第9話「凍らせるな、守れ」
レオンが壁に叩きつけた騎士が、白目を剥いて崩れ落ちる。
それを見たロベルト・グライスは、顔を引きつらせながら叫んだ。
「反逆者レオン・グランヴァルトを制圧せよ!」
残る三人の騎士が、一斉に動き出した。
完全武装の彼らは、王都騎士団のエリートたちだ。
それぞれが手にした白刃には魔力が込められ、空気を切り裂くような鋭い音を立ててレオンへと殺到した。
三方向からの同時攻撃。
並の剣士なら、一呼吸で斬り伏せられる連携だった。
しかしレオンは腰の剣すら抜かなかった。
「その程度で、俺の後ろに届くと思うな」
地を這うような低い声と共に、レオンが僅かに身を沈めた。
正面の刃を半身になって紙一重でかわし、がら空きになった胸当てに強烈な掌底を叩き込む。
ドンッ!という鈍い衝撃音と共に、大柄な騎士の体が宙を舞い、黒板に激突して気を失う。
左右から迫る残り二人の連携も、レオンは背後に目があるかのように体を捻って躱す。
そのまま足払いで体勢を崩させ、鳩尾への容赦ない膝蹴りで一瞬にして沈めた。
「ぐはっ……!」
騎士たちは苦悶の声を漏らし、その場に崩れ落ちて動かなくなった。
開始から数秒。
三人の完全武装の騎士が、剣すら抜かない元勇者の前にあっけなく無力化されたのだ。
「ば、馬鹿な……っ」
ロベルトは顔を青ざめさせ、後ずさりをしながら震える声を上げた。
王都の精鋭が、手も足も出ない。
これが魔王を討ち果たした、本物の勇者の力。
理屈では知っていても、実際に目の当たりにしたその圧倒的な暴力の前に、ロベルトの足はすくんでいた。
だが彼は王国教育局の査察官としてのプライドとミリアへの異常な執着から、強硬手段に出ることを選んだ。
「何をしている!奴はただの素手だ!守りながら戦うことなど不可能なはずだ!」
ロベルトは残る一人、最後尾に控えていた対魔法用の魔導盾を持った騎士に向けて怒鳴りつけた。
「あの化け物を狙え!氷女を拘束すれば、奴も手出しできなくなる!」
その卑劣な命令に、エリスが「ロベルト査察官!恥を知りなさい!」と激昂する。
しかし命令を受けた騎士は、レオンではなく、彼の背後にいるミリアへと一直線に突進した。
青白い光を放つ魔導盾を構え、ミリアの体を直接盾で打ち据えて気絶させようという魂胆だ。
「や、やめて……っ!」
ミリアは両手で頭を抱え、悲鳴を上げた。
怖い。
痛いのは嫌だ。
あの恐ろしい金属の首輪をつけられて、暗くて冷たい牢獄に閉じ込められるのは絶対に嫌だ。
ミリアの心の中で、恐怖と絶望がどす黒く膨れ上がっていく。
私を庇って先生が傷つく。
クラスの皆も巻き込まれてしまう。
やっぱり私は、生きていちゃいけない化け物なんだ。
自分の存在を否定する強烈な自己嫌悪が、彼女の魔力を限界まで暴走させた。
「あ、あああぁぁぁっ!!」
ミリアの口から、張り裂けるような絶叫が漏れた。
次の瞬間、昨日の森で見せた暴走を上回る冷気が教室全体へ一気に広がった。
床は分厚い氷に覆われ、窓ガラスが内側から弾け飛ぶ。
白く濁った空気の中で、猛烈な吹雪が視界を奪っていった。
「ヒッ!?」
突進してきた騎士が、あまりの冷気に恐れをなして足を止めた。
ミリアの暴走する冷気は、騎士だけでなく教室にいるすべてを飲み込もうとしていた。
ガルドの机が凍りつき、彼が咄嗟に放った黒炎すらも一瞬で凍結して掻き消される。
セレスは悲鳴を上げてノートを落とし、ノアは本を抱え込んで身を縮めた。
リュカは獣の本能で危機を察知し、床に爪を立てて耐えようとする。
このままでは、ロベルトの騎士たちだけでなく、エリスも、クラスメイトたちも全員が氷の彫刻と化してしまう。
ミリアは泣き叫びながら、自分の中から溢れ出す破壊の力を止められずにいた。
レオンの視界が赤く染まり、ミリアの頭上に浮かんでいたあの文字が、激しく明滅して浮かび上がった。
『【未来の氷獄魔女】死亡者数、二百万人。破滅原因:孤独』
未来の災厄が、今まさに教室全体を飲み込んで産声を上げようとしている。
ロベルトは狂気じみた笑い声を上げた。
「見ろ!やはりあれは化け物だ!誰も生かしてはおかない災厄だ!」
絶望的な冷気が教室を支配しようとした、その直後だった。
レオンが迫っていた騎士の魔導盾を力任せに蹴り飛ばし、吹雪を切り裂くような大声で叫んだ。
「ミリア!!」
その声は、暴走する猛吹雪の轟音すらも超えて、ミリアの心の奥底に真っ直ぐに突き刺さった。
ミリアはハッとして、涙で滲む目を開けた。
レオンは吹雪の猛威に一歩も引くことなく、彼女に向かって真っ直ぐに手を伸ばしていた。
その手は、手袋も防具もない素手だった。
それでもレオンは、ミリアの氷を恐れる様子など少しも見せなかった。
「凍らせるな!守れ!!」
レオンの力強い言葉が、ミリアの脳裏に昨夜の記憶を鮮明に蘇らせた。
『お前の力は人を傷つけるための呪いじゃない。使い方次第で誰かを守る立派な盾になるんだ』
そうだ。
私はもう、一人で怯えるだけの化け物じゃない。
私には、何度でも手を取ってくれる先生がいる。
そして後ろには、不器用だけど言葉をかけてくれたクラスのみんながいる。
私がみんなを凍らせてしまうわけにはいかない。
(お願い……!みんなを、守って……!)
ミリアは両手に力を込め、はめられた黒い手袋を強く握りしめた。
手袋の魔力抑制の術式が、彼女の意志に呼応するように静かに光を放つ。
彼女は自分の内に渦巻く恐怖と絶望を、明確な『守る』という意志へと変換したのだ。
直後、教室中を暴れ回っていた猛吹雪が、嘘のように一瞬にして集束した。
ガァァァァンッ!!
凄まじい轟音と共に、ミリアとクラスメイトたちの周囲を囲むように、分厚く巨大な透明の氷の壁がせり上がった。
それは床から天井までを完全に覆い尽くす、美しい半円形のドーム状の防壁だった。
ドームはミリアだけでなく、背後にいたガルド、ノア、セレス、リュカの四人、そして前に立つレオンをも完全に内側に包み込み、騎士たちの脅威から彼らを守り抜く形となっていた。
「な、なんだこれは……っ!?」
態勢を立て直して切りかかろうとした騎士の剣が、氷壁に激突してガキンッと弾き返される。
壁は一切の傷を負うことなく、ステンドグラスのように冷たくも美しい輝きを放ちながら、そこに凛然とそびえ立っていた。
無差別な破壊をもたらす冷気はもうどこにもない。
ただ、内側にいる者たちを絶対に守り抜くという、強固な意志だけがそこにあった。
氷壁の内側で、恐怖に身を縮めていた生徒たちはゆっくりと顔を上げた。
自分たちは凍っていない。
それどころか、ミリアの作り出した巨大な氷壁によって、王都の騎士たちの暴力から完全に守られているのだ。
ガルドは自分の目の前にそびえ立つ透明な氷壁を見上げ、それからミリアの小さな背中を見た。
彼はポケットから手を出して頭を掻き、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「……やるじゃねぇか、氷女」
その言葉は、ぶっきらぼうだが、確かな賞賛と信頼の響きを含んでいた。
セレスは開いた口を扇子で隠し、信じられないという目でミリアを見つめている。
ノアは無言のまま骨の鳥をそっと撫で、リュカは丸めていた体を起こして尻尾をパタパタと揺らした。
誰も、ミリアを化け物として恐れてはいなかった。
自分たちを守ってくれた、驚くべき力を持つクラスメイトとして見つめていたのだ。
「馬鹿な……馬鹿な馬鹿な!!」
氷壁の外側で、ロベルトが頭を抱えてわめき散らした。
「あれほどの魔力暴走を、一瞬で完全な防御魔法に転換しただと!?あんな高度な制御、王都の筆頭魔術師にすら不可能だぞ!あれは……あれは一体なんだ!!」
ロベルトの顔は恐怖と屈辱で歪んでいた。
彼が持ち込んだ『危険な化け物』というレッテルは、今この瞬間、ミリア自身の行動によって完全に打ち砕かれたのだ。
レオンは氷壁の内側から、ロベルトに向かって冷たく言い放った。
「見れば分かるだろう。俺の自慢の生徒だ」
そう告げると、レオンはミリアへ軽く目配せした。
ミリアは小さく頷き、氷壁の一部を静かに溶かす。
レオンの前に外へ出るための通路が開いた。
レオンは一歩外へと踏み出した。
「これ以上やるなら、次は手加減じゃ済まさない。王都に帰って、上の連中に伝えておけ。辺境学院の生徒に手を出すなら、この元勇者レオン・グランヴァルトが相手になるとな」
レオンの放つ本気の殺気に、ロベルトは尻餅をつき、騎士たちも恐怖に顔を青ざめさせて後退った。
さらに、エリスが追い打ちをかけるように前に出る。
「ロベルト査察官!今の不当な武力行使と規定違反について、私は学院長代理として教育局本部に正式な抗議文を提出します!覚悟しておきなさい!」
エリスの凛とした怒りの声に、ロベルトは完全に戦意を喪失した。
彼は這うようにして立ち上がると、気絶した騎士を抱え起こす部下たちと共に、捨て台詞一つ残す余裕もなく逃げるように旧校舎から走り去っていった。
王都からの理不尽な暴力が、完全に退けられた瞬間だった。
教室に静寂が戻る。
ミリアは両手を突き出した姿勢のまま、荒い息を吐いていた。
彼女の顔には疲労が浮かんでいたが、その瞳にはこれまでになかった強い光が宿っていた。
自分が、みんなを守った。
暴走しそうになった力を、自分の意志で抑え込み、盾に変えることができたのだ。
レオンがゆっくりと歩み寄り、ミリアの頭にそっと手を置いた。
「よくやった、ミリア。お前はもう、誰も傷つけない」
その大きくて温かい手の感触に、ミリアは小さく頷いた。
彼女の目から溢れた涙は、凍ることなく手袋を濡らした。
「はい……っ、先生」
氷壁に守られた教室の中には、冬の寒さなど感じさせない、確かな温もりが満ちていた。
氷獄魔女になるはずだった少女は、今、仲間を守る盾として大きな一歩を踏み出したのだ。




