第8.6章:速攻デイトレード!ホルスタイン7号の逆襲
第8.6章:速攻デイトレード!ホルスタイン7号の逆襲
「……ギ、ギチ、ギチチ……」
火曜日の午前十一時。江東区役所・恋愛成就課(通称:RAJ)の執務室に、私の下半身から不吉な「布地の悲鳴」が響き渡っていた。
最近の私は、瀬戸慎治さんによるスパルタなアーチェリー指導と日々のロードワークによって、ウエストのサイズ自体は確実に細くなってきていた。数値的な意味での「引き締め」には成功しているのだ。
しかし、問題はその『中身』だった。
ただ細くなったのではない。皮下脂肪が削げ落とされた代わりに、そこにはカチカチに鍛え上げられた「腹直筋」とインナーマッスルがズラリと整列していた。
そのため、呼吸を深く吸い込んだり、業務中に少しでもお腹に力を入れようものなら、鋼鉄のように硬化した腹筋が内側から容赦なく制服を押し広げる。
結果、11号のタイトスカートは、以前の「パツパツ」とはまた違う、まるで高圧ボンベを無理やり布で包んだような、いつ弾け飛んでもおかしくない物理的な危機感を常に孕んでいた。
「ふぅ……腹圧のコントロールって、バーベルを挙げる時より繊細だわ……」
私がデスクの下で静かに息を吐き出し、限界まで緊張したインナーマッスルをほんの少しだけ弛緩させようとしていた、その時だった。
「美緒さん! 大変です! RAJの防衛ラインが突破されました!」
隣の席の青山愛が、インカムを押さえながら、まるで怪獣映画のオペレーターのような緊迫した声を上げた。
「何よ、青山さん。また年収をサバ読んだクレーマー?」
「違います! レーダーに強烈な質量が引っかかりました! 以前、東陽町のカフェバーで瀬戸様に腕立て伏せを命じられて床でのたうち回った、あの『ホルスタイン7号』こと牛嶋春菜が、怒り狂ってこちらに突進してきます!」
「えっ!?」
ガシャーン! と、RAJの自動ドアがいつもより暴力的な音を立てて開いた。
受付のパーテーションをなぎ倒さんばかりの勢いで入ってきたのは、相変わらず細すぎる「7号」のウエストの上に、凶悪なまでのFカップを搭載した牛嶋春菜その人だった。
今日の彼女は、怒りで肩を激しく上下させており、その質量が歩くたびにダイナミックに揺れている。
「ちょっと! どなたが瀬戸慎治なんていう頭のおかしい筋肉ダルマを紹介したのよ! 責任者を出しなさい!」
春菜は、順番を待つための発券機など完全に無視し、私が男性相談員のカウンセリングを行っているブースへと土足同然で踏み込んできた。
「牛嶋様、ここは相談ブースです。他のお客様のご迷惑になりますので、まずは……」
「うるさいわよ! 聞きなさいよ、斉藤相談員!」
春菜は私のデスクをバンと叩いた。その衝撃で、私の腹直筋にキュッと力が入り、スカートのホックが「ピシッ」と不穏な音を立てる。私は必死でお腹を凹ませた。
「あの男、私を東陽町のオシャレなカフェバーに呼び出しておいて、何て言ったと思う!? 『腕立て伏せを一回でも出来たら付き合ってやる』よ!? おかげで私は、汚いカフェバーの床にワンピース姿で腹ばいにさせられて、周囲の客からもクスクス笑われて、信じられない恥ずかしめにあったのよ! あれは完全にセクハラ! パワハラ! 精神的ドメスティックバイオレンスだわ! 役所がこんな危険思想の脳筋男をのさばらせておいていいわけ!?」
弾丸のように放たれるクレーム。
しかし、私は至って冷静だった。むしろ、慎治さんが放った「自重を支える筋力がない、非合理的の極みだな」というセリフが容易に脳内再生され、笑いを堪えるのに必死だった。
「牛嶋様。瀬戸様の一連の言動につきましては、当課としても『極めて個性的かつ、解剖学的なアプローチが強すぎた』と認識しております。不快な思いをさせたことについてはお詫びいたしますわ」
私は口角を15度のプロの角度に固定し、冷徹に言い放った。
「ですが、ここは真剣に結婚を望む区民の皆様のための公的な窓口です。お怒りはごもっともですが、正式なクレーム、または再相談をご希望であれば、予約のお客様が優先となります。そちらの番号札をお取りになって、ロビーでお待ちいただけますか?」
「なっ……! 何よそのお役所仕事な対応は!」
春菜がキッと私を睨みつけた。
その時だった。
私のブースの対面に座り、先ほどから春菜の乱入によってカウンセリングを中断されていた男性客が、ゴクリと大きな音を立てて生唾を飲み込んだ。
「……す、素晴らしい」
「え?」
春菜が毒気を抜かれたような顔で、その男性を見た。
彼の名前は金田充、29歳。
外見は、お世辞にもパッとしない。ひょろひょろとした頼りない体躯に、少し度の強い眼鏡。お洒落とは無縁の、どこかくたびれたチェックのシャツを着ている。いわゆる「ヒョロガリのオタク系男子」だった。
しかし、彼のスペックは異常だった。
若くして独自のアルゴリズムを開発し、自宅のパソコン一台で稼ぎまくる、「資産八億円」の個人資産家。
だが、定職を持たない個人事業主(かつ投資家)という不安定な肩書きのせいで、民間の高級結婚相談所からは「信頼性に欠ける」と入会を断られた。
身長も百六十センチ台後半と、スペックの数字だけで判断されるマッチングアプリや街コンでは、フィルタリングで女性に一瞥もされずに全滅してきたという、RAJの隠れた「ワケあり最高峰」だった。
その金田充が、眼鏡の奥の瞳をギラギラと輝かせ、春菜の「Fカップ」に完全にロックオンしていた。
「あ、あの……! 僕は、僕は大賛成です! 女性が無理に腕立て伏せなんてする必要はありません! 女性の腕は、買い物袋を持ったり、僕の資産を運用して贅沢をするためにあるものです! 僕は……僕は、貴方のような、豊満で、重力に逆らうような美しい女性が、大大、大好物なんです!!」
直球すぎる「巨乳好き」の告白だった。
春菜は一瞬、不審者を見るような目で金田を見下ろした。
「……何よ、このヒョロガリ。急に話しかけてこないでくれる?」
すかさず、私の脳内データベースが勝利の方程式を弾き出した。
(……来たわ。ホルスタイン7号を、江東区の未来のために最も平和的に処理する、究極のマッチングが……!)
私はプロの笑みを深め、手元のタブレットをスッと春菜に見せた。
「牛嶋様。こちらの金田様、実は当課のデータベースにおける『最上位ランク』の会員様でございます。年齢29歳、自営のため平日の時間管理は自由、そして何より……現在のご本人の純資産は、【八億円】を超えていらっしゃいますわ」
「は、八億……!?」
春菜の目の色が、一瞬で変わった。アパレル広報の鋭い計算脳が、一瞬で「年収」ではなく「総資産八億」というバフの凄まじさを弾き出した。
「ええ。金田様は、ご自身の資産を共にラグジュアリーに消費し、美を維持してくれる女性をお探しなのです。……牛嶋様。瀬戸様のような『筋肉の規律』を求める男よりも、貴女のその……国宝級のスタイルを、資産の力で全力で甘やかし、肯定してくれる男性の方が、よほど『合理的』だとは思いませんか?」
春菜は、じっと金田充を見た。
資産八億円という圧倒的な黄金のオーラ(バフ)を通してみると、先ほどまで「パッとしないヒョロガリ眼鏡」に見えていた金田の姿が、不思議と「繊細で、知的な、母性本能をくすぐる可愛い年下系男子」に見えてくるから不思議だ。
「……まあ。よく見ると、お肌も綺麗だし、眼鏡のフレームを変えれば、ハイブラのモデルっぽく見えなくもない……かしら?」
「本当ですか!? 僕、髪型も服も、牛嶋さんの好みに全部変えます! 毎日デパコスでも高級エステでも、好きなだけ行ってください!」
金田が熱烈にアピールする。
「……斉藤さん。私、公務員の貴方の顔を立てて、今回はこの男の人と『お試し面談』をしてあげてもいいわよ?」
春菜はフンと胸を張り、余裕の笑みを取り戻した。
「ありがとうございます。では、今週の土曜日、門前仲町のカフェでセッティングさせていただきますわ」
私は、お腹の腹直筋を緩め、ようやく静かに息を吐き出した。
土曜日、午後二時。江東区門前仲町。
下町の風情とお洒落なバルがひしめくこの街のカフェ『門仲珈琲』にて、お見合いが執り行われた。
私は、二人の席の対角線上にある、柱の陰の席に陣取っていた。
今日の私は「密偵」である。もし春菜がまたトラブルを起こしたり、金田様が彼女の我が儘に圧倒されて破談にでもなれば、RAJの損失は大きい。そのため、私は私服のタイトスカート(安全ピン3本仕様)で、じっと二人の様子をモニタリングしていた。
しかし、私の心配は、文字通り「カロリーの無駄摂取」に終わった。
「充くんって、本当に私のことを分かってくれるのね。この前お見合いした男なんて、私にいきなり腕立て伏せしろとか言ってきて、本当に最悪だったのよ?」
「信じられないな! 春菜さんは、ただそこに座って美味しいフレンチを食べているだけで完璧なのに。僕、門仲に購入したタワーマンションがあるんです。2時間後にインテリアコーディネーターに来てもらう予約しているから、今から僕の部屋で一緒に打ち合わせしませんか?」
「えっ、タワマン? しかもインテリアの打ち合わせ!? 行く行く! 充くんって、本当に決断力があって素敵だわ!」
出会ってわずか三十分。
二人は、驚異的なスピードで意気投合していた。金田の「圧倒的な全肯定」と「資産八億の財力」は、春菜の傷ついたプライドを完全に癒やし、バルクアップさせていた。
しかし、その会話を盗み聞きしていた私は、柱の陰でメニュー表を握りしめたまま、思わず眉をひそめた。
(……ちょっと待って。2時間後にインテリアコーディネーターですって?)
私は手元のスマートウォッチで時間を計算する。ここから門前仲町のタワーマンションまで移動するのに、せいぜい十分か十五分。つまり、彼らの部屋にコーディネーターがやってくるまで、丸々一時間半以上の「空白の時間」が存在することになる。
(2時間……。それってつまり、ホルスタインの牛タン炙り(前菜)からの、いきなりメインディッシュ(本番)ってことかしら……!?)
独身男性の部屋に、出会って三十分の男女が、二人きりで一時間半。
何が起きないはずがない。私の脳内データベースは、お役所の健全なマッチングプロセスを遥かに飛び越えて、大人の深夜帯の展開を邪推していた。
あのひょろひょろとした金田様が、資産八億のバフを背景に、あの猛獣のようなホルスタイン7号をいきなり自室のベッドルームへとエスコートする。そのスピード感、その肉食ぶり。
「……まあ、お盛んなことで。公務員の領分を完全に超えてるわね」
春菜は金田の細い腕に自分の豊満な胸をこれでもかと密着させ、金田は鼻の下を限界まで伸ばしながら、二人は仲良くカフェを出て、そのまま門前仲町の彼のマンションがある方角へと消えていった。
私は、柱の陰で大きく胸を撫で下ろした。
あまりのスピード展開に、腹筋の力が抜け、スカートの安全ピンが一本「パチン」と軽い音を立てて外れたが、そんなことはどうでもよかった。
(……これでいいのよ。スペックで世界を測る麗奈様や、外見の華やかさを求める牛嶋さんには、それぞれに相応しい『正解』がある。……数字やデータじゃない場所で響き合う私と慎治さんとは、住む世界が違うんだから)
私は、バッグに入ったプロテインシェイカーを一口読み、彼らの幸せな(そしておそらく超特急な)門出を心から祝福しながら、家路についた。
*
そして、一週間後の月曜日。
「美緒さん!! 大変です! RAJのシステムが、また別の意味でフリーズしました!」
朝一番、青山愛が叫びながら私のデスクに飛び込んできた。
「何よ、今度は何が弾けたの?」
「これです! 先週お見合いしたばかりの、金田様と牛嶋春菜のファイルなんですけど……今朝、オンラインで『成婚退会届』が届きました! 理由の欄に【出会ったその日にタワマンで愛のインカムゲイン(成婚)が確定したため】って書いてあります!」
「……はぁっ!?」
私は思わず立ち上がった。その拍子に、私の腹直筋が最大出力で収縮し、11号スカートのメインホックが「ピシィィィン!」と音を立ててデスクの向こう側へと弾け飛んだ。
「ちょっと、美緒さん! ホックが私のスムージーに入りましたよ! それより早すぎませんか!? 出会って一週間で籍を入れる勢いですよ!」
「……早すぎる、なんてレベルじゃないわね。さすがはデイトレーダー、人生のポートフォリオの決済スピードも秒単位ってわけね……。あの2時間のタワマンの時点で、すべてが約定してたのよ……」
私は、ずり落ちそうになるスカートのウエストを両手でガシッと掴みながら、呆然とファイルを眺めた。
通常、役所のマッチングシステムでは、成婚に至るまで数ヶ月の交際期間を要するのが一般的だ。しかし、彼らは出会ったその日にスピード決済を行い、一週間で成婚という、RAJの歴史上最短にして最速の「マッスル・レコード(?)」を叩き出したのだ。
「……まあ、いいじゃない」
私は、引き出しから予備の安全ピンを取り出しながら、不敵に笑った。
「これで、ホルスタイン7号も江東区の既婚者枠に収まったわけだし。少子化対策としては大勝利よ」
「そうですね! 美緒さんのホックの犠牲は無駄じゃなかったです!」
「うるさいわよ、青山さん」
窓口の向こう、江東区の空は、今日もどこまでも青く、無慈悲に晴れ渡っていた。
私の11号のスカートは、今日も新しい安全ピンによって、ギリギリの規律を保ちながら、次なる「戦い」へと備えるのだった。




