに、ツ、と、指先が這うような感触が走った。
それは、慎治さんのゴツゴツとした、力強く骨張った「フォームの矯正」とは明らかに違う。
信じられないほど滑らかで、柔らかく、それでいて意図的に私の筋肉の弾力を愉しむような、ひどく艶っぽい愛撫の手つき。
「……ひゃ、あ」
変な声が出た。私は飛び上がりそうになるのを腹直筋の緊張で必死に抑え、恐る恐る後ろを振り返った。
そこに立っていたのは、バスタオルを胸元できっちりと巻いた、スレンダーな美女だった。
濡れた黒髪が白い鎖骨に張り付き、涼しげな切れ込みの入った瞳が、いたずらっぽく細められている。筋肉がつきにくい体質なのか、余計な脂肪が一切ない、さながら欧米のファッション誌に出てくるモデル体型の女性だった。
「ごめんなさいね。あまりにも見事な大臀筋だったから、つい触れてみたくなっちゃって」
美女は、私のフェイスタオルからはみ出している下半身を、ウットリとした目で見つめてきた。
「私はここに長く通っているけれど、貴方ほど誠実で、引き締まったお尻を見たことがないわ。私、どんなにウエイトをやっても筋肉がつかない体質だから、貴方のその……爆発的な生命力が、本当に羨ましい」
「は、はあ……。ありがとうございます……?」
まさかシャワー待ちの列で同性から解剖学的な称賛を受けるとは思わず、私は困惑する。
「私、凛って言うの。ねえ、この後、シャワーが終わったら、近くのイタリアンで一緒にご飯でもいかが? 貴方のその身体の作り方、もっと近くで聞かせてほしいわ」
凛と名乗った美女は、至近距離まで顔を近づけ、潤んだ瞳で私を見つめた。
普通なら、ハイスペックな美女からの食事の誘いだ。喜んで応じるところかもしれないが、私の脳内相談員は即座にアラートを鳴らした。
「あ、申し訳ありません、凛さん。私、現在は徹底した『カロリーコントロール(PFCバランス最適化)期間中』ですので、夜のイタリアンの脂質と炭水化物の暴力は、現在の私の筋肉が受け付けないのです」
私は口角を15度のプロの笑みに固定し、丁寧に却下した。
「そう……残念ね。でも、ストイックなところも素敵だわ」
凛さんは、どこか名残惜しそうに指先を私の腰から離した。
その日は、そのまま何事もなくシャワーを浴びて帰宅した。
……そう、その日『は』。
*
翌日の土曜日。同じく夜の八時。
まさかの悪夢は連日続いた。シャワーブースの修理は週末のため業者が入らず、故障個数は三個のまま。そして、私は今日も残業帰りでフェイスタオル一枚という、全く学習能力のないコンディションで、再び肉の絨毯の列に並んでいた。
(……今日こそは、早く浴びて帰って、鶏胸肉を60℃で茹でるのよ……)
昨日の一件で少し警戒していた私は、インナーマッスルに常に腹圧をかけ、周囲に防御のオーラを放っていた。
だが、その防衛ラインは、背後から音もなく接近した『達人』によって、いとも簡単に無力化された。
ふわり、と、甘い、けれどどこか危険なジャスミンの香りが鼻腔をくすぐる。
「……あ」
次の瞬間、私の背中に、信じられないほど柔らかく、温かい質量がピタリと密着した。
背後から優しく、けれど逃がさないように両腕を回され、私は完全に抱きしめられていた。
「また会えたわね、私の可愛いオシリーナちゃん」
耳元で、低く、湿った吐息が吹きかけられる。昨日の美女――凛さんだ。
彼女の細い指先が、私のフェイスタオルで隠しきれないウエストのラインを滑り、そのまま下腹部の腹直筋を優しく撫で上げる。
「な、何をするんですか……! ここは公共の……っ」
「静かに。後ろの人たちが驚いてしまうわよ?」
凛さんの唇が、私の耳たぶに軽く触れる。その瞬間、私の頭の芯が、ベンチプレスで限界の重量を挙げきって脳内物質がドバドバと出た時のように、カァッと熱くなった。
女子校育ち、交際経験ゼロのピュアな斉藤美緒の防衛システムは、この同性からの濃厚すぎるアプローチに対して、完全にバグを起こしていた。
「シャワー、まだ並ぶみたい。ねえ……次のブースが空くわ。……一緒に浴びない?」
耳元で囁かれる、甘い毒薬のような誘い。
断らなければ。公務員の矜持として、そして慎治さんのトレーニングパートナーとして、こんな不純なプロセスに乗ってはいけない。
頭では分かっているのに、凛さんの指先が私の腰の中殿筋を優しく揉みほぐすたび、私の身体から完全に骨組みが抜き取られていくような、奇妙な感覚に襲われる。
「……あ、う……」
「いい子ね。さあ、こちらへ」
とろけてしまった私は、抵抗する筋力(出力)を完全に失い、なすがままに凛さんの手によって、空いた一つのシャワーブースの中へと連れ込まれてしまった。
がちゃり、と、狭い個室の鍵が閉まる。
上から降り注ぐ、熱いお湯のミスト。
狭い空間の中、フェイスタオルすらも濡れて肌に張り付く。
「貴方の身体、本当に綺麗。……私が、優しく洗ってあげるわね」
凛さんは、私の手からフェイスタオルを滑り落とすと、自分の手のひらにボディソープをたっぷりと泡立てた。
そして、その信じられないほど滑らかな手のひらで、私の全身を直接、洗い始めたのだ。
「……んっ、あ……」
首筋から、鎖骨、そしてアーチェリーで酷使した広背筋の深層。
彼女の手が私の筋肉の繊維をなぞるたび、私の脳みそは完全に、間違って数時間煮込んだブロッコリーのように、ドロドロに溶け去っていった。
思考が働かない。金田とホルスタインのメインディッシュって、もしかして、こういう……こういう、脳の構造を根本から破壊されるような快感のことだったの!?
「美緒ちゃん……可愛いわ。……この後、私の部屋に来てくれるわね?」
「……は、はい……お部屋、に……」
完全に洗脳されたロボットのように、私はコクコクと頷いていた。
凛さんは満足げに微笑むと、手際よく私をシャワーで流し、更衣室で私に服を着せ(私は自分がどうやってジャージを着たのかすら記憶にない)、私の手首をしっかりと掴んで、更衣室の出口へとエスコートした。
(……ああ、私はこのまま、百合の園へと出荷されていくのね……。さようなら、江東区役所……さようなら、私の11号スカート……)
脳内がピンク色の霧で満たされたまま、ジムのロビーへと一歩を踏み出した、その時だった。
「……そこまでだ」
大理石の床を叩く、一分の隙もない、地鳴りのような低い声。
視界の霧が、その声の「圧倒的な圧力」によって一瞬で吹き飛ばされた。
更衣室の出口、仁王立ちで立ち塞がっていたのは、黒いタンクトップ姿で、腕組みをしたまま凄まじい大胸筋を震わせている男――瀬戸慎治だった。
「……し、慎治、さん……?」
私の口から、ようやく正気が戻った声が出る。
慎治さんは、私を連れている凛さんの前に一歩踏み出すと、その高い身長から、冷徹極まりない眼光を浴びせかけた。
「……シルバーマンジムの『百合の女王』、浅田凛だな。……その子を離せ。彼女は江東区役所の高潔な公務員であり、俺の成婚担当相談員であり……そして何より、俺の『トレーニングパートナー』だ!
「あら、瀬戸慎治」
凛さんは、慎治さんの凄まじい威圧感を前にしても、フッと妖艶に笑うだけだった。
「噂の商社マンさんじゃない。彼女のこの素晴らしい大臀筋を、貴方みたいな無骨な男が独占しているなんて、ありえない損失だわ。彼女は今夜、私の部屋で、私からの『徹底的なトリートメント(愛撫)』を受けることになっているの。邪魔をしないで」
「トリートメントだと? 筋肉の修復に必要なのは、過度な皮膚への摩擦ではなく、完全な安静と質の高いたんぱく質の摂取だ!」
慎治さんは一歩も引かない。その背中から、オーラのような広背筋の広がりが視覚的に膨張していく。
「そういうマンスプレイニングは飽き飽きだわ。止めてちょうだい」
「ほほぉ、ジェンダー論を始める気か」
「貴方……面倒くさそうだから止めとく。でもここからは女だけの時間よ」
「彼女の現在のPFCバランスを管理しているのは俺だ! 不純な脂質や、感情の乱れによるカタボリック(筋肉分解)を引き起こすような真似は、俺のマネジメントが許さん! 今すぐその手を離さなければ、俺がこの場で、君の可動域を限界を超えて広げるような、強烈なストレッチ(関節技)を施すことになるぞ!」
ロビーの受付のスタッフたちが「ひぇっ……」「瀬戸様が怒った……」とガタガタ震え始める。
凛さんは、しばらく慎治さんの岩のような大胸筋と、その瞳にある「1ミリの妥協もない狂気」をじっと見つめていたが、やがて、つまらなそうに肩をすくめた。
「……チッ。アンタが相手じゃ、肉体的な出力の部が悪すぎるわね。……せっかく、最高の個体を見つけたと思ったのに」
「じゃあね、美緒ちゃん。今回は諦めるわ。……でも、最後にこれだけは、俺の『利子』として貰っていくわね?」
「え?」
回避する間もなかった。
凛さんはルンバでも踊るかのように、軽々と私の身体をくるりと回したかと思うと、しなやかで目にも留まらぬスピードで私の至近距離、目前に踏み込み――。
ん、と。
私の唇に、信じられないほど柔らかくて、温かい、そして微かにジャスミンの香りがする「肉質」が、ダイレクトに押し付けられた。
「…………っ!?!?!?!?」
私の脳内データベースのすべての回路が、大爆発を起こした。
時間にして、わずか一秒。
凛さんは、私の唇を完全に奪い去ると、呆然と立ち尽くす慎治さんと私に向かって、優雅に指先を振った。
「またね、私のオシリーナちゃん。次は、サウナの中で会いましょう?」
翻る黒髪とともに、百合の女王は、夜の商店街の闇へと風のように消え去っていった。
十五分後。大島の商店街の街灯の下。
私は、慎治さんの大きなジャケットに包まれたまま、ペンギン歩きすらおぼつかない足取りで、トボトボと歩いていた。
隣を歩く慎治さんは、未だに不機嫌そのものの顔で、プロテインシェーカーを握りしめている。
「……斉藤さん。君の危機管理能力の低さは、行政のインフラの脆弱性と同じだ。なぜ、あの女の接近を許した?」
「……うるさいわよ。こっちだって、女子校育ちの交際経験ゼロなのよ! あんな……あんな濃厚なアプローチ、想定外の負荷に決まってるじゃない!」
私は顔を真っ赤にして叫んだ。
唇に残る、あの柔らかい感触。
25年の人生で、一度も男性とすら経験のなかった、私の神聖なるファーストキス。
それが、まさかジムのシャワー室で出会ったスレンダー美女によって、物理的に強奪されるなんて。
「……瀬戸さん」
私は、自分の唇を手の甲でゴシゴシと拭いながら、地獄の底から響くような声で言った。
「今の……今のキスは、完全に『ノーカウント』だからね! 事故よ、事故! 私は江東区の公務員として、不可抗力による物理的接触と処理したから! 異論は認めませんわよ!」
「……フン。当然だ。データの不備によるエラー(ノイズ)は、ポートフォリオから即座に排除されるべきだ」
慎治さんは、フッといつもの傲慢な、けれどどこか安心したような笑みを浮かべると、私の肩をガシッと引き寄せた。
「……だが、オシリーナ。君のその『純潔のホック』を、最初に弾けさせるのは……この俺の役割だからな。そこは、一歩も譲るつもりはない」
真面目な顔で、とんでもないセクハラ(プロポーズ?)を告げる筋肉ダルマ。
「……っ、バカ! オシリーナ言うな! 本当に、デリカシーの欠片もない筋肉バカなんだから!」
私は赤面が限界突破し、彼の厚い大胸筋をドンと突き飛ばした。
ファーストキスを奪われた怒りと、彼に助けられた時の胸の奥の、激しいスクワットのような高鳴り。
私の人生の「的」は、百合の園に迷い込みそうになりながらも、やっぱりこの、世界一厄介で世界一愛おしい男の胸の中に、ガッチリと固定されているのだと、改めて戦慄するのだった。
江東区の夜風は、私の火照った唇を、どこまでも無慈悲に、優しく冷やしていくのだった。
(ん? オシリーナ???)




